その夜のことを、アタシはきっと永遠に忘れることはないだろう。

ずっと、アタシの横にいたアイツ。

ずっと、アタシを想っていてくれたアイツ。

ずっと、アタシを見ていたアイツ。

ずっと、アタシが見ていたアイツ。



そのアイツが、墓場に入る、その前の晩だったのだから。



































































人生のね。

















星降る夜 君の隣




















「こらぁっ! 何考えてんのアンタ! 下ろしなさいよっ!」

狭い車内に、アタシの怒声が響く。
家でのんびりしていた所をいきなり抱き上げられて、そのまま見たこともないようなスポーツカーの助手席に無造作に放り出されて、何がなにやら分からないままに車を発進させられ、ようやく混乱から立ち直っての第一声がそれだった。

それなのに、アタシが、このアタシが全力で怒鳴ってやっているというのに、運転席で快調に飛ばしてるこの馬鹿は少しもこたえた様子を見せない。

「まあまあ、落ち着いて」

涼しい顔でそんなことをのたまう。
昔よりも幾分男臭くなった顔を、ようやくこちらに向けると、少し照れたような困ったようないつもの表情を浮かべてさらに続けた。

「それよりアスカ……いつまでもスカートでそんな格好してると、下着が見えるよ」
「誰のせいよっ!」

叫び返しながらも、顔面に血が上るのがわかる。
いわゆるお姫様だっこの状態から、助手席に置かれたアタシは、両足を大きく上げたはしたない格好のままだったのだ。部屋着のワンピースも、膝頭のあたりまでめくれあがっている。
慌てて足を下ろし、狭い車内ではそれさえも一苦労だったけど、なんとか姿勢を正した。

窓の外では、見慣れた近所の景色が加速度をつけて通り過ぎていく。
いつのまにか、アタシたちふたりを乗せた赤塗りのスポーツカーは、住宅地を抜けて双方二車線ずつの国道に入ろうとしていた。

「ちょっと……一体、どこに連れて行く気よ!?」
「いいとこだよ。すぐに分かる」
「アンタ、正気なの? 明日が何の日だか分かってる!?」
「分かってるよ」

アイツはハンドルを切って、危なげない動作で国道へと入った。

「結婚式だろ。僕と、アスカの」
「その通りよ、このバカシンジ!」

アタシはもう、怒鳴りすぎで頭がくらくらし始めてきていた。
本当に、コイツは何を考えているんだろう?
こんな大切な日の前日に、こんな大切な夜に。

こともあろうに、新婦を誘拐する新郎が一体どこの世界にいるってのよ!

「まあまあ、落ち着いて」
「落ち着けるかぁっ!」

叫んで――本当に一瞬、酸欠で視界がぶれた。
アタシは頭を押さえながら、シートに深く身を沈める。

「大丈夫?」

横目で聞いてくるアイツには沈黙で答えてやる。
もしかして、本当に、本当の本当にコイツは馬鹿なんじゃないだろうか。
そんな疑問すらわいてきた。

そんなアタシの心だけを置き去りにするように、車は相変わらず快調に飛ばしている。
国道を抜け、高速道路に入ろうとしたとき、料金所で騒いでやろうかとも思ったのだが、やはりそれはあまりに恥だったのでやめた。

「アンタねぇ……本当に、どこにアタシを連れてくつもりなのよ?」

アタシはもう、半分泣きたいような気持ちで言っていた。
時刻はもう真夜中を過ぎている。寝不足の、化粧のノリも悪い肌で明日の結婚式に出なくてはならないのかと考えると、それだけで涙が出てきそうだった。

そんなことを人に言ったことはただの一度たりともないけど、アタシだっていわゆる結婚式、お嫁さんというやつにそれなりの、一般的な女が普通に持つ程度の幻想なら持っていた。
その日は、花嫁が人生の中で一番綺麗に自分自身を飾り立てる日。女の子にとって一生に一度、最大最高の晴れ舞台。古くさいと自分自身で思いながらも、そのイメージはあまりにも強固にアタシ自身の中にあった。

だから、式場選びもウェディングドレス選びも本当に全身全霊を込めてやったし、当日シンジやお客を驚かせてやろうと思って色々と秘密の趣向に頭をひねらしたりもした。 後は、今晩ぐっすりと寝て、万全の体調で、人生の中で一番綺麗なアタシで明日を迎えるだけだったのに。それだけだったのに。

この馬鹿は、そんなアタシのささやかな幻想すら粉々にうち砕こうとしてるのだろうか?

「まあ、もうちょっと僕を信じて待っててよ」
「信じられないわよぉ……バカぁ……」

あ……ホントに涙が出てきそう……

「アスカ、泣かないでよ……本当に悪気はないんだ。ほら、昔の歌でもあったでしょ? 帰らせないよ朝が来るまでは、ってね」
「知らないわよぉ……そんな歌」

なんか……もう……限界かも知れない。
本当に、大声で、子供みたいにわんわんと泣き出してやろうかと思った、その刹那。

あの馬鹿は、どうしようもないくらいのこの馬鹿は。
こともあろうに、私の唇を自分のそれで塞いできた。車を運転しながら、だ。

アタシはあまりのことに頭が真っ白になって、何も考えられなくて。
ただただ呆然といきなりのキスを受け入れていた。

アイツは唇を離すと、隣の車線にはみ出しかけていた車体を修正し、そのまま何事もなかったかのように運転を続けた。

アタシが、ようやく我に返ると、白々しく優しげな笑みなんて浮かべながら、

「落ち着いた? アスカ」

なんて聞くものだから……

「降りるぅっ! 絶対降りるっ! 飛び降りてでも降りてやるぅっ!!」
「死ぬって」

冷静な指摘。
それも余計に悔しくて、アタシは頑是ない子供みたいにわめいていた。

シンジは少し肩をすくめるようにすると、カーステレオのスイッチを入れた。その途端、スピーカーからは軽快なギターの音が響く。

「音楽でも聴けば少しは落ち着くよ……アスカ、エアロスミスとか聞かないっけ?」

聞かない訳じゃない。けど、こんなときにノリのいいロックを聴いて陽気な気分になんてなれるわけがない。
確かスティーブンなんたらと言う名前だったヴォーカルの声も、今はアタシの気分を逆なでするだけだった。

だいたい、考えてみれば今日はこの馬鹿にペースを取られっぱなしである。
自分で言うのもなんだけど、普段だったら強引に我が道を突き進むアタシと、少し困った顔でその半歩後ろをついてくるシンジというのが、良くも悪くもアタシたちの役割、了解された定位置だった。
そこまで考えて、ようやく今日のシンジにペースを乱される理由に気づいた。

強引なのだ。いつになく。
まるで普段と役割が交代したかのように、今日のシンジは強引に行動している。
いつまでたっても人の顔色をうかがう癖の抜けないコイツとはとても思えないほどに、だ。

もしかして、コイツ本当はシンジじゃないんじゃ……

そんな考えすら頭に浮かぶ。
シンジは、薄気味悪そうな目で見ているアタシに気づいたのか、こちらに顔を向けた。

「ど、どうしたの? アスカ」

その顔は、少し怯えたような、困ったような、そんないつもの微妙な笑み。コイツらしい、曖昧な顔。
その表情が、憎たらしいぐらいにいつも通りで、悔しいぐらいにそれで安心しちゃってる自分に気づいて。

「別に。なんでもない」

アタシは思わず顔を背け、ぶっきらぼうに答えていた。
後頭部に少しアイツの視線を感じたけど、運転に集中することにしたのか、それもすこしして消える。

少し拗ねたような気持ちで、窓の外を眺めていた。
いつの間にか高速道路は高架橋の上を通っていて、街の夜景を見下ろす形になっている。
圧倒的な闇の、その底に広がる光は、その全てに人の営みがつまっているようで、なんだか今の気持ちとも相まって泣きたくなるような光景だった。

スピーカーから流れる音楽も、先ほどまでの軽快なメロディから、甘いバラードへと変わっていて、それも余計にアタシの琴線に触れた。
蜜のような声が、静かに車内に満ちて、ささくれだった心の表面を撫でつけていく。

かすかに聞こえるシンジの鼻歌が耳障りと言えば耳障りだったけど……まあ、それでもいいかというような気持ちだった。


<Tell me what it takes to let you go, Tell me how the pain's supposed to go...>


車は、夜の高速道路を走っていく。
アタシを乗せて、シンジを乗せて。
どこに向かっているのかすらまだわからない。

アタシは悲しいような、悔しいような、それでもどこかで安らいでるような、変な気持ちのままで、それ以上何も話さずに車に揺られていた。

シンジも、何も話しかけてきはしない。ハンドルを握って、夜の高速を淡々と走らせている。心なしか、いつもより少し荒い運転で。

――これも、デートっていうのかな?
ふと、そんなことを思いついた。
デート、とも違うだろう。しかし、端から見ればデート以外の何物でもないかも知れない。
若い男女が、それも婚約しているような男女が、ついでにいえば結婚式を明日に控えているような男女が、夜中にふたりきりでスポーツカーを走らせている。
……どこをどう見てもデートだわね。

カーステレオからは、ついさっき聞いた曲がまた流れてきていた。
しかし、全く同じではない。
アルバムバージョンか、ライブバージョンかなのかだろう。先ほどまでとは微妙に違う、けれどもやはりその本質は変わらないと思える歌が、緩やかに車内を満たしていた。

「もうすぐだよ」

不意に、シンジの声が聞こえる。

「え、何が?」

窓の外の景色を眺めながら思考に埋没していたアタシは、思わず間抜けな返答を返していた。

「目的地だよ」

シンジは少し苦笑したようだった。
その言葉通り、高速道路を降りて、料金所を通り、車は再び市街地に戻った。

大分遠くまで来たのか、もうこの辺では明かりもほとんどない。
車の窓から外を見てみても、かすかに家や建物の輪郭が分かる程度で、後は漆黒の闇だった。

アタシは車の窓を開ける。
すると、どこからともなく潮の香り。

「……海?」

思わず言葉が漏れた。

「さすがアスカ。勘がいい」

シンジの声は、妙に楽しそうだった。

細い道を何度か曲がると、車は開けた場所に出たようだった。
遮る物がなくなったせいか、潮の香りがより強く感じられる。
そう、アタシは今海に面していた。

タイヤが砂を噛む音で、砂浜に出たのだとすぐにわかった。
向こうに微かに見える水平線をそのまま写し取ったかのような波打ち際が、緩やかな曲線を描いて左右にのびている。
夏になれば海水浴場として賑わいそうな場所だ。もっとも、こんな夜遅く、しかも冬も近いような時期では水泳客などいるはずもないが。

「海水浴場としては割と有名な場所なんだよ。明るいときに来たら知ってたかもね」

車から降りたアタシの考えを見透かしたかのように、シンジ。
アタシの隣に立ったその手には、魔法瓶と二つのマグカップを抱えるようにして持っていた。
片方のマグカップを脇に挟むようにすると、シンジらしからぬ器用な仕草で魔法瓶の中身を注ぎ、アタシに渡す。
どうやら、熱い紅茶のようだった。品のいい微かな香りと、顔に当たる暖かな湯気が心地よい。

「もう、少し寒いしね」

笑いながらいうと、自分の分も注いでそれに口を付けた。
そして、すぐに離す。
熱かったらしい。

いい気味。

中身をさましながら、そんな思いをありありと浮かべた目で見てやる。
それに気づいたシンジは、いつもの苦笑を浮かべて手のマグカップを揺らした。

「……で? こんなとこまで連れてきて、一体どうしようってのよ?」

シンジは無言で、空を見上げた。
それにつられて、アタシも視線を上向ける。

「わあ……」

漏れたのは、感嘆の声。

闇色の絨毯に敷き詰められた、無数の宝石が、思い思いの色と強さで瞬いている。
都会の、くすんだ夜空の中で弱々しく煌めく星々とはまるで違う、力強い、それでいて繊細なその光。
その強い輝きは、まるでそれぞれが、夜空の中央に鎮座する月という女王に仕える兵士であるかのように、頑なに自分の持ち場を守っているように見えた。

たかが、夜空。
それが少しばかり綺麗だったからといって、自分が感動するなんて思わなかった。

けれど、今アタシはこうして言葉も発せないくらいにそれに見入っている。
遠い昔から、多くの人々がそれに魅せられ、無数の物語をそこに託した理由が、今なんとなく分かった気がした。

「気に入ってくれたかな」

その声に、ふと我に返る。

そういえば、コイツがいたことを忘れていた。

「……ま、ね」

今更ながら、見事にシンジの思惑に乗せられたことが、どこかこそばゆいような悔しさになってアタシの胸の中を這い上がる。

「アスカと、一緒に見たかったんだ」

アタシは、星を見上げたままでシンジの言葉を聞いていた。

「結婚する前に、夫婦になる前に……僕の奥さんになったアスカじゃなくて、あの時出会った、僕の親友の、仲間の、恋人のアスカと一緒に……見たかった」

ああ。

そうだ。

そうなのだ。

「分からないんだ。ただ、このままで明日という日を迎えたら、そこで何かが変わってしまうような……何かが終わってしまうような、そんな気がしたんだ。僕は何か行動を起こさなくちゃいけないと思った。気がついたら……アスカを乗せて、車を走らせてた」

シンジの言葉を半分聞いているような、半分聞いていないような気持ちで、アタシは悟っていた。

コイツも、この馬鹿も、不安だったのだ。
結婚という儀式を迎えてしまうことで、終わってしまうような気がしたのだ。アタシたちが初めて出会ったあの日から、今日まで続いてきたふたりの絆が。
社会的に認められた夫婦となることで、アタシたちは今までのようなふたりではなくて、もっと別のものになってしまうのかもしれない。
楽しかった、幸せな日々は終わって、また新しい何かが始まる。その何かが幸せなのか、そうでないのかは分からない。それなら、ずっと楽しかった頃にすがりついていたい。

けれど。

「本当、バカね。アンタ」

そうだ、馬鹿だ。

だって、本当は何も終わりはしないんだから。

何も、終わる訳じゃない。ただ、アタシたちは今までの延長線上に、今までと同じように、でも少しずつ変わりながら、続いていくだけなんだ。
少女の頃の物語は終わっても、アタシは生きていくのだから。

「……そうだね、バカだ、僕は」

少し、寂しそうに笑ったシンジに、向き直ったアタシがすることはひとつだった。

さっきの、仕返し。

首に腕をまわして、爪先立ちになる。

離れた後の、呆気にとられたような顔のアイツに、もう一度、言ってやる。

「そ。初めて会ったときから何にも変わらない、バカシンジ。きっと、これからもずっと、ね」

言ってて、顔が赤くなってるのが自分でも分かった。
でも、それでもいいかな。それこそ今更だもんね。

コイツは、分かってるんだろうか?

アタシが、こんなに無防備に、怒ってみたり、拗ねてみたり、笑ってみたり出来るのは、コイツの前でだけだということを。
きっと分かってなんかいないのだろう。
だってコイツは馬鹿なんだから。

そして、この馬鹿がいなくちゃ生きていけないアタシが、一番馬鹿なのだ。

「アスカ」

ほら、馬鹿。
そんな声で呼ばれたら、そんな瞳で見つめられたら、そんな笑みを向けられたら。
いつまでたっても、アタシまで馬鹿のまんまじゃないの。

「愛してるよ」

……バカ。













アタシたちは、肩を寄せ合って座っていた。

熱い紅茶の入ったマグカップを抱えて、男物のコートをふたりで肩に羽織って。

海を渡って届いた風が、時折ふたりの髪を揺らす。

潮騒と微かな街の喧噪を聞きながら、とりとめもなく話していた。

嬉しかったこと。
楽しかったこと。
悲しかったこと。
辛かったこと。
傷付けられたこと。
傷付けたこと。

今まで歩いてきた道をふたりで確かめるように、たくさんの思い出を飛び石を渡るように話し合った。

互いのぬくもりを感じて。

星を見つめながら。

星に、見つめられながら。












「あのさ」

「なに?」

「愛してる、って言葉の数で、気持ちを表すことができるのかな」

「試してみる?」

「……いや、いい」

「どうして?」

「かれちゃうよ、喉がさ」

「ふふふ……言うじゃない」
















「星ってさ」

「え?」

「星って、きっとずっとこのままなのよね」

「そうかな」

「アタシたちが、おじいちゃんおばあちゃんになって、いつか死んでしまったとしても、きっと今とほとんど変わらずにこうして光ってるのよね」

「そうかもしれないね」

「……ねえ」

「うん?」

「永遠に続く時間って、ないのかな」

「……どうして、そんなことを聞くの?」

「だって、今……この時がずっと続けばいいと思ってる」




















「寒いね」

「そうだね」
































「……でも、あったかいね」

「……うん」

















やがて、東の空はビロードのような紫に染まり出す。

アタシたちは、冷え切ってしまったマグカップを持ったまま、もう何も話さずに、ただ黙って海を見ていた。
まるでひとつの巨大な生き物のように呼吸し、うごめく海原は、昨日と今日と明日とにまたがって、いつまでも何かを語り続けているようにみえた。

手の先はかじかんで、地面についたお尻も冷たかったけど、触れあっている肩だけは暖かくて、それだけで十分に思えた。
きっとシンジも同じ気持ちだったのだと思う。お互いのぬくもりが、空気がいつでもそこにあるように、空がいつでも頭上にあるように、ひどく自然なものに思えた。それだけが、この世にただひとつの信じれる、信じるに値するものだというような気さえした。

「そろそろ、式場に向かわなきゃね」

腕時計を見たのだろうか、少し身じろぎしたシンジが言った。

もう太陽は、山の向こうから半分以上その身を押し上げていた。
顔の左側に当たる光を感じながら、アタシはシンジの肩に頭を乗せた。

「……もう、終わりなのね」
「違うよ」

上から聞こえた声に、そのままの体勢で首をひねる。
目の前には、アイツの、いつもの笑顔があった。

「何も終わりはしないよ、アスカ。そうだろう?」

朝日に照らされたその顔に、出会った日の十四歳のアイツの顔が重なる。
アタシも、その一瞬だけ、初めて会ったあの日に戻ったような気がした。

そして、その気持ちのまま、あの日には想像も付かなかったような行為を、ごく自然にする。

唇が離れて、そしたらなんだか急にひどく気恥ずかしくなって、顔を背けてしまう。シンジも同じだったのか、顔を真っ赤にしてそっぽを向いてしまった。きっと、アタシも同じくらい真っ赤なのだろう。

「……行こうか」
「……うん」

アタシたちは、立ち上がって、車に乗った。
今度は無理矢理にじゃなく、自分の意志で助手席に乗り込む。

「そういえばさ」

シートベルトをしめながら、何となく気になったことを、口に出してみた。

「この車、どうしたの? こんなの持ってなかったわよね」
「あ」

…………

こら。

「あ」って何よ、「あ」って。

激烈に嫌な予感が背筋を駆け上がる。
こめかみのあたりを冷や汗が流れるのを自覚しながら、アタシは運転席のバカを見た。

そこには、半開きの口と見開いた目のままで固まってる大バカ一人。

「ちょっと、いったいどう――っきゃあああああああっ!?」

何の前触れもなしに、車は急発進した。
まだ暖まっていないエンジンが悲鳴を上げる。アイツは、この超爆裂バカは、アクセルを全開に踏み込みながら叫んだ。

「アスカっ! 急いでこの車を返しに行くよ!」
「――ってレンタカーなのっこれ!?」
「あああっ! 時間までに返さないとハネムーンに行けなくなるっ!?」
「どっから金出してんのよっ! あんたはっ!」



ああ。
結局、こうなるんだ。
最後まできまれないのが、アタシたちなんだろうか。
朝の静けさをぶち壊すタイヤの軋みとエンジン音が、まるでアタシたちの前途を象徴しているかのようだ。
きっとこれからも、こんな風に、失敗やケンカを繰り返して、いつまでも進歩もせずに生きていくんだろう。

人知れずため息をついて、アタシはシンジを横目で見た。
必死の形相で、食い入るように前方を見つめながらハンドルを握りしめている。

最初の出会いからロクなものじゃなかったアタシたちだ。きっとこれからもロクでもない人生が続いて、ロクでもないふたりのままで死んでいくんだろう。
まあ、それでも。
自然と、笑みがこぼれる。

それまでの間、せいぜいよろしくね。





――アタシの、バカシンジ。