初号機、そう名付けられた巨人は力つきたように大地に座り込んだ。
装甲はあちこちを剥ぎ取られ、数カ所には槍のような物が突き刺さったままだ。
だがそれでも勝った。


最後の戦いに勝ったからこそ座り込む事が出来た。
その機体の周囲には白い仲間が無数の破片となって散らばっている。

爆炎と熱風に曝され赤茶けた大地、其処にはもう一機深紅の機体が倒れていた。
無数の槍を全身に受け、体中を引きちぎられ、原型を留められないほどの状態だ。

勝つ、それは無傷で得ることは出来なかった。
多くを失い、多くを傷つけ、多くを殺すことでやっと得たのだ。
深紅の機体もそのパイロットも、恐らくはそんな無数の犠牲の小さな一つだったかもしれない。

全体から見れば。

 

初号機のパイロットの網膜に映し出された光景は「小さな犠牲」では済まないようだ。
エントリープラグが鈍い音を立てて引き出され、少年が走り出した。
それを追うように駆けつけたジープから一人の女がその後を追う。

がらくたと化した赤い巨人に縋るように操作パネルを押す。

エントリープラグ、その中にパイロットが居るはずだ。

L・C・Lが少年の開けたハッチの隙間から流れ出す。

赤、機体と同じ色の液体。

「シンジ君! 見ちゃ駄目ぇ!! 」

女の手が少年の腕を握りしめ引っ張ろうとしたが、その体は動かなかった。

シンジの網膜に焼け付いた光景。

パイロットだった少女。
生きていた少女。
栗色の髪のなびかせ、自信と自負に溢れた少女。
それは記憶という名の網膜に焼け付いたかつての少女。
今彼の眼球の奥にある網膜には引きちぎられ、かつての面影が見いだせない命の残骸が転がっているだけだ。

全身を自らの血で染めた赤い衣を纏い、蒼い瞳を失った表情のない顔……

ちぎれたアスカ。

引きちぎられたアスカ。

かつては生きていたアスカ。

「あ…………あ…………あ………………………………あああああああああああ!!! 」

何かが壊れていく。
心の中で何かが壊れていく。

誰かの声で現実に引き戻されるまでそれは続いた。





「ちょっと! 五月蠅いわね、このバカシンジ!! 耳元で大声出さないでよ!! 」

 




 


えんでぃんぐ

 

 

 




「で、どういうことか説明してくんない?あたしは頭痛くなっちゃうしシンちゃんはそこでダウンしちゃうし……」

旧NERV作戦本部長、葛城ミサト三佐は長く伸ばした黒髪をボリボリ掻きむしりながら疲れ切った表情を背後に向けた。
忙しいせいで此処二、三日風呂に入っていないので頭に限らず全身がどうも痒い。

「リツコさん……説明してよ……どうなってるんだよ」

椅子を並べたベットで半病人のような顔でシンジが訴える。
精神的ショックが重なったせいだろう、顔色は悪いし元々さして高くない理解力も今はどん底だ。
説明されたところで理解できるかどうかは判らないがとにかく何かを聞きたかった。
でなければこの状況を耐え切れそうにない。

「何よそれ! あたしが生きてちゃ具合が悪いわけ!? 」

シンジとミサトが疲れ切っている原因が大声を上げ抗議した。

「そんなこと言ってないだろ……でもさぁ……あ、立ちくらみが……」

上半身を起こしはしたが再びヘナヘナッと寝込んでしまった。

「あたしはこうして元気なの! それでいいじゃない!! 」
「元気ねえ……こう言うのは元気って言わないと思うわぁ……あたし」

プラグスーツを着込んだ少女、惣流アスカ・ラングレーは仁王立ちしたまま情けない二人を見下ろした。
シンジとミサトの元気の無さが気に入らない、自分がこうして元気ならもう少し喜んでもいいではないか。

「アスカァ……あんた自分の状況判ってる? これ変だと思わない? 」

ミサトの手がアスカにそっと伸び肩を叩く。
本人はそうしたつもりだったが何の手応えもなく、その手はしたまで振り下ろされた。
アスカの身体をミサトの手が通り抜けた。
どう見てもそうとしかとれない。
実際今も彼女の手はアスカのお腹の辺りにある。

「ミサトさん、止めてよ……気色悪いから……」
「でもシンちゃんよく見てみなさいよ。ほら、ほら、ほら、足で蹴ってもこの通り」

何をしてもアスカの身体を通り過ぎてしまう。
何の手応えもないのだ。
これで「あたしは元気」と言われても、そう素直に彼女の無事を喜ぶ気になれないのも無理はない。

「ちょっと、人の身体で遊ばないでよ。ちょっと変わっただけで後は一緒じゃない?」
「ちょっとねえ……」

初号機格納ケイジ内では滅多に見れない、見たくもない光景が繰り広げられた。

「リツコ! 説明して! それも納得いく奴」

ミサトの声が荒くなる。
さっきからモニターに注目したまま動こうとはしない赤木リツコ博士につい苛立ってしまった。

「五月蠅いわね。騒げば答えが出てくると思ってるの? 」
「五月蠅くしないと知らん顔じゃない! ホント……どうなってるのか教えてよ……」

とうとうミサトに泣きが入った。
可愛げも無く、くそ生意気な小娘だがそれでも一応同居人だ。
このまま放っておくには少々冷酷さが欠けていた。
一連の騒ぎがやっと終わったので寛容になっているのだろう。
忙しいときはほったらかしの癖にいい気なモンだ。

「まあ、ハッキリ言って今のアスカに実体はないわね。映像みたいな物よ」

転がっていた棒を拾い上げるとアスカの頭から振り下ろす。
さっきと同じように身体をすり抜けたが、アスカも別段痛みも感覚もないらしく平気な顔だ。

「言ってみれば映写機で映し出した単なる映像に過ぎないわ。本体はあの中ね」

リツコの指先を全員が見つめる。

スクラップと化した弐号機、もう二度と動くことはない。
そうなるまでの経緯はともかくとしてアスカは確かにエントリープラグの中で機体と同じ姿になったはずなのだ。

それがエヴァを操る代償だ、なのに今アスカは目の前でのほほんとしている。

「アスカが死ぬ寸前、魂だけは弐号機のコアに吸収されたのよ。その辺りのメカニズムはともかくとしてつまり……」

目が点になったミサトを小気味良さそうに眺めながら、水の満たされたコップを掲げる。
自分の顔の高さまで持ち上げると不意に手を離した。
当然重力の支配下にあるので落下し地上で砕け散った。

「人の身体がコップなら魂はその中に入っている水。身体が壊れればこうして零れだして、蒸発し消滅する。だけどアスカの場合……洗面器の上でコップが割れたような物で零れた魂はエヴァのコアに回収されたのよ」

出来ればその辺りも実演して見せたかったが、生憎とリツコの手元には洗面器もコップもなかったので言葉だけの説明となった。

「つまり……幽霊の親戚? 」
「似たような物ね。アスカの意識がエヴァの器官を通して映像化してるだけよ。だからこんな事やあんな事やそんな事しても……」

手にした拳銃をアスカに向けて弾倉に詰まった弾の数だけ撃ち尽くす。
そして足下に転がっている戦自正式機銃を同じように発砲。
最後には手榴弾をアスカに向けて放り投げた。

壁に大小さまざまな穴が開き、爆風がシンジ、ミサト、リツコの髪を揺らす。

「何するのよ!! このクソババァ!! 」
「とまあ、映像に過ぎないから何ともない訳。クソ生意気なところもそのまんまね」

さっきまで寝込んでいたシンジがようやく身を起こす。
 
「アスカは……生きてるって事? 」
「あたしが死んでるように見えるわけ? あんたの目玉ってホント何の役にも立たないのね、このボケナス! 」

恐らくは死んではいないだろう。
この口の悪さは死人では絶対無理だが、だからといって生きているとも言いがたい。

「生きてるとも言えないわね、さっき言ったようにアスカの肉体は壊れているわ。魂だけの存在を生きてると言うのは生物学上……」
「生物学は置いておくとして現実問題アスカは此処にいるのよ……リツコ、教えて……これからどうしたらいいの……」

ミサトは頭を抱えたまま呻くような声を上げた。
実際この中途半端な娘をどうしたらいいのか持て余しているのだ。
死人として思い出の中にしまい込むのか、それとも生きている人間として今後も対応していくのか。

「そうねぇ……取り敢えず食堂に行ってお茶でも飲まない? あそこは無事な筈よ」

 

***

 


特務機関NERV。

かつてはその脅威を日本政府に見せつけ、彼等を顎でいいようにこき使った悪魔のような組織。
実際そこの司令は悪魔の親戚筋に当たるらしい。
そんなNERVだったが、彼等の親分である国連から三行半(みくだりはん)を叩き付けられたため、ここぞとばかりに日本国所属の戦略自衛隊が今までの恨みを晴らしに来たのだ。

本来ならNERV本部内は血みどろグチョグチョ死体ゴロゴロの惨状になる筈だったのだが……

「このあたしが何で戦自如き脇役どもの風下に立たなければいけないのかしら? 」

というリツコの一言でMAGI防衛システムが発動されてしまった。
裏面には「あたしがいつまでもヒゲ親父にひっついてると思うの? 」という声にならない声もある。
NERVのみんなに内緒でこっそり仕掛けた秘密兵器の数々は、その陰険さを思う存分発揮して戦自の潜入部隊をいじめ倒したのだ。
さてそこで埒の開かなくなった某秘密結社は白いロボットを大量投入。
だがそれはNERV作戦本部長、「酔っぱらい猪」の異名をとる葛城ミサト三佐の立てた作戦の前に脆くも崩れ去った。

ちなみにその作戦内容は

「二人をエヴァに乗せて放り出して! きっとそれで何とかなるわよ」

それで何とかなってしまうところが凄い。
シンジの叫び声とアスカの悲鳴が発令所に心地よく響きわたる。
子供は甘えさせるとキリがない、ミサトの教育方針だ。

シンジが叫ぶ度に一機、シンジが泣き出す度にまた一機と白いエヴァを迎撃していく。
その内夢中になりすぎてアスカをほったらかしにしたところが彼らしい。

シンジの顔に怪しすぎる笑みが宿る頃、全てが終わった。
そしてほったらかしにした代償は幽霊アスカという奇妙な物を生み出していた。



ほろ苦い香りが彼等の鼻腔をくすぐる。
ついさっきまでは硝煙と焼けこげる臭いだけだったので、よりいっそうその香りが心地よく感じる。

「シンジ君、砂糖は幾つ入れる? 」
「あ……二つ……」

リツコの細い指はテーブルに転がっている砂糖壺を取り上げ、白い粒子を漆黒の液体に溶かし込む。

「自販機のコーヒーだから味は保証しないけど……どうぞ、お疲れさま」

シンジは両手で紙コップを受け取ると口に運んだ。
ほろ苦さと微かな甘みが混じり合い、何となく切ない気分になる。

「自販機が壊れて紙コップが出てこなかったの。健康診断用の検尿カップだけど我慢してね」

切ない気分は一気に泣き出したい気分へと変わる。

「ミサト、あなたは砂糖一つでいいの? 」
「……いらないわ……へへへへヘッ」

しばし無言の時が流れる。
何しろ色々有りすぎて頭の中を整理しなければ何も思いつかなかった。
これからどうなるのか、サードインパクトはどうなったのか等々、組織の建て直しを考えただけでも頭はパンク状態になる。
それより何より目の前で煙のように浮かんでいる少女を何とかしなければならないのだ。

「さて、アスカをどうするか、まずはそれから考えましょ」

ミサトは当面の目標を目の前の少女に設定した。

「そこで……アスカは元に戻るの? 」

シンジの動きが止まる。
疲れに任せて無視していた疑問が、さしてディスクスペースのない彼の頭を埋めていく。

今のアスカを生きているとは言い難い。
勿論肉体が死んで魂も消滅、と言う事態よりは何倍もましだ。
しかし今のままでずっと……というのは決して良い事じゃないはずだ。
検尿カップを強く握りしめ中身のコーヒーを溢れ出させる。
両手に熱いコーヒーが流れるがそれにも気付かない程、シンジは固まっていた。

「シンジ君……」

ミサトがハンカチを取り出して彼の手を拭い、熱で赤くなった手に打ち身治療用の冷却スプレーを吹き付けた。

「あ……スミマセン……」
「ううん……リツコ、答えて。アスカは元に戻るの?」

それに答えたのはリツコではない。

「ちょっと何勝手言ってるのよ。あたしは今のままでいいわよ、何か気分いいし」
「アスカ! 黙ってなさい!! 」

ミサトの一喝はアスカの口を封じるのに充分だった。

「話途切れたわね、アスカは元通りに戻せるの? 答えて」

微かな笑みが金色の髪を揺らす。

「あたしは魔法使いじゃないわよ、出来ることと出来ないことがあるわ」

その答えにもっともショックを受けたのは他ならぬシンジだったのかもしれない。
椅子を倒して立ち上がるとリツコを睨み付けた。

彼女が悪い訳じゃない。
だが彼女に責任がないわけじゃない。
それを許す資格が自分にあるとは思わない。
だが責める権利がないとも思わない。

「直してよ……アスカを……」
「どうして? 本人は気に入ってるみたいじゃない、今のありさまを。無理に……」
「直してよ!! 」
「シンジ君、アスカはあなたの人形じゃないのよ。彼女が望まない以上あたしは直す気にはならないわね。ましてやシンジ君の頼みを聞かなければならない義務はあたしにはないわ」

これ以上はないほど冷たい視線がシンジを貫く。

「ちょっとシンジ! あんた何ムキになってるのよ。リツコの言うとおりじゃん。あたしは別に元に戻りたくないしこのままでいいって言ってるのよ。あんたやミサトが大騒ぎする必要なんてこれっぽっちも無いんだから」

シンジの上空でアスカがケラケラと笑い声を立てた。
まるで小石を投げつけられているような気分になる。

想いがいつも通じる訳じゃない。
想いにいつも答えて貰える訳じゃない。
自分だけの空回りなんて良くあることだ。

「……あっそ、なら放っておくわ。シンジ君、あたし達は帰ろう。もうこれ以上は何もする気ないし」

疲れ切った、そう言い切るには含みのある表情を残してミサトは立ち上がり、シンジをも立ち上がらせる。

「アスカ、とにかくお互い落ち着いたら結論出しましょう。ま、暫くそのままで居るのも悪くないかもね」



シンジは病室で一時休憩。
アスカはその辺を浮遊。
そしてミサトとリツコは今、セントラルドグマにいた。

「で、本当のところどうなの?アスカは……」
「元通りになるわよ。さっきも言ったようにコップが砕けたわけだからそれを繋ぎ合わせるなり新しくコップを作るなりすればいつでも元通りね」

勿論普通ならちゃんと死んでいる。
だがアスカの場合魂がまともな形で残っているのだ。
リツコはさっきシンジにこう言った、アスカにその気がないのなら直さない、と。
逆に言えばその気があるなら直すことが出来ると言うことだ。
逆上したシンジはそんなことに気付くはずもないがミサトは彼より遥かに冷静だった。

「コップって……あの子の身体自体は死んでるはずじゃぁ……」
「L・C・Lに浸かってたのよ……細胞自体はそう簡単に死なないわよ。そこで回収したんだけど」

リツコは手元にあるリモコンのスイッチを押す。
鈍い機械音と共に床から筒のような物がせり上がってきた。

「L・C・Lに漬けておけば死ぬことはないわ。栄養も酸素も細胞レベルで直接供給されるから。ちぎれた手、足、眼球、臓器の大半も無事だったから繋げれば大丈夫だわ」

筒の全てが上昇するとリツコはそれをライトで照らし出した。
勿論ミサトへの嫌がらせだ。

「うっ!!……あ……あ……………………」

形容しがたいモノが不気味に浮かんでいた。
なまじ人の顔を持っている分、それも今まで良く見知った顔の分、嘔吐感は増す。

「リ、リ、リ、リリリリリリリリリリ……」
「ホルマリン標本だと思えば大したことないと思うけど……まあ、遺体になりかかったアスカの身体よ」
「あげM&\V!`@`$$`KX(A:`*02?8`T(%]2Q-VV[_NQATP:30%76/7$5)\KX(%^`@!%"MP*@D_I4X」

もう言葉にならない。
あまりのショックの大きさに言語中枢が麻痺したようだ。

「何が言いたいのか判るわ。この状態でどういうふうに戻るかそれが聞きたいんでしょ?さっきも言ったように細胞レベルでは蘇生しているの、栄養も補給されてるしね。後はLCLの復原作用とアスカの身体自身で勝手に再生するわよ。ほら、爪を切っても伸びてくるみたいに」
「そ……そう……悪いけどとにかくそれしまって……」

ミサトのお願いは聞き入れられ、再びリモコンのスイッチが押されるとアスカの身体が漬け込まれている筒は静かに床下へと沈んでいった。
やがて照明も消された薄暗い部屋に二人の顔だけが浮かび上がる。
殊更演出したわけではなく電気が止められているので無駄な明かりはつけられないのだ。

「シンジ君にちゃんと言ってあげればいいのに。直せるってさぁ・・・・底意地悪いのねえ」

兎にも角にもアスカを元に戻せることが判りミサトにも余裕がでてきた。
疲れた顔にも一応笑顔らしきモノが戻る。
そんな彼女をあざ笑うかのようにリツコは口を開いた。

「シンジ君のこと覚えてる?シンクロ率400%事件。あの時彼は帰るのを一旦は拒んだのよ、その時はサルベージ失敗したわよね……」
「!!」
「さっき彼女言ってたでしょ? このままでいいって……あたしは魔法使いじゃないからアスカの意志までは変えられないわよ」

 

***

 


この部屋に楽しい思い出があるか?



それ以前に楽しい思い出はあったのか?



「ちょっと、何お腹の痛そうな顔してんのよ! やっと帰ってきたんだからお茶でも入れたら?」

そう、思い出す事と言えばいつもこんな調子でこき使われていたことぐらいだ。

「何かぁ、ひっさしぶりの我が家って感じぃ。ねえ、さっさとお風呂の支度してよ。それとあたしが上がる前に夕飯の支度もやっといてねぇ」

幽霊になろうが魂の映像になろうがアスカはアスカだ。
「それでも好きだ! 」などというのではなく、「どんな姿しようとこうして威張り散らすんだろうなぁ」と悲しげな想いがシンジを満たしていく。

久しぶりに聞く彼女の我が儘は、やはりアスカのまんまだ。
幽霊になったぐらいじゃ変わらないらしい。

「いいけど……お腹空いてるの? 」
「空いてちゃいけないの? 晩御飯食べてあげるからさっさと作りなさいよね! 」

今ひとつ納得のいかない顔ではあったが暫く誰も使わなかった浴槽を洗いお湯を張り、足拭きマットを敷いて入浴の準備を整える。
シンジだってさっさと今日は休みたかったが、そんなことを口にしたら何を言われるか判ったモンじゃない。

「お風呂の準備は出来たけど……アスカ? アスカ? 」

さっきまでその辺に浮かんでいたアスカが見あたらない。
辺りを見回したが影も形もなかった。

「待ちくたびれて何処か行っちゃったかな……まあ、いいや……」

ダイニングテーブルに腰を下ろすと大きく背伸びをした。
ミサトの話ではこれで一件落着、らしい。
結局何が何なのか思いっきり当事者をやっているはずのシンジにも判らない。

サードインパクトは? エヴァって何? 使徒って何?補完計画って?

何れの答えもシンジの手元にはない。
いや、ミサトやリツコ、ゲンドウでさえ、持っている答えは恐らく一面に対してだけのものだろう。

『そんなモンよ、世の中って。いろんな人間が居るんだから答えなんて出っこ無いじゃない』

ミサトの言葉は明らかにゴマカシだ。

「もっともらしい事言えば納得すると思ってるんだもんなあ……」

もっとも今更回答が欲しいとは思わない、もう終わったのだ。
何もかも中途半端だろうが、適当だろうが、いい加減だろうが、つじつまが合わなかろうが終わりは終わりだ。

今更正解を見たところで結果が変わるわけがない。

自分達は生き残った。
それが正しかろうと何だろうと生き残って明日も生きていかなければならない。
理屈や道義的責任は後で考えよう。
特に責任云々はミサトやリツコに押しつけてもいい。

「上司なんてその為にいるんだ」

誰かさんがそんな事を言っていたが、なるほど名言だとシンジは思う。

「お茶……出が悪いなぁ……味薄いや……」

古いのか若干黄色味がかったお茶、それでも喉の渇きを潤していく。
そして流れる静かな時間。
今まで得体の知れない何かに背中を押されて居るのを感じていたシンジだったが、今では妙な開放感を感じている。

『エヴァに乗れ』何度そう言われただろう。
望みもしない事を強要された日々が頭の中を駆け過ぎていく。
今思えば「イヤだ」の一言で済んだのだ。

「大体使徒が出てきたのだってセカンドインパクトだって父さんのことだって僕のせいじゃ無いじゃないか」

父親やそのお友達が何をしでかそうとそんなのは知った事じゃない。
使徒が出てきたなら自衛隊が闘えばいい、その為に税金取ってるんじゃないか。
ゴジラが出てきたときだって自衛隊が先頭切って闘ってるじゃないか。

人類が滅ぶならそれはそれで結構だ、種の寿命と言う奴でそんなの自分のせいじゃない。
そもそも人類の危機だったらしいがそれだって怪しいモンだ。
シンジ自身そんな危機を見たことなど無い、下手すればノストラダムスの予言と同レベルだったのではないだろうか?
使徒が出てきて大騒ぎしただけで、もしかしたら使徒自身別に人間なんかに用など無かったのではないか?
少なくとも何一つ確実なモンが無いじゃないか。
あやふやな憶測といい加減な推理、こじつけた理由だけで成立した『人類の危機』
思考が回転するほど腹が立ってくる。
何だって年端もいかない自分が何の責任も無いのにあんな目に遭わなければならない。
挙げ句の果てに「逃げてるだけ」や「何もしてない」なんて悪口言われて。

貴重な青春時代を奪った癖に………………

「あああああああああ!! ドチクショウ!!! 腹立つ!! 」

言いなりになってきた今までの自分が無性に腹立たしい。
もし今同じ事を強要されたなら足で踏んづけてゴミ箱に丸め込んでやる。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

一時思考を停止させて零れたお茶をふき取る。

とにかく終わったのだ。

今更過去と結果は変えようがない。
消えた第三新東京市を抱えて日本政府が苦労するだろがそれこそシンジの知った事じゃない。
各国の非合法諜報員が付け狙い始めた某秘密結社がどうなるかなんて、シンジにはまるっきり関係のないことだ。

どいつもこいつも好きにすればいい、自業自得だ。

「明日……買い物しよう。食べる物がないや」

数々の思いを無理矢理しまい込み、ふと戸棚を漁ればレトルトのカレーとカップ麺数個。
食材と名の付く物はない。
今夜はアスカにも我慢して貰って明日はまともな物を作ろう。
市外に行けば何か売ってるはずだ。

とにかく後は明日だ……

「ばぁぁ!!」
「わ!! な!! ななな何だよ!! 何処から顔出してるんだよ……」

唐突に壁から栗色の塊が沸き出した。
それだけでも充分非常識なのだがそれが人の顔、それも良く見知った顔となると驚きはよりいっそう増す。

「スゴイでしょ、こうやって壁とかいろんな物通り抜けられるのよ」

暫く姿を消していたアスカは自分の新しい特性を楽しんでいたらしい。
単なる映像に過ぎないだけあって彼女の障害物となる物はないようだ。

「壁なんてどんなに厚くても関係ないの、ほら、テーブルだって」

スゥッと合板製のテーブルを上から下まで通り抜けた。

「スゴイって言うか……リツコさんさっき言ってたじゃないか。映像みたいな物で実体はないって、だからだよ」
「負け惜しみぃー! 悔しかったら真似してみなさいよ」
「別に悔しくはないけど……ああ、お風呂沸いてるけど……」
「サンキュー、先に入るから晩御飯作ってねー」

さっき納得いかない物を感じていたシンジは風呂場に向かって壁を通り抜けていくアスカを眺めた。

……通り抜けられるんじゃなくて、きっと……ぶつかれないんだ……

実体のない映像、浮かぶホログラム、アスカが描いたアスカ自身の映像。
有頂天になっている彼女は数秒後に此処に怒鳴り込んでくるだろう。
シンジにはその事がすぐ予想できた。

したくもなかったが。

10秒……15秒……20秒……

「バカシンジ!! お風呂入れ無いじゃない!! どうなってるのよ!! 」



「シンジ君……これからどうする?」
「……取り敢えず、明日食料品買い込んで……あ、此処から出て行けって言うならすぐ支度するけど?」

ミサトとシンジが共に暮らすのは『エヴァ』があったからだ。
パイロットとしてのシンジが必要だからミサトと共に暮らすことになったのだ。
もしシンジがエヴァと関わらなければ二人は見ず知らずの他人だったろう。

「そうね、シンジ君はもう此処にいる必要ないもんね。でも……どうせならもう少し此処にいない? 一人で暮らすには……此処広すぎるしね……」

多分、知り合った理由は問題にならないかもしれない。
エヴァ、NERV……そんな物を抜きにしても一緒に暮らせるはずだ。
そんな物を抜きにしてこそ本当の『共同生活』が送れる筈だ。
同じ物を共有しすぎた目の前の少年を追い出すのは、ミサト自身が辛すぎた。

「もう少しって……そうだね……もう少し……」

もう少し、あと一ヶ月、半年、一年……まあ、気の済むまで一緒にいよう。

「で、あたしの夕御飯はどうなるわけ? 」

しみじみとした気分を爆風で吹き飛ばすようにアスカが割って入った。

「どうなるって……食べられないじゃない、あんた」

ミサトのカップ麺は空だ。
シンジのカップ麺も空だ。
しかしもう一つのカップ麺は、もう伸びきって汁が無くなっている。
アスカがどんなに必死に箸を掴もうとしても掴めない。
カップを持ち上げようとしても触れることが出来ない。
最後にはカップに顔を突っ込んだが髪の毛を濡らすこともできなかった。

「さっき今のアスカは映像だって言ったろ? 何も触れないし誰にも触れられないんだよ」
「それってご飯食べれないわけ? 」
「まぁ……そういうことだよね、多分。でも餓死する訳じゃないし安心していいんじゃない? 」

シンジは味のない緑茶を啜りながら不平満々のアスカに目を向けた。
さっき風呂に入れなかったのもそうなのだろう。
ぶつかることが出来ない、即ち何もかもがアスカを素通りしてしまうのだ。
そして彼女自身何も感じ取ることが出来ない。

熱も味も匂いも皮膚感覚も何も感じることがないのだ。

死人のように。

「落ち着いてみればお腹は空いてないから別にいいし……それに身体だって汚れる訳ないのよね」

あくまでも映像なのだ。
実際に食欲がどうなっているのかは判らないが、アスカの意識と肉体の感覚がリンクしていない以上お腹が空いて仕方がないというのもないのだろう。

痛み、痒み、暑さ、寒さ、甘い、酸っぱい、辛い……

人間が括られてきた感覚から全て解放されているのだ。

「これって結構気楽よね、ミサトみたいに歳取らないし。あたしやっぱりこのままで居たいなぁ」
「そういう訳にもいかないだろ……明日リツコさんのところ行って……」
「五月蠅いわね、勝手にそんなこと決めないでしょ! あんた一体何様のつもり!? わたしのことはあたしが決めるわ!! 」

 

***

 


本当の眠りとは死んでいる状態のことだと言う、TVかFMラジオで聞いた布団屋のCMをシンジは思い出していた。
もしかしたら葬儀屋のCMだったかもしれない。
いずれにしても此処数日、いや、生まれて初めてと思えるほどじっくり睡眠をとった。

寝過ぎた、と言うのではなく体中から疲れが全て抜け出して……言ってみれば全身を真っ新の新品に取り替えたような実に爽快な気分だ。
彼が今日から送る新しい生き方を祝福するかのように朝日も輝いた。

「おはよう……非道い有様だね、二人とも」
「二人?アスカならどっか行ったわよ……あたしゃ二日酔いでそれどころじゃ……」

新しい生き方をしようたって、そうは問屋が下ろさない。
まるで地縛霊のようなアスカがダイニングのテーブルに張り付いていた。

「おはよう、寝れた?……訳無いよね……」

地縛霊アスカは安らかな眠りを得ることが出来なかった。
眠気その物が訪れなかったのだ。
布団に潜り込んで……と言うより溶け込んでみても眠ることは出来なかった。
身体が疲れていない。
眠らなくても苦痛にならない。
ただ永遠とも思える時間だけがゆっくりと流れていく、それが苦痛だった。

「すっごい退屈だった……TVも付けられなかったし……」

リモコンに触れないのだから当然TVも付かない、付いたところで番組などやっていない。
食事も出来ず風呂にも入れず暑さも寒さも感じない、闇の中でただ一人、朝が訪れるのを待ちわびていた。

「アスカ……今日買い物付き合わない? 電車で市外まで行くから」
「行く!! 早く支度して!! 」

変化が欲しかった。
唯一機能している視覚と聴覚に刺激を与えたい。
そうでもしないと自分自身腐ってしまいそうだった。
幽霊が「恨めしい」などと言うのもきっとこの辺りが原因だろう。

「早く支度するのはいいけどぅ……シンちゃん、朝御飯お粥にして……飲み過ぎちゃってさぁ」

腐りかかったミサトが部屋で這いずり回っている。
昨日ビールを何本飲んだのか、ボトルを何本開けたのか、記憶がハッキリしない。

「だらしないわね!! それが大人の女の姿!? 情けない……良くそれで偉そうなこと言えたもんね!! 」

相手にほんの少しでも弱みを見つければアスカは幾らでも強気になる。
彼女の金切り声が二日酔いの頭に響きわたった。

「あ……ああ……謝るから静かにして……」
「謝れば済む問題じゃないでしょ! このウワバミ女!! 」
「響くぅぅぅぅぅぅぅ!! ……お願い……静かにして……」

楽しそうにのたうち回るミサトを眺めた。
ミサトにしても一応の決着が付いたことで飲み過ぎたのだろう。
シンジと同じように開放感に浸りながら酒を楽しんだのだ。

ミサトは大人だ。
わたしの責任じゃない、そう言って全てを放り出す訳にはいかなかった。
責任が無くてもやらなきゃいけないこともある、それは30年近く生きた彼女が自分に課した答えだった。
押しつぶされそうになっても、納得いかなくても。

とはいえ飲み過ぎて二日酔いになって苦しむのは、紛れもなく自分の責任だ。

「お粥作るからちょっと待ってて……レトルトのご飯あったなぁ……」

早速シンジは食事の用意をする。
二日酔いは病気じゃないので別に薄味にする必要はない。
コトコトと暫くコンロにかけて塩とコンソメを放り込んで卵落として出来上がり。

「サンキュウ……アフイ……ほふほふ……あっそうだ、あたしゃ今日会議あるから遅くなるから、シンちゃん夕飯は食べちゃってね」

化粧も落ちボサボサ髪の見られたものじゃない姿だが、それでも美味しそうにお粥をかき込む。
それをアスカは羨望の眼差しで見つめた。

……あたしも食べたいな……

無理なのは判る、だが記憶の中に刷り込まれた味覚が蘇ってしまう。
空かないはずのお腹が食欲だけを思い出させる。
もう二度と味わうことが出来ないのだろうか。
何も感じないまま永遠の時間の中を一人で生きていくのだろうか。

誰にも触れず、誰にも触れられることのない時間。

「シンジ……買い物……早く行こう」



消えた第三新東京市。
一般市民にはおなじみの隕石落下で済ませたようだ。
詳しい事を話したところで無意味だし新しい都市が生えてくるわけもない。
巨大なクレーターになった第三新東京市と、不幸にもそれに巻き込まれた一般市民は思い出の中に放り込む。
それが生き残った者の勤めだ。

ミサトの住むマンションは第三新東京市からかなり外れなのでまともな形で残っていた。
当然その周辺部も殆ど無傷で、中には商売を再開している店もある。

「えっと……あそこのスーパーやってるかな? 」
「……………………」

市外に出て買い物、それは無理だった。
電車は緊急点検の為運休しているが、バスは時刻通りとは言えないものの一応運行している。
なのに自分の足でいける範囲でしか買い物が出来ない。

「バスも通り抜けちゃうんだね。まぁ、しょうがないか……」

アスカが何に乗ろうと同じだった。
ミサトの車、自転車、挙げ句の果てにはおんぶすら出来ない。
飛んで追いかけるにしてもその速度は普通に歩くのと何ら変わらず、人類の生み出した移動方法の恩恵に彼女は与ることが出来なかった。

「いいわよ……一人で買い物行ってくれば? 」

もう救いようのない顔でシンジのあとを背後霊の如く付いていく。
少しでも気が晴れると思ったのだが、かえって自分の存在を思い知らされた。
何も出来ないただの映像なのだ。

「アスカ何食べ……ごめん……つい」
「ハンバーグ! カレー! 唐揚げ!! 」

記憶の味覚が蘇る。
だがもう二度と口にすることは出来ない。

「何でもいい……シンジ……何でもいいわよ……」

戸惑うような表情のシンジにアスカは懇願した。

「何時も何か作ってくれたじゃない! あたしに食べられる物作ってよ!! 」
「アスカ……」
「何でもいい! 何でも食べる! だから……何か作ってよ」

涙声がシンジの耳を打った。
赤いプラグスーツを纏った少女は何時も自信に溢れていたのに。

……あの時も泣いていたんだ……

自信に溢れていたわけじゃない。
そうやって無理をしなければ自分を支えられなかったのだろう。
単にシンジが気付かなかっただけだ。
そしてアスカもシンジが何を苦しんだのか知ろうともしなかった。

お互い様なのだろう、互いを責めても自分を責めてもどうにもならない。

「アスカ……帰ろう……」

 


***

 


明日のための今日がやってきた。
さて何しようか、そう思ってみても特別する事もしなければならない事もない。
学校は遠の昔に閉校してるし、所属していたNERV本部は今後どうするかで未だ揉めており、自分達の予定も立たない。

「まあのんびり過ごしたら? 人生どんな組織にも所属してない時間て貴重よ」

思い返せば必ず何かしなければならなかった……勉強をせねばならず、運動をせねばならず、人に気を使わねばならず、そしてエヴァに乗らなければならなかった。
果たしてそこに自分の意志はあったのか、自分は一体何を望んで生きてきたのだろう。
取り敢えずは自分の生き方でも振り返って、そして先を見てみようか……

手にした湯飲みを口に運び、澄んだ香りのする茶を啜る。
そして大きく一息付いて……ふと視線を感じ湯飲みを覗くと、緑色の液体の中に蒼い目が浮かんでいた。

「!!」

ああ、朝っぱら何と不吉で気色の悪い……

「ばあ! ヘヘヘッ驚いたでしょ。今のシンジの顔笑っちゃうわ」

そりゃ飲んでるお茶の中に目玉が浮かんでいたら普通は驚くだろう、多聞に漏れずシンジも驚いた。

「何が笑っちゃうだよ! いきなり変なとこから出てくるなよな! 」
「やーだ、何怒ってんのよ。別にいいジャン、ちょっと驚かしたぐらいでバッカみたい」

よく心霊現象と言う物が報告されるが、その真偽はともかくとして理由はきっとこの辺りにあるのだろう。
ともかく事実上幽霊と化したアスカのやることに腹を立てても仕方ないのだが、これからどうやって生きていくかなどと珍しく前向きなことを考えたのに、いきなり凹んでしまった。
驚かした方はそんなことを気にも留めずフワフワとその辺を漂っている。

「さてとシンちゃん、あたしゃこれから本部に行って来るわ。出掛けても良いけど鍵は一応閉めてってね」

本部閉鎖、NERV解体、どうなるにしろミサトはその会議に顔を出さなければならない。
そのみち存続はしないだろう、経費の問題や外交的な問題、なにより維持する必要性が無いのだ。
彼女自身存続させる気もないらしく、その表情はどこか沈んでいた。
恐らくその会議に出席する政府のお偉方という面々はもっと沈んだ表情をしているに違いない。
何しろと第三新東京市が消滅したのだ、その辻褄合わせにさぞ頭を悩ませていることだろう。

ダミーノイズがマンションから消え去り、静けさがこの一室を埋め尽くす。

「ねえシンジ、知ってる? このマンションに今誰も住んでないのよ。さっき一回りしてきたんだけどみーんなもぬけの殻」
「ふーん、疎開したんじゃないかな。普通の神経持ってればそうするよ」

そのお陰で壁をすり抜けて出現する少女の幽霊に出会わずに済んだのだ、もしまだ住んでいる人がいれば悲鳴の一つも聞こえただろう。
此処に残っているのは自分も含めてどっか普通じゃない連中ばかりではないのか。
疎開した人々が戻ってくるのはいつ頃だろうか、第三新東京市消滅の際の煽りを喰らってこの辺りも倒壊した家が目立つ。
誰もが被害者にならざるを得なかった……一体どれだけの人間が傷ついたのだろう。
その中の一人に過ぎない自分はこれから先、自分の経験したことをどう語っていくのだろう……

「ねえ、お腹の痛い顔してないで。用事があるの」
「……何だよ、用事って」

用事を頼むのにわざわざ腹の辺りから顔を出さなくても良いじゃないか。
この世で一番質の悪いのは元気な幽霊か。
その迷惑な奴は上半身を通り抜けさせるとシンジの首に抱きつく素振りを見せた。
無論単なる映像のアスカなので何の感触も伝わらず、面白くも何とも無いがそんなことに構わず楽しそうな顔でシンジに話しかける。
何しろ生前と……まあ、今も生きてるとは言いがたいが兎に角以前何一つ変わらない外観なのアスカが、自分の身体を突き抜け顔を出しているのだからあまり気色のイイモノではない。

「何か面白いことやって。もうスッゴイ暇だしTVはつまらないしゲームは出来ないしさ」
「何だよ面白い事って……アスカの存在自体が充分面白いじゃないか」

この際アスカには同情する、こんな奇妙なカタチで存在しているのはさぞ不本意だろうし、自分にもその責任の一端はあるような気がしないでもない。
だからといっていきなり面白いことをヤレと言われても、思いつくはずがないし、前もって言われたとしてもシンジにそんな気の利いたことが出来よう筈もなかった。

「無理ならレンタルビデオ借りてきて!ホントに気が利かないわね。普通その程度のことパッと思いつかない?」

思いついたがこの近所の店はまだ閉まっていたし、第三新東京市のレンタルショップは消えている。

「じゃあ踊りなさいよ! 裸踊りでも泡踊りでもいいから! それがダメなら歌の一つでも歌って!」
「だから無理だってば……大体そんなに暇なら元に戻ればいいだろ。そうすればご飯だって食べられるし遊びにだって行けるんだし」
「五月蠅い、余計なお世話よ! あたしは今の状態が気に入ってるの! 」

もうアスカの言っていることは無茶苦茶だ、かといってそれを指摘したところで火に油を注ぐような物だ。
結局シンジが今の彼女にしてやれることなど何もない。
そうか、祟りってこう言うのを言うんだな……と、何の役にも立たないことを理解しながら、マシンガンのように吐き出されるイチャモンを黙って浴びるしかなかった。
しのごの言っても今のアスカは単なる映像、ホログラムに過ぎない、文句さえ我慢できれば取り敢えず実害は無いのだ。

面白いことなど出来ず気の利いたジョークも言えない、口をつくは溜息ばかり……
やがてしびれをきらしたアスカは殴る蹴る……をしたいらしい、それらしいそぶりは見せるのだが何しろホログラム、痛くも痒くもなかった。



消えた第三新東京市の地下にあるNERV本部、その存在を知る者はごく僅かだ。
TVは無論のこと一般人の目にする全ての情報媒体に載らない組織。
対使徒迎撃機関として活躍した彼等だったが、今ではその役目を終え、日本政府への引き渡しを待つばかりとなっていた。
ドコゾの秘密結社が崩壊したとか国連の調査機関が動いたとか、色々噂が本部内を飛び交っていたが、今最も広まっているうわさはもっと非科学的な物だ。

「え?ユーレイが出る?」
「そうなんすよ、何か夜に出るらしいンすけど。第一技研の連中や車両管理の連中なんかが騒いでるんですけどね」

赤木リツコ博士は僅かに眉をひそめた。
ユーレイなどと言う非科学的な存在をもっともらしく語る青葉やその他の連中に腹が立つのもそうだが、そのユーレイの正体に薄々気付いてしまった事も腹が立つ。

「……どんな幽霊が出たの言うの?」
「それがっすね、何か女の子の霊らしいんすけど髪が長くて目の青い女の子がケタケタ笑いながら徘徊してるらしいです」

やはり……沈痛な面もちでリツコは頭を引っ掻き、手にしていたバインダーを壁に投げつけ、側のゴミ籠に蹴りを入れ、転がり出た空き缶を踏みつぶした。
その形相に恐れおののく青葉を横目に彼女は口を開く。

「青葉君……それはつまらない噂よ……幽霊?馬鹿な事言ってないでさっさと引き渡しの準備を進めて頂戴」
「あ、は、でも、そこら中で噂になってますし……放っておくのも……あう! 」
「……いい? わたしは放って置けと言ってるの。そんな物はただの噂よ……そんな物にこれ以上首突っ込まない方が良いと思わない?そうすれば頸部から上は他のところに行くまで無事だと思うの……ねぇ……」

青葉二尉の首を締め上げていた手はゆっくりと力が抜けていき、あらゆる意味で真っ青になっていた彼の顔に血の気が戻った。

「さ、早く仕事に戻りなさい。引き渡し期限も近いんだから」

精神崩壊寸前まで追いつめ青葉を帰したが、リツコは今度こそ真剣に頭を抱えることとなった。
幽霊の正体は間違いなくアスカだろう、だが何がまずいって今の彼女の状態だ。
本当の幽霊なら何も慌てる必要はないのだが、別に死んでいるわけではないから話がややこしい。
何しろ政府や関係機関には「弐号機大破」と伝えており、実際にその残骸も見せ彼等の目の前で廃棄したのだが、コアだけはああいった事情でこっそり隠してあるのだ。
幽霊アスカが出たところで即問題になるとは思わないが、もしこの事がばれよう物なら間違いなく、コアの破壊も要求してくるだろう。
断れば「叛意あり」と認定され、NERV職員達の処遇はどんな扱いになるか解った物ではないのだ。
ただでさえ戦自と敵対しており、自分達の立場は切れかかったロープの上にしがみついているような物だった。
もし「敵」と認定されれば今度こそ皆殺しにされかねない。

「なのにあのバカ……もしもしミサト!? ちょっと来て!! 良いから早く来なさい!!」

 




リツコとミサトが喧々囂々としているとき、地上では満足そうな顔の少女が同じ歳ほどの少年と歩いていた。
もし注意深い者が見れば、彼女の足元に影がないことに気付いたかも知れない。

「だからそう言うことは止めろよなぁ」
「イイジャン、大体シンジが悪いんだからね。面白いことしろって言ったのに何もしてくれないから自分で遊んだだけよ」

職員達の驚き、慌てふためく顔を思い出してケタケタと笑う。
そりゃ壁から顔が突然浮き出したり、消えているはずのモニターに顔が映ったり、食堂の釜の中に少女の首があったり、廊下に腕だけが生えていたりすれば驚くだろう。
心の中で被害者達に申し訳ないとシンジは思う。
アスカがこんな状態になったのは別に自分のせいというわけではないが、まるっきり無関係だと言うわけでもない。
そう言う意味ではミサトやリツコにも責任の一端はあるのだが、シンジにも当然責められるべき点はあるのだ。
アスカを満足させる面白いことが出来なかったというのは別の話。

「ねえ、ちょっと休もうよ……疲れちゃた」
「何よだらしないわね! ちょっと歩いただけなのに情けない。ホント貧弱なんだから」

今のアスカは乗り物に乗れない、故に本部に行くとなると徒歩で行かなければならなかった。
シンジ一人ならどうと言うことはないのだが、アスカがそれを許すはずもない。
強引に付き合わされ徒歩での帰宅となった。
因みにミサトのマンションまでは40kmほどの距離だ。
すっかり汗だくになったシンジは辛うじて残っている街路樹の作った木陰に座り込んだ。
今のところ本部から20kmほどの位置だろうか、それでもあちこちに量産機との戦闘による被害が及んでいる。
もう少し上手に戦えれば此処まで被害は大きくならなかったのだろうか。
いや、それ以前に自分の成すべき事が解っていれば傷つく人は少なくて済んだのだろうか。

……もっと何かを大切にしていれば……

ふと隣りに目を向けると顔を覗き込んでいるアスカがいた。
透けるような青い瞳がジッと自分を見つめている。

「……アスカはエヴァに乗ることってどう思ってた?」
「何よ突然、どうって立派なことだと思うわ。だってあたし達以外誰もエヴァに乗れないんだもの。それに使徒を倒すし、まあ極秘事項だから自慢できないのが残念だけど」

アスカの方が余程有意義に感じているようだ。
自分より遙かにましだと思う、確かに自分にエヴァに乗って戦わなければならない責任はない。
だったら断るべきだった、父親に呼ばれたとき断るべきだった……そうすれば自分以外のもっと相応しい人間が乗ったことだろう。
こうして全てから開放されると自分の事が見えてくる。
そしてあの時どうして……そんな後悔ばかりが思い浮かんだ。

「僕には何の義務もないと思ってた……でも義務のない人間はエヴァに乗っちゃいけなかったんだ。僕じゃない人が乗ればもっと……そうすればアスカだって……」
「あんたバカァ?他の奴が乗ったらもっと下手だったかも知れ無いじゃない。それにあたしはシンジなんかに頼ってなかったモン」

アスカがフワリと浮き上がり周囲を見回すと、景色のあちらこちらに激しい焼け跡が残る。
第三新東京市の中心から離れたこの辺りでも、店や住宅地があったのだがその大半が崩壊していた。
あの戦闘での死者は無関係の一般人だけで千人を超し、一連の騒動全てなら倍以上だろう。
被害総額に至っては天文学的数字が弾き出されるだろう。

「大体今更何言ったって遅いんだから、ああすればなんて後悔したって無意味よ」
「……ふう、そうだね。もう終わったんだよね……」

後悔しているのとも違うのだろう、もう終わったと納得してしまうのが悪いことのようにシンジには思えていた。
悩まなければいけない、悔やまなければいけない……上手く乗れなかった罪悪感を癒すための自己満足かも知れない。

「ねっシンジ、別に誰がどれだけ死んだってあたし達のせいじゃないわ、文句があるんだったら自分達で戦えば良かったのよ。あたしもシンジも出来ることはやったんだし、誰かに文句言われる筋合いはないわ」

いっそ清々しいほどの断言だ。
別に幽霊になったからと言う訳じゃないだろうが、生来の気性がそう言わせるのかも知れない。
だが確かにアスカの言うとおりだった。
多分悩む振りをしなくても誰も責めはしないだろう。

「さてと、そろそろ行こうよ。何時までも休んでちゃ帰れ無いじゃない、あたしお腹空いちゃった」
「……だからさ、僕は車に乗れるんだからアスカは一人で……」
「何よそれ!あたしに何かあったらどう責任取るわけ?事故にあったりしたら大変じゃない」

へーへーそーですか、事故に遭う幽霊があったら見たいモンだ……とは言えないのでシンジはゆっくりと腰を上げる。
今でこそ物理的には無害だが復活したときが恐い。
復活……そうする気があるのだろうか。
妙な胸騒ぎを隠しながらシンジは生前と変わらぬ様子のアスカを眺めながら、棒のようになった足を動かしはじめた。



「……それってどういう事よ?」
「つまりアスカは本当に死ぬ、と言っても差し支えないわね。大体今の状態だってかなり奇跡的に維持されてるんだから」

何れは地中に埋もれる予定の赤木リツコの研究室で持ち主とその友人は、これ以上はないほど深刻な表情で向き合っていた。

「いい? 今の時点ではまだ記憶が残っているから色んな欲求があるの。例えば味を覚えているから食欲もあるし、今までの経験上からTVが見たいとか面白いことを見たいとかの欲求もあるの」

リツコはそこまで口にして暫く間をおいた。
あまり美味しくないコーヒーを啜り飲み込むと、再びミサトの顔を見つめ語りはじめる。

「でも今のあの子は単なる精神だけの存在、つまり食欲も何も不要な存在なのよ。何れはそう言った欲求が消えて……」
「何も欲しがらなくなるって事? なら良いじゃない、今でも五月蠅いぐらいだし」
「ええそうね、欲求は次々と消えていき、最後は生きる欲求まで消えるわ。そうなったら最後二度と復活しないし、あのコアの中で消滅するのよ」

背中に氷水をぶっ掛けられるとこんな感じだろうか。
ミサトの表情はこれ以上はないほど強ばり、僅かに引きつっているように見える。

「何度も言ったけどあの子自身が還る気にならなければ幾ら本体と繋いでも戻らないわ。もうあとはあの子の問題なのよ……」

すっかり片づいて寒々しい程の研究室に、真冬のような冷気が立ちこめる。
リツコの言っていることが脅しでないことはすぐに理解できた。
アスカが望まないなら復活させなくても良い、そう言いきれるほどミサトは強くない。

シンジと同じだ、黒髪の女はつくづくそう思う。
あの少年が言い訳のためにエヴァに乗ったように、自分もまた言い訳するためにアスカを元に戻そうとしている。
誰かに責められる、そんな得体の知れない強迫観念を抱え、自分は悪くないと思うためにそうしているだけだ。

自嘲的な笑みがミサトの唇の端を歪ませた。

「問題なのはあの子自身が自分は誰にも必要とされていないって思い込んでる事ね」

シンクロ率低下、そして敗退、最後は全身を引きちぎられ完璧なまでの敗北……セカンドチルドレンとエヴァパイロット、その事だけを存在意義として生きてきた彼女が受け入れるには過酷すぎるだろう。
そしてアスカを必要としていなかった、あるいはいなくても困らなかったのもまた事実だ。

「唯一の絆か……あの子戻らないかもね」

かつては資料とデータの山に埋もれていたが、今ではすっかり片づき何一つ乗っていない机の上に腰を下ろし、これ以上はないほど大きな溜息をつく。
アスカが今に何の価値も見出せず、自分自身の価値すらも見いだせないのは容易に想像が付いた。

「ミサトは知ってる? あの子がマルドゥックに預けられたときのこと」
「……あの子の両親、全く断らなかったらしいわね、二つ返事でアスカを送り出したって……今更この世に戻って来いって言っても聞く耳持たないわよねぇ」
「他人の評価以外に自分の価値を見出す……あの子はそんなこと教えて貰ってないのよ……」

金色の髪をかき上げると沈痛な顔がその影から覗いた。
返答を誤魔化し理由をでっち上げて引き延ばしてもあと二週間、それまでにアスカを説得する……リツコに劣らずミサトの顔も沈痛な物となった。

「あたし達じゃ無理かも……あの子の説得は」



ミサトとシンジの目の前に鍋がグツグツと煮立っている。
それも真っ赤な鍋だ。
白菜、シラタキ、鶏肉、椎茸……そして大量のキムチの素。
シンジも辛いのが嫌いなわけではないが物事には限度があり、このクソ暑い中鍋というのも非常識だがプカプカ浮かんでいる赤唐辛子ももっと非常識だ。

「ほーら、美味しそうでしょ。あたしが腕によりをかけて作ったんだから美味しいわよ」

つまりそう言うことだ、最も非常識な人間が料理するとこうなるらしい。
ある程度予想していたとは言えシンジの受けた衝撃や、この後受けるダメージを考えると頭が痛い。

「あーあ、あたしも食べたかったけどこの身体じゃ食べられないモンね、残念残念。ミサト、シンジってばお腹が凄く空いてるらしいから一杯食べたいって言ってたわよ」

丁度鍋の中の唐辛子のように浮かぶアスカは事も無げに酷いことを口にした。
見ているだけで胃が痛くなりそうな鍋を目の前にそんな血も涙もない……ま、確かに今の彼女にそんな物はないのだが。

「それじゃ思いっきりサービスサービス、ドンブリでよそっちゃおう。ほら遠慮しないで」

シンジは食前終始無言だった。
そして食後も終始無言になった。



TVにあれ以来CMが流れたのは今日が最初かも知れない。
どこぞのケーキがこれ見よがしにのたうち回るシンジの目に飛び込んできた。
真っ赤な鍋は空で……アスカが煽って……いや、何も言うまいと不幸な顔の少年は黙々とのたうち回る。
そんな彼を後目にミサトは夕食を片づけると、正確には流し台に放り込んだだけだが兎に角片づけるとお茶を啜りながらシンジに目を向けた。

「ねえ、シンちゃんさ、どっか出掛けない? ここんところ会議室篭もりっきりだから息詰まっちゃって」
「……出掛けるって何時どこへ。あんまり計画性のない事言わないでよ」
「うーん不機嫌ねぇ、近いうちに温泉なんか良いと思わない?こうパーッと憂さ晴らしにさぁ」
「ああ温泉かぁ……いいね、ご飯もきっと美味しいだろうし
そんなことを口にしながら「あっ」と言う表情をしたのは、すぐ傍らに浮かぶ少女に気付いたからだ。
さも恨みがましい目で二人を眺め、ボソッと呟くように口を開く。

「……良いじゃない、あたしに遠慮なんかしないでどこでも行ってくれば? あたしは此処で面白くもないTV見てるから……」

すっかりいじけてしまったアスカは、そのまま二人に背を向けた。

「ったく鬱陶しい子ねえ、いじけるぐらいならリツコに頼めばええっしょ。そうすりゃ元に戻れんだからさぁ」
「……ミサトになんか解る訳無いのよね……あたしの気持ちなんて誰にも解らないのよ」
「ったりめーでしょ、んなの。大体あんたの気持ちが解ったからって何かしてやれる訳でもないしさぁ、ウダウダ言ってないでとっとと生き返ってらっしゃいな」

リツコから事情を聞いたミサトなのだが、その割には切実感がまるでない。
ズズッとお茶を啜りたくあんをポリポリ摘むと今度はシンジに話題を振った。

「取り敢えずさぁ、ドライブ行かない? どっか宿とって、あたし良い宿知ってるから」
「行こうって……アスカをどうするのさ、車も何も乗れないんだよ? 」
「ンなのお留守番よ。いい? あたしゃ別に今のままでいてくれなんてアスカに頼んでないのよ。あの子は自分で幽霊でいたいつってんだからこっちが気にする必要はないわね」

まあ、その通りだろうが……同意するだけの精神的強度をシンジは生憎持ち合わせていない。
恐る恐るアスカに目を向けると首だけが床から生え、恨みがましいどころか既に呪いでも掛けてそうな視線を投げかけていた。
体の部分は下の階にある部屋の天井から生えているに違いない……本当にみんな疎開して良かったと思う。

「や、やっぱり僕は良いよ……こっちにいるからミサトさんだけ行って来なよ」
「やっだー、あんなの一人で行っても面白くないんだわさ。良いじゃないのよ、幽霊に気を使ってもしょうがないんだし」

そう言われても……と、シンジは思う。
やっぱり復活したときが恐い。
きっと彼女のことだから一つ一つ全部覚えて、あとで物理的報復に出るだろう。

「……やっぱりいいよ、家にいるから……」
「んじゃああたしも出掛けるのやめっか……とは言え暇だしちょっとその辺彷徨いてくるかな、たまには車にも乗ってやらないとねえ、それぐらいは付き合いなさいよ」

時間は一時間、そうアスカに告げシンジは車上の人となった。
十分すぎるほど恨みがましい視線を浴びながら出発したので、何となく気が重い。
それを晴らすかのようにミサトの指がカーステレオのスイッチを入れ、ロックを奏でさせる。

「ねえシンちゃん、昨日の会議で決まったんだけど……ヤッパ一応報告しとくわ」

僅かに開けたウィンドウから流れ込む冷たい風に、彼女の黒髪がなびく。

「多分想像してると思うけど……初号機は解体することに決定したわ、一週間後に」

あれから無関係になった名だ。
サードチルドレンという呼び名もNERVという名称ももう自分には無関係だ。
だが初号機の解体に無関心ではいられなかった。

「どうする? 立ち会う? そうするなら話通して置くわよ」

不意に車は停車し、バイパスに合流するタイミングを窺っていた。

「解体って……どうなるの? 」
「文字通り解体破棄、コアをくり抜いて後は本体が壊死するに任せる……コアそのものはその場で粉砕よ」

シンジはハードウェアとしての初号機にさして愛着はない。
確かに一年近く搭乗した機体だが初号機自体にあまり思い入れはなく、その辺はむしろアスカの方が機体に対する愛着は強いかも知れない。
その弐号機とアスカはあんなになっちゃうのだから皮肉な話だ。

「……どうするも何も僕の口挟む余地なんて無いんだろ? 好きにすればいいじゃんか」
「連中だって恐いのよ、あの時の様子は見てるしあれが自分達に向けられたらと思えば夜も寝られないんだと思うわ、現実的には維持費も莫大な額が掛かるし諸外国の目もあるのよ」

全くと言っていいほど愛着のない機体、その処分に何ら思うことなど無いのにシンジの表情は沈んだままだった。
その理由をミサトは知っているし、だからこそ連れ出して二人きりになったのだ。
流れ去る町の景色の中で口にしようのない思いを抱えたルノーは、速度を上げていく。

「で、シンちゃん……立ち会う? 」


***


NERV本部格納庫のケイジに保定された巨人が静かに佇んでいた。
全ての拘束具を外され剥き出しの本体は、あらためてエヴァという物が単純な兵器ではないと思い知らされる。
これから行われる死刑執行とも言える初号機解体をこの異形の化け物は知っているのだろうか、そんな擬人化した感想が眺める政府や国連の代表達に思い浮かんだ。
そして使徒の襲撃や某秘密結社の暗躍から救ってくれた恩人とも言える初号機だ、その解体に何も思わないではいられなかった。
それを誤魔化すかのように眺める人々は、口々にその外観だけの感想を語り合うだけに終始した。
傍らではNERV技術職員が正午に行われる作業準備のため忙しそうに動いている。

「ミサト、彼は来るの? 」
「……さあね、来ないかもしれないし来るかも知れない。強制は出来ないしする意味もないし」

白衣を着た金髪の女性はその曖昧な答えに些か不満そうに唇を歪めたが、特に何も言わず作業の進行状況を見守った。

「……あの子さぁ、知ってるのよ。これから何をするのか、それにどういう意味があるのか……どうしようもないこともね」
「そう……なら良いじゃない、後はあの子自身に決めさせれば。これ以上口出せばあなたが悪者になるわよ。まだ続けるんでしょ? 家族ごっこ」

ミサトの沈んだ表情に何の変化もなく、リツコも再び作業に没頭した。




「ねえ、シンジ……行かないの?」

エレベーターに乗って一階層降りれば、初号機のあるケイジに着く。
だがシンジの足はそのエレベーターを前に動こうとはしなかった。

「あんたのことだからこうなるんじゃないかなって思ったけど。最後ぐらい見届けてやればいいのに」

語りかけるのは幽霊となったアスカだ。
だが別に死んで天国から語り掛けているわけではなく、見た目は実体と変わらぬ姿ですぐ隣から語り掛けている。
様々な事情から徒歩でやっと此処にたどり着いたのだが、そこから先に進むには更に時間が掛かりそうだった。

「……アスカ、エヴァに乗っているとき何か感じなかった?」

漸く絞り出した声は小さい。

「……あんた知ってたんだ、あの中に入ってる物のこと……」

幽霊の質問に壁に向かって俯いたまま小さく頷くと、やはり小さい声で呟いた。

「ずっと守ってくれてたんだ、僕がエヴァに乗ってからずっと……でも僕は何もしてやれないんだ」
「だってしょうがないでしょ、それとも今からエヴァに乗ってどこかに逃げるつもり? そんなことやっても維持できないわよ」
「知ってるよ! どうしようもないことぐらい……」

エヴァの中に入っていたモノ……それに気付いたのは何時からだったろう。
知らぬままだったら良かったのか、そうも思う。

「いつもそうだったんだなと思って、あの時もアスカを助けられなかったし今度も……」
「ハン、別にシンジに助けて貰うほど落ちぶれてないわよ。あれはたまたま油断したから……ウダウダ言ってないで見届けてきなさいよ!今のシンジに出来る事ってそれぐらいしか無いじゃない!」




見届ける必要はあるのか、その解答をシンジは持っていない。
別に強制されているわけではない、そうしなければならない物でもない。
だが自分は今初号機の前に立って、自分の目で巨人の最後を見届けようとしていた。

「来たんだ……連中はモニターで立ち会うつもりらしいけど、あたし達は直接見た方がいいわね。アスカもいらっしゃい」

立ち会いに来た政府要人達は防護ガラスと対衝撃外壁で覆われたコントロールルームに閉じこもっている。
ミサトはシンジの手をそっと握り、初号機の足元に場所を移した。
二人の後を幽霊は複雑な顔で浮かびながら着いていく。
既に解体作業の準備は終了し、後は時計の針が正午を指せば即実行に移される。
高出力のレーザーカッターで巨人の胸部に埋め込まれたコアをくり抜き、巨大な鉄槌のような粉砕器でそれを破壊する、本体の方はそのままで壊死崩壊が始まるので特に作業はない。
以上がリツコから説明された段取りだ。

「時間を掛けてってのも何だしね……一瞬で終わるわ」

それが果たしてシンジの慰めになるか、ミサトはそれ以上何も語らずただ時を待つ。
アスカもチラチラと気遣うように目を向けるが、言葉にしては何も語らない。
やがて此処に集まった全ての者達の耳に定刻を知らせるサイレンが響く。

「作業開始! 」

自走台車に取り付けられた巨大なアームがゆっくりと巨人に近づき、その鉄腕を胸に伸ばす。

「位置固定! 各員偏光バイザー確認!」

アスカを除く全員がサングラスに似たバイザーを装着する。
その確認が終了すると初号機の胸に火花が散り、肉の焼け焦げる臭いと煙が立ちこめる。
筋組織中の水分の蒸発する音が巨人の悲鳴のように聞こえたのはシンジの気のせいか。
その度にミサトの手をそれと知らず強く握りしめていた。
アームは円を描くように動き、黒い傷跡が胸に描かれていった。

どれほど時間が経ったのだろう、アームは引き下がり今度は大型のクランプを装着したもう一機のアームが巨大な紅玉を握りしめる。
されるがままになっている巨人は何時動き出すか、シンジを除く全員の胸に棘の如く突き刺さる恐怖心が緊張となってそれぞれの顔を強ばらせた。

誰もが無言の中黙々と作業は続く。
シンジが険しい顔で、だが何も言わず凝視する中作業は進み、コアと呼ばれる紅玉が取り外された。
血のように赤く、脈を打つように輝くコアが粉砕台に設置される。
まるで神経や血管の様な管が何本何十本と紅玉から初号機本体へと繋がっていた。

……あの中に……

少年の瞳に移った紅玉に鉄槌が振り下ろされた。
高圧ガスで鉄塊が音を立て打ち下ろされる度にミサトの手に痛みが走る。
その硝子のような表面にうっすらとヒビが走る度にアスカの目がシンジに向けられる。

やがて打ち下ろされる衝撃に耐えきれなくなったコアに大きな亀裂が走り、そこから赤い液体が溢れ出す。
だが構うことなく鉄槌は振り下ろされる。

「……るんだ、あの中に……ミサトさん、あの中には……」
「シンジ君、防護壁から出ちゃ駄目よ! 」
「でもあの中には母さんが! ……もういいよ! もう止めてよ!! 」

終始無言だった少年は絶叫した。
エヴァに乗って以来、エントリープラグの中でどこかで感じていた安堵感。
それを与えてくれていたのはいないはずの母親だった……

「離せよ、もう良いだろ! 離せ! 母さんがいるんだ! 」

ミサトは暴れる少年を両腕で抱える。
紛れもなくシンジの母親が……その魂が殺されようとしているのだ。
この巨人が誕生したときに息子の前で取り込まれ、今その巨人と共に息子に見とられながら死んでいく。

鉄槌は休むことなく振り下ろされ、その度に光の欠片が舞い散るかの如く破片が飛び散り、透明の防護壁を叩く。

そして何度目かの衝撃の後コアは砕けた……


***


「駄目よ……部屋から出てくる気配無いわね」

壁を通り抜けて出てきたアスカが珍しくしおらしい表情でそう呟いた。
シンジが帰宅してから自室に閉じこもり、全く外に出ようとしないので心配になった彼女が覗いたのだ。
部屋に鍵は掛かっているが、今の彼女には無力だった。

「放って置いてあげなさい、あんたが何かしてやれることなんて無いんだから」

五本目のビールを空け、つまらなそうに部屋の主たるミサトが呟く。

「それよりも自分のこと考えなさいよ、さっさと戻らないとどうなっても知らないわよ」
「余計なお世話よ、あたしはこのままで良いの」
「へーん、ま、ちったあ痛い目みないと解らないだろうけどさ」

痛い目? そんな物を見たくないから今の状況に固執しているのだ。
リツコの言ったことが本当ならやがて自分は何の欲求も感じなくなり、永遠にコアの中に「存在」だけするらしい。
それならそれでも構わない、とアスカは思う。
シンジに告げたようにもう嫌な思いはしたくないのだ。
自分を臆病だと蔑む気もないし、『存在』だけになることへの恐怖心もない。
今の自分には守って貰える場所があるのだ、それを選んで何が悪い。

……バカシンジの奴、これ以上傷つくこと無いのに……

床にビールの空き缶がまた一本増えた。
一体何本飲むつもりなのか……どれだけ飲んでも今夜は酔えないのだろう、ミサトにしてもやり切れない思いが渦巻いているのだ。
アスカはその辺に浮遊しながら酔えない酒をあおる彼女を見下ろし、わずかに溜息を付く。
今日のことは確かに自分も見届けろと勧めた、だが今の彼の様子を見るにつけほんの少し後悔していた。
こうなることは想像できたのに、いや、想像していたのに何で勧めたのだろう。

自分のどこかに残酷な思いが横たわっている……

「ミサト……あたし余計な事したのかな」

空中で横たわる少女は、とうとう床で飲んだくれている女に問いかけた。
最後の一滴まで惜しむように缶を逆さまにして振っていたミサトはその手を止め、暫く眉間に皺を寄せる。
ちょっと見ない間に彼女の周囲は大量の空き缶で埋まり、それでもなお酔えないのが辛い。

「……さーね、あの子がどう思ってるかによるんじゃない?所詮あたし達は他人だもの……余計な心配してないで自分の心配しろってーの」

シンジの初号機解体を伝えたのは果たして正しかったか、事後報告にした方があっさりと受け止められたのではないか。
ビール一本開けるごとに自問していたが、ダース単位で空にしても自答の方は出てこない。
そしてどっちに答えが出たところで今更どうしようもないのだ。

浮遊していたアスカはそれ以上何も聞かず、別にミサトの言葉に従ったわけではないが自分のことを考え始めた。
一体自分は何のためにエヴァに乗っていたのだろう、それは幽霊になって思い浮かんだ疑問だ。
誰かに連れられ初めて目にした深紅の巨人、おぞましさしか感じられなかった巨人。
だが自分にはそれに乗ることしか許されなかった。
例え勉強でどれだけ良い成績を取っても、スポーツでどれだけ頑張っても、言うことをどれだけ聞いても、その巨人に乗らない自分を誰も認めてくれなかった。

そうしなければみんなが自分を拒絶する……ベットの上の「ママ」のように……

恐ろしくても辛くてもまだ足りないと自分を追いつめて乗り続けたエヴァ、セカンドチルドレンという称号こそが自分の存在を認めさせる拠り所だった。
辛いなんて口に出来ない、乗りたくないなんて口に出来ない。
誰かの評価という光源によって浮かび上がった幻影こそ自分の存在の全てだ。

「エヴァしかなかったのよ、しょうがないなじゃない!」

あれから何度も自分に言い聞かせたことを口にしても誰の耳にも届かず、闇の中に空しく散っていった。
今の姿こそ生まれてから十四年間過ごしてきた本当の姿なのだ、知り合いとしか話せず知らぬ者には姿すら見えない、実体もなく相手に認められなければ存在すらしない今の姿こそ十四年と言う時間晒し続けた本当の姿だ。

もういい……アスカは思考を止めた。
もうエヴァのパイロットじゃない、弐号機ももう無い……そして自分の必要性はなくなったのだ。
ただそれだけのことだ。
もう役割は終え、あのコアの中に残る物こそ自分だというのならそれで良い、今まで無かった自分という存在が唯一残れる場所と言うならそれで良い。
今まで自分という物がなかった彼女が、初めて手に入れられる「本当の自分」がそこにあるのだ。

だから……もう良い……初めて手に入れられる安息の場所、それで充分だった。

ふと顔を見上げると満天の星空が広がっていた。
いつの間にか壁をすり抜けて外に出てしまったのだろう、群青色の夜空が蒼い瞳を埋め尽くす。
無限という言葉がこれ以上はないほど相応しい景色が頭上に広がり、こうして浮かんでいると溶け込んでしまいそうになる。

今まで見たこともない巨大な月……見上げる余裕もなかった夜空……

「こんなに蒼かったんだ……」

本当の居場所を見つけ、初めて眺めることの出来た空はとても美しく、アスカは何時までも浮かんだまま眺め続けていた。


***


そのマンションはコンフォート21と言う名で、奇妙な縁で碇シンジはそこの住人となった。
それから起きた数々の出来事は一言で言い表せず二言でも足りず、三言四言となると今度はシンジの表現力が追いつかない。
とにかく色々な事があり、その大半は余りにも非常識な出来事だが今となっては楽しくもない記憶として電気信号に変換され脳の中のどこかにしまわれている。
だからついこの間のこともその中の一つとして……今まで起きた非常識な出来事として……

「あっシンジ、あんた何時部屋から出てきたのよ? ずっと篭もってたんじゃないの? 」

ベランダで夜の空を眺めていた少年にどこからともなく声が伝わる。
今ミサトが本部に出掛けているので、話しかけてきた相手は即座に特定できた。

「部屋の中で首でも吊ってるんじゃないかってミサトと話してたのよね、だってあんたの死体片づけるの面倒だし」
「ロープがなかったからね。それにお腹も空いたし」

苦笑いを浮かべたシンジは、自分が部屋に篭もってからというものの、壁を通り抜け幾度も様子を見に来た少女を知っている。
白い壁に浮かび上がる蒼い目は些か不気味だったが。

「意外としぶといわね、ま、シンジにそんな度胸あるとは思わなかったけどさ」

すぐ隣りに寄ってきてフワフワと浮かぶアスカは、不思議そうに同居人の顔を覗き込んだ。
晴れ渡った空を切り取ったような瞳に、シンジの顔がほんの少し大人びた顔に見えたのは、やはり初号機解体を目の当たりにしたからか。
それとも最後の最後まで生き残ったからか。
この先もそうやって少しずつ大人になっていくのだろうか、幽霊になった自分など放り出して……

ベランダを通り抜けようとした夜風がシンジの髪を揺らすが、アスカの栗色の髪は触れることなくどこかへ消え去る。

「……今日は天気良いね、空気が少し乾いてるから過ごしやすいよ。季節が元に戻るのかな」
「知らないわよそんなの……」

自分はシンジのように変われなかった。
きっとあの時から、母親の死を目の当たりにしてから自分は何も変われなかったのだ。
だから……誰にも必要とされなくなった……

「アスカ、月ってあんなに蒼かったんだね。もう何年も見てないような気がする」

恐いくらいにまで大きく見える月、見上げる蒼い瞳にも同じものが見えた。

「あんたバカァ? 今頃気付いたの? あたしはもっと前に知ってたわ」

シンジより二日前にその事に気付いた、たったそれだけのことを妙に自慢したくなる。
無数の星々を引き連れ、氷のように冷たく静かに輝く月。
二人とも何も言葉すら忘れ天空の輝きを見つめ続け、そして自分の体内に流れる時間がゆっくり進むのを感じ取ることが出来た。
静寂で埋め尽くされた空間にただシンジの呼吸音だけがゆっくりと、ゆっくりとアスカに伝わる。
彼女は駆け巡る星より多くの思いの中から一つを摘み取った。

「ねえシンジ、ママのことはもう良いの?」
「……あの時は悲しいだけだったけど今は色んな事を思い出して……母さんの事、父さんの事、先生の家にいた頃とか此処に来てからの事とか」

シンジの心の中に置き場もなく放り出されたままの出来事、それが一つ一つ居場所を見つけ収まっていく。
棘のように刺さっていた出来事も、抱えているのが辛い出来事も心の棚に収まっていく。
母親は死んだ、コアを砕かれたことで目の前で死んでいった、その事を理解したときに抱えていた全てが収まっていった。

「母さんはもう死んだ、そう思ったときああ、やっぱりそうなのかって。上手く言えないけどこれからは一人で生きて行かなきゃいけないんだなって思えて」

今まで堰き止められていたシンジの時間が、理解したことで流れ出したのかも知れない。
14年間止まったままだった時間はこれから静かに、だが確実に動き出す。

「そっか……良かった。沈んだままだったら鬱陶しくてかなわないしね」

悪態にしては穏やかな言い様で、アスカは軽く背伸びをすると笑みを浮かべた。
それは今まで見たことがないほど静かな微笑みは、どこか彼女に相応しくないように思える。
それを問おうとしたとき、その姿は夜空に浮かんでいた。
月明かりの波に身体を踊らせるその姿は、まさしくダンスのようでシンジを誘っているかのようだ。
そして彼女の身体をすり抜けた夜風がシンジの元へ彼女の思いを伝えた。

「ホント良かった! あたしこれで安心できるわ! 」




この部屋にはかつてアスカという少女がいた。
つい最近まではアスカという少女の影がいた。
そして今、その影すら消え一週間ほどが過ぎていた。

「あらお帰り、どうだった?」
「見つからなかったよ、本部にもいなかったし……やっぱりコアに戻っちゃったのかな」
「ま、取り敢えず着替えてきなさいよ。夕立凄かったものね」

どこからか飛んできたバスタオルを受け取ると、シンジはびしょ濡れになった頭を無造作に拭き始める。
本部からの帰り道に土砂降りの雨に見舞われ、雨具を何一つ持っていなかったので酷い有様だった。
着ているシャツの裾から滴が床に散りカーペットに染みを作り、バスタオルの無力さを伝える。
結局シンジはバスルームへ向かいびしょ濡れのシャツと短パンを洗濯籠に投げ込むと、洗面台の鏡に映った自分を見つめた。
一週間、何も用事のない筈だったシンジはアスカを捜すことだけに費やされていた。
取り敢えずは事故や事件とは無関係だと解っているので、彼女の生命の危険を心配する必要はなかったが気楽でいられるわけでもない。
一体どれだけ歩き回っただろう、その距離は一日ごとに増え今日も足が棒のようになってしまった。

「どうせその内出てくるよな、バアとか言ってその辺から……」

そんな気がしないからこそ歩き回って、何も告げずにあの夜に消えたっきりのアスカを探していたのだ。
元に戻りたくないと再三彼女は口にしていたが、それは単なる強がりだと思っていた。
ふとシンジの背筋が寒くなったのは雨に打たれたせいではない。
言い様のない不吉な胸騒ぎを感じたシンジは自分で歩き回るしかなかった、探し出せる当ては無いが今出来る事はそのくらいだった。
アスカが姿を眩ましてからのミサトの言動にも妙なところが多い、それもまた胸騒ぎの原因となった。

「……こう言うのを自己満足って言うんだろうなぁ」

幽霊アスカが消える、それは何の根拠もない想像だったが、否定出来るだけの確信もまたない。
彼女の様子を見る限りむしろそれを受け入れようとすらしていたように見えた。
死にたがっている、そうとも思えないがあえて生きようとは思っていないのかも知れない。

着替えのTシャツを棚から引っ張り出し袖を通しながら、何の力にもなってやれない自分を呪いたくなる気分に陥った。
自分を責めても仕方ない、責めたところで何の解決にもならない、それは既に思い知らされていた。
焦りだけが募る。

「大体アスカに行く場所なんか無いのに……」

……彼女にとっての居場所はこのマンションとNERVだけだ、それ以外に見つけられなかったし与えられもしなかった。
探しもしなかったのだろう、許されたその場所だけを全てと思い込んでいる……
彼女だけじゃない、自分もそうだと思い込んでいた。

ふと何の気無しにアスカの使っていた部屋を覗いた。
華やかさのない、どことなく寒々しさを感じさせる部屋は持ち主の内面を映した光景に見える。
足を踏み入れると淀んだ空気がシンジにまとわりつき、ちょっとした息苦しさが喉に絡みつく。
タンスの上にうっすらと積もった埃を指でなぞりながら、床に落ちているぬいぐるみを見つめた。
一体何があったのか、サルのぬいぐるみは首が無惨に引きちぎられている。
それを手に取り眺め、大きな溜息が一つ零れた。

別にアスカを哀れんでるわけでもなく、不思議なことに助けたいとすら思っていない。
ただ伝えなければいけないことがあって……伝えたいことがあって……その結果彼女が消滅を望むなら仕方ないとさえシンジは思っている。

千切れたぬいぐるみの首を拾い上げ、胴体の上に乗せるとベットの上に座らせた。
何れこの部屋はどうなるか決まるだろう、もしアスカが帰ってこなければ部屋の中身は全て処分し再び自分が使うことになる。
そして彼女は記憶の中にだけ残り、自分はあの少女のいない時間を生きていくのだ。

涙を流し悲しみに溺れても、死ねなかった自分は生きて行くしかないのだろう……シンジは少女の部屋の扉を閉めるともう一度溜息をついた。


***


目の前で赤い輝きを放つコア、この中にシンジの知っている少女の魂があった。
彼女のホログラムが消えてから一週間が経ち、シンジはその間ずっと探し続けたのだが結局発見できなかった。
此処に、NERV本部地下の実験棟に来たのは、本当に最後の期待だ。

「……アスカ、そこにいるんだろ、ちょっとで良いから顔を出してよ」

例え姿は消えても魂は此処にある、姿を探す行為自体無駄なことだったのだが、そうでもしていなければシンジには辛すぎる時間だった。

「……お願いだから出てきてよ……」

果たして声が伝わるのかどうか解らない、だがこのままアスカが消えて行くのを黙ってみているわけには行かない。
もう一度会って……伝えなければいけないことは沢山あるのだ。

コアの設置されている台に座り、シンジは待ち続けた。

どこかで水滴の落ちる音が聞こえる。
どれだけの時間が過ぎたのか、その音を数えて千を越えた頃、誰かの呼ぶ声が聞こえた。
とても小さく、ともすれば聞き逃してしまいそうなほどだ。
無言のまま周囲を見回し……再びコアに目を向けるとその少女はいた。
だがそれはいつも見ている姿とは違い、まるで霧のように透けた身体を持つ少女だった。

「アスカ……どうしたんだよ」
「ねえシンジ、ミサトはあなたに何も言わなかったみたいね。あたしもうすぐ消えるの」
「消えるってどう言うことだよ?」
「……難しい事言ってもしょうがないけどこのままじゃいられ無いみたいね。ミサトやリツコは何も言わなかったけど自分で解るわ。もうどうでも良いって感じで自分が薄れていくの」

唖然としたままシンジは半透明の少女を見つめた。
消えることを恐れてもいなければ悲しんでもいない少女は、ただ淡く微笑んでいるだけだ。

「初号機破棄でシンジのことがちょっと心配だったけどもう大丈夫みたいだし……」

シンジは何かを口にしようとした、だが何も言葉が思い浮かんでこない。
ただ冷淡と思えるほどの冷静さでアスカを見つめるだけだ。

「だからもう良いの……本当ならあの時死んでるんだし、もう此処にいる理由もないの」

言葉を紡ぐ度に彼女の姿が薄れていき、気のせいかコアの輝きも少しずつ淡くなっていく。
引き留めなければ、シンジはそう思うのだがその為の言葉がでてこない。
まるで陽炎のように淡く見える少女。
時間だけが蜂蜜のようにゆっくりと二人の周囲を流れ去っていく。

「だからさ、シンジも元気でね。これでも結構楽しかったわよ、短い間だったけど……」

再びその姿はコアの中に消えていこうとしたとき、沈黙したシンジの口がやっと言葉を紡ぎだした。

「……僕は母さんが死んだときその事を認められなかった、でも今はそれが解るようになったよ。そして今度もアスカが死ぬことを時間掛けて理解するんだと思う」
「それで良いと思うわ、そしていつか忘れてね。覚えてるだけじゃ辛いから……」

シンジの右手が何かに耐えるように握りしめられる。

「でも理解したくないよ……アスカが死ぬことなんか理解したくないよ」
「シンジ、あたしの居場所は此処にはもう無いの。エヴァに乗る必要がないんだからもう誰にも望まれてないのよ」

終わりを告げる少女は優しそうに微笑んだ。
暗闇の倉庫の中でただ彼女の姿だけが淡く浮かび上がり、そんな恐れも悲しさも見せないアスカがむしろシンジには堪えた。

「……シンジ、バイバイ」
「いやだ! 」

エヴァに乗れと言われたときそれを断れなかった、そして今まで自分で決めたことなど何もなかった。
欲しい物を手に入れようとすらしなかった、大切な物など何もなかった、ただ周囲に合わせ生きてきた。

「居なくなったらいやだ……アスカ、側に居てよ!」

シンジが今まで生きてきて初めて口に出来た我が儘、他者への要求は余りにも単純な言葉だ。

「必要なんだよ……僕が生きていくのにアスカは必要なんだよ」

彼女の為じゃない、自分の為だ、彼女の望みじゃない、自分の願望だ。
それを口にしてどこが悪い、自分が生きていくのに必要なんだ、それを望んで何が悪い!
静寂を保っていたシンジの心が嵐の如く掻き乱されていく。

「……何で今更そんな事言うのよ……もう……」
「遅くなんか無い! アスカはまだ消えてないんだ!」

誰かのために……そんなのは嘘だとシンジは思う。
そこには誰かの為になりたいと思う「自分」が必ず存在し、その為に体を動かし言葉を紡ぐ。
そして自分は彼女を望む。

「アスカ、誰も望まなくったって僕はアスカが要るんだ……それを叶えてよ!」

悲しいまでの本音だった。
消えかけた少女の姿はそれに応えるように動き、少年の目の前までやって来た。

そして蒼い瞳を瞼の中に隠すし顔を近づけ、唇をそっと重ねる。
何の感触も伝えられない、悲しい口づけは数秒間続いた。

「……今更そんな事言わないでよ……もっと早く言えば……何度もキスできたのに……」

微笑みが泣き顔に変わるまで、さして時間は必要無かった……

***


いつもなら三人で食べる朝食、だが二人分しか用意されていない。
仕方ないのだ、もう一人の分は必要無いのだ。

「ミサトさん、早く食べないと遅刻するよ。今日は本部の閉鎖なんだろ?」
「あう、二日酔いで頭痛くって……何、今日は目玉焼き?せめてハムエッグに……ハイハイ、ちゃっちゃと食べますよ」

ミサトも今更二人分の朝食に何の疑問も抱かなくなった。
今度こそ本当に全てが終わったのだ。
本部は閉鎖され、隠していた弐号機コアも破棄され、職員の大半はあちこちに転職した。
NERVに関する全てを消し去るかのように何もかも無くなっていく。
リツコとミサトは扱いが難しいためか再就職先は斡旋して貰えなかったが、自力で何とか探し出したらしい。
リツコは北海道にある知り合いの居る動物病院に転職するそうだ。
シンジも大きく関わることになるミサトの再就職先は、宮城県にある警備会社になった。
二人とも公的機関へ転職できる立場ではないらしいが、兎に角飯の種が見つかったのはめでたいと心底シンジは思う。
シンジもまたミサトに引っ付いて宮城くんだりまで引っ越さなければならないのだが、その程度のことは幾らでも甘受できる。

「しっかし、これで一般人かぁ……あ、そうそう、シンちゃんの転校先決めたからね。公立で良いでしょ?」

何もかも変わる。
生活も生き方も、周りの人達も何もかも変わる……去る者、出会う者……
シンジの胸の奥がチクリと痛む、だが何れは忘れるだろう。
ふと空いたもう一つの椅子に目を向けた。

「……仕方ないのよ、シンちゃんの責任だけじゃないわ……あたしにもリツコにも……だから一人で背負い込まないで」
「解ってるよ……ただ……」

シンジはそっと箸を置いた。

「ただ……後が恐いなと思って……今はあれだから大人しいけど」

その時だった。
リビングに通じる扉が大きく開け放たれ、ものすごく不機嫌そうな少女が足を踏み入れてきたのだ。
頬はげっそり落ち、空色の瞳にも輝きはない。
自慢の髪もボサボサで、寝間着は着ているがヨレヨレなので酷い有様だ。

「……あんた達、何勝手に朝御飯食べてるのよ……あたしの分はどうしたの?」
「なーーーーに言ってンの、アスカの分なんか無いわよねぇ。大体あんた食べられないじゃない」

アスカと呼ばれた少女は、この世の者とは思えないほど恨みがましい目を逃げ出そうとしたシンジに向ける。

「……美味しそうじゃない、あたしの分はどうしたのよ。あたしもお腹空いたの!」
「だってアスカ食べられないじゃないか……お腹壊してるし」

多分本当はシンジにもミサトにも責任はないのかも知れない。
LCLからアスカが出てきたのは魂が戻ってから一ヶ月後、その後馴化期間で二週間リハビリを行い、やっとこの部屋に帰ってきたのはつい最近だ。

退院パーティーを企画したのはミサトで料理を作ったのはシンジ、同席したのはリツコ。
そして調子コイて料理を食べ過ぎ、お腹を思いっきり壊したのはアスカだ。
まあ、確かに誰も止めなかったと言うのも事実ではあるのだが。
兎に角それ以来二日ほどアスカはトイレの住人となり、今日三日目の朝を迎えている。

「ほら、薬飲んで寝なよ。僕だってまだここの片づけしなきゃだし」
「何よその冷たい冷酷な態度! 可哀想だとか僕が変わってあげたいとか言えないわけ!?」

壊したお腹は精神までねじ曲げてしまったのか、すっかりグレてしまった。

「ほらアスカ、この目玉焼きスッゴク美味しいわよ、あーほっぺた落ちちゃいそう」
「ミサトさん、バカの事言ってないでさっさと行って来なよ!」

ねじ曲げた原因は此処にもあるようだ。
で、その原因は更にからかったあと式典用の制服に着替え最後の出勤すると、もうすぐ引っ越すマンションに二人だけが残された。

静かで穏やかな朝は心地よい。
どこからともなく聞こえる鳥の声も、木々の揺れる音も二人の耳に静かに滑り込んでいく。

「薬飲んだらお粥作るよ、今はそれぐらいしか食べられないんだし」
「うん、コンソメ味にしてね。それと卵も落として……ま、何でもいいわ」

その少女はシンジの隣の席に座ると、彼の膝の上に頭を置いた。
その重さはちゃんと伝わる。

周囲は変わっていく、人は去りそして出会い……そして変わらぬ者も。
その変わらなかった者は何かを催促するように蒼い瞳を瞼の中に隠す。

 

 



今度はちゃんと互いの唇に感触が伝わった。