朝から怪しかった雲行きがやがてどんよりとその厚みを増して巨大な積乱雲となり、夕方の5時を過ぎたあたりだろうか、突然猛烈な雨が第3新東京市を襲った。叩きつけるような雨粒が運悪く道を歩いていた人々に降り注ぎ、その独特の、梅雨時のそれとは違う妙にさっぱりとした雨模様に人々は夏という季節を感じざるを得なかった。

その外れに位置するマンション、コンフォート21の前を雨に打たれながら小走りに駆けていく学生服の少年が一人。朝に傘を持っていくのを忘れてしまったのだろう、土砂降りの雨は容赦なく彼の服をずぶ濡れにしてしまっていた。

「参ったな…」

靴の中まで既に濡れてしまっているのでばしゃばしゃと水たまりに足を踏み込むのもお構いなしだ。そのまま速度を落とすことなくマンションの入り口へと走る。エレベーターの前で立ち止まると前髪や鞄からポタポタと音を立てて水滴がコンクリートの床に染みを作っていく。

靴の中で水がガボガボと音を立てて不快極まり無い。もう少しでこの不快から解放されるんだ、と考え自分をほんの少し奮い立たせてエレベーターに乗り込む。相変わらず髪や服から滴り落ちる水滴が足元のカーペットに染みを作った。

「はぁ…やっと着いた…」

鞄から手早くカードキーを取り出すと扉を開けて靴を脱ぐ。そのままでは気持ち悪いので靴下もその場でさっさと脱いでしまう事にした。まるで張り付いたかのように足に頑固に留まる靴下を強引に引っ張り悪戦苦闘していると、その足元に見慣れたもう一つの靴があるのを見つけた。

「あれ?アスカ帰ってきてるのかな」

アスカも同様に雨に打たれてしまったのだろう、その靴もぐっしょりと濡れてコンクリートの床に染みを作っている。

「ただいまー…っと、アスカー?」

玄関から声をかけてみるが返答はない。なんとも家の中ががらんとした印象を受ける。しんと静まり返っているせいか、だんだんと近づいてくる雷の音がはっきりと聞き取れた。どうやら先程の土砂降りは雷雨になってしまうらしい。遠くでゴロゴロと鳴る雷の音は人を不安にさせる。

「??部屋に居るのかな…ま、いいか」

こんなずぶ濡れのまま家の中をウロウロしたのでは何を言われるかわかったものではない。夕食の準備もしなければいけないし洗濯もしなければならない。時間に追われているという事実が彼の注意力を少しだけ鈍らせた。

「うあ…こりゃひどいや、早く洗濯しなきゃ…」

洗濯カゴに放り込むべくYシャツのボタンに手を掛けてプチプチと外して行く。夏用のシャツとはいえ二の腕や胸にベタベタとまとわりつくのがうっとうしい事この上無い。
左手に脱いだシャツを持って脱衣所のカーテンを素早く開けた。

 



が。

 




「………へ?」

目の前の光景に唖然とするシンジ。
なんだ、アスカったら返事が無いと思ったらこんな所に居たのか。返事してくれればいいのに…


…って、そうではなく。


問題はお互いの格好だ。

シンジはYシャツ片手に上半身裸、学生ズボンはまだはいたままだったのは幸運と言えよう。しかし、不運なことにアスカは…おそらく雨のせいでシンジと同じくずぶ濡れになってしまい、シャワーを浴びようかと思ったのだろう、上半身のシャツを脱いでスカートに手を掛けた所であった。複雑なレースの模様で彩られた下着が妙に目にまぶしい。

ああ、今日はアスカ、白なんだ…


…いや、そうではなく。



ほんの2〜3秒、気まずい沈黙が流れる…

はた。


シンジはそこで初めて自分が今とんでもない状況に置かれている事に気付き狼狽した。これは事故!そう事故だよ!…そうなんだけど、ねぇ……しまった…

後悔役立たず。


アスカはその時後ろを向いていたので未だ表情は伺い知れない。シンジの脳裏に驚異的な早さでここから先の行動が展開される。

えーと…



とりあえずとんでもない悲鳴が上がって…

スナップの程よく効いた、死なない程度に強力なビンタが飛んできて…

脱衣所から蹴りだされてカーテン越しに罵詈雑言の集中放火を浴びて…

結局それでは機嫌が直らなくて夕食でなんとか話ができるようになって…

責任を取らされて週末に買い物に付き合わされて奢らされるハメになるんだ…


−最後のは贅沢な悩みとも言えるが…



そうっとアスカがこっちに振り向く。未だお互い唖然とした表情は崩さないが、一瞬早くアスカの表情が変化する。本能的なカンでまず悲鳴が上がるのを察知したシンジ。なんとかこの先の展開を回避できないか−けど自分が覗いてしまった形になったのは間違っていない。

まずは、まずは、そう!謝らなきゃ…

「えっと、アスカ…その…」

「…………っ!」

アスカがはっと息を呑むのがわかった。状況を完全に理解し、そこにシンジが居るのを認めたらしくそれに対する行動を取るべく息をすうっと吸い込んだ。まず耳をつんざくあの悲鳴が来る!そう思って耳を塞ごうとしたその瞬間−


どんがらがっしゃーーーーーーーーーーーーーーーーん!!!


「キャァァァァッ!?」

「うあぁぁぁっ!?」

不安定極まりない遥か上空の積乱雲から地上めがけて一気に雷が炸裂した。しかも今二人が居るマンションから数百メートルほどの位置に落ちたらしく、まるで真上に落ちたかのような爆音がして反射的に声を上げてしまった。今自分が上げた悲鳴がまるでどこか遠くで自分以外の人間のもののように思え、一瞬目の前が真っ白になり、自分と言うものが不確かに感じられるくらいの爆音である。

(ふっ)

雷が落ちた瞬間に家中の電気が一気に消えた。どうやら送電線を直撃してしまったらしく、一気に目の前が真っ暗になる。




バクバクバクバクバク…

ああ、びっくりした…心臓が止まるかと思った…あ、電気が消えてる…今の雷のせいかな、長引くのかな、そういえばロウソクはどこだっけ…って、あれ?

おれ?

あれ?

なんでこんなに胸が暖かいんだろう…


闇に目が慣れたのか、ほんの少しだけ見えるようになってきた。自分の胸元に慣れない感触を感じたので目をそちらに向けた瞬間、雷が落ちた時以上の衝撃がシンジの体中を駆け巡った。視界に飛び込んできたのは普段は目映い光を放っている蜂蜜色の髪。

「あ、あ、あ、ああああああすかぁぁぁぁ!?」

「……」

え、え、えーと、今、雷が落ちて、停電になって、えーと、ロウソクってどこだっけ、っていやそうじゃなくて、アスカがなぜかここに居てしがみついてて、で、僕は僕で上はハダカでアスカも上は下着だけ…って…ぇぇぇぇぇぇっ!?

状況を整理した所でますますシンジは混乱に陥った。自分の胸の中に居るアスカの露になった肩はいつもよりずっと華奢に見えて、そのじっとりと濡れた前髪から垣間見える表情は怯えきっていて…

「怖い…よ…シンジ…」

その掠れた呟きのような言葉がシンジの耳に届き、はっと我に返る。

「あ、あ、アスカ…」

考えろ考えろ!どうすればいい!?

自分の胸に当てられたアスカの手は細かく震えていて…今すぐに安心させてあげなきゃ…そう思った瞬間、だらりと下げられた両手がまるで固有の意志を持ったかのようにゆっくりと上がり、片方は後ろから頭を優しく抱え、もう片方の手で背中をぽん、ぽんと軽く当ててやる。

もうそんなに怖がる必要なんてどこにもないから−

「大丈夫だから…ね、アスカ…」

「シンジ…シンジぃ…」

恐怖の余り潤んだ瞳をシンジに向けるアスカ。シンジの方が多少背が高い分見上げるような形になってしまい、その縋るような視線にシンジの理性が半分ふっとびそうになる。いつの世も、女性の上目遣いというものは必殺の武器になるのだ。しかも無意識にやっているだけにタチが悪い。

かっ、可愛い……

たまらずシンジはアスカの背後に回した腕に力を込めてぎゅっと抱きしめてしまった。

お互いの視線がもう一度ぶつかる。




やがて、静かにアスカの目蓋が閉じられた。




その行動を肯定と受け取ったのかシンジも少しづつ唇の距離を縮めて行く−



少しづつ−



少しづつ−



そして二人の影がやがて一つに−




一つに…




(ぱっ)

 




…ならなかった。



「「あっ」」

お互い目を開けて頭上の電灯を見上げる。さすがに第三新東京市、こういった災害への対応も早く、別系統からの電源に切り替わったようである。その光が煌々と二人を照らしていた。

「あ…直った…」

電灯を見上げたままシンジがぽつりと呟く。あれ?そういえば…今…
自分がしようとしていた事にふと気付くと、慌てて未だ自分の胸の中に居るアスカに視線を移す。その顔は熟れたトマトのように真っ赤で、だんだんと自分の行為がいかに大胆極まるものであったかが解ってくる。

「え…と、その…これは…」

「!!」

「…アスカ?」

先ほどとは違った震えがアスカを支配する。ぶるぶると今度は大刻みになり、ここぞとばかりにすうっと大きく息を吸い込むとあらん限りの声で悲鳴を上げた。

「きゃあああああああああああああああああああああっ!!!さっさと出ていきなさいよバカシンジぃぃぃぃぃっ!!」

ぶんっ!

ぱぁぁんっ!!

程よくスナップの効いたビンタが先程の予想通りシンジの左の頬にヒットする。一気に天国から地獄へ急降下。殴られ慣れた彼にとってみればトータルで少しプラスになったのかもしれない。

「(ああ…やっぱりこうなるんだよな…あ、そうだ…今日はロールキャベツにしよう…)」

薄れ行く意識の中でアスカの機嫌を直すための献立を考えているのは遺伝子レベルで刷り込まれた悲しい習性と言えよう。






「ねぇ…アスカぁ…」

「……(ぱくぱく)」

「ゴメンってば…機嫌直してよ…ほら、今日のこれ、自信作なんだよ…」

「……(もぐもぐ)」

「……はぁ」

結局夕食までアスカの機嫌は直る事はなく、シンジが持つ一番有効な策としてアスカの好物を用意したのだが…事故だったとは言えその後の行動があった分、今回は分が悪い。思わずついてしまった溜め息に、今までぶすっとした表情でロールキャベツをつついていたアスカがようやく口を開いた。

「……アンタ、自分で何をしようとしたのか、わかってるの?」

不機嫌そうなのか実際に怒っているのかはその表情から窺い知る事はできないが、その場の空気から、適当な返答は自分の命を縮めるだけであることは容易に察する事ができる。

「いや、その、ゴメン…」

これしか言えないのか!と自分で思ってしまうほど言い尽くした謝罪の言葉。違う、こんな事じゃない、もっと違う事を…

「はぁ…まぁアタシの着替えを見てしまったのは百歩譲って事故だったとしてもよ、問題はその後…」

「だって、あれはアスカだって!」

その瞬間シンジの脳裏に浮かんだのはあの闇に浮かび上がる白い肌、そして柔らかな感触…忘れろと言ったってそれは絶対に無理な話だ。よりにもよって自分が一番大切に想っている相手の…その…

思わずお互いの頬にさっと朱が走る。
そうだ、あの時のお互いの行動を信じられたなら−しかし、アスカはどうなのか?

「…そ、それじゃぁ質問を変えるわよ…」

「え?」

「なぜ、ああいうことをしようとしたの?」

「そ、それは…」

あの時、自分の胸の中に居たアスカは普段の様子からはまったく想像もできないほど弱弱しくて、儚げで、守ってあげたくて−でも、それだけじゃない、自分は−

「答えて」

前に身を乗り出してきたアスカの真剣な眼差しが両の眼を貫く。いつもそうだ。今までに何度かあったこの真剣な眼。それを自分は直視できない。思わず逸らしてしまう。でもそれは相手の意思を無視する、台無しにするということだ。…もうそんな事はしたくない。



だから−


だから−



「アスカが、その……好きだから、大好きだから、だよ…」



全身の血が沸騰するかのような錯覚!

自分の心臓がドクドクと脈打っているのがわかる。もう後戻りはできない、できるだけ今まで触れないようにしてきた男と女としての恋愛感情。もう今までのようなぬるま湯のようなつかず離れずの関係は望めない−白か黒か、イエスかノーか、答えは1つだ。

「…………そう……」

「ずっと…そう思ってた。でも、僕は見ての通り卑怯で、臆病で、弱虫で…言う勇気が、なかったんだ……」

アスカはその真剣な眼差しを変える事無く、先程からずうっとこちらを見ている。
なんでこんな事になったんだ−

背筋に伝わる、ザワザワとした奇妙な冷たい感覚。

「シンジ」

「え?」

「シンジが言ってくれたから、アタシは返事をしなきゃ……」

「あ………」

拒絶されるのが怖い。嫌われるのが怖い。
すっとアスカは立ち上がるとテーブルを挟んだこちらに歩み寄った。僕の目の前にいるアスカは、少し項垂れていて前髪がその目を隠している。複雑な表情−

一秒ごとに自分の胸が締め付けられていくような、そんな静寂。





ぽたり。




一瞬、何が起こったかわからなかった。


キラキラと光る綺麗な何かが、目の前を落ちていった。



そしてもう一回。



アスカが、泣いていた。
その肩を小さく震わせながら。


「あ……たし、アタシはっ!」

「アスカ?」

「シンジ、シンジ、シンジィッ!」

がばり。突然アスカが胸に飛び込んできた。あまりに唐突な事だったのでそれを受け止めるのが精一杯だったけど、でもそれで十分だった。泣きじゃくるアスカは、さっきのあのアスカとまったく同じで…弱々しくて、儚げで、少しでも強く触れたらすぐにバラバラに砕けてしまいそうな、まるで脆いガラスのような、そんな印象を受けた。


嫌われてると思ってた。

もうダメなのかと思ってた。


でも、間違いない。アスカの返事は…「Yes」なんだ。


なんだか体中の力が一気に抜けてしまって、アスカを支えてるのも怪しいくらいだったけど、この胸の中に広がる温もりは…心地良い。人の温もりがこんなに安心するものだとは思わなかった。そう思ったら勝手に手が、そっとアスカの背中を包んで、いつしか強く抱きしめるようになっていた。

「アスカ…」

「アタシも…ずっと、ずっとシンジの事が大好きだった……でも、さっきのシンジの行動が、もしかしたらその場の雰囲気に流されて、ってことじゃないかと思えてきて…ごめんね、ごめんね…」

「そうだったんだ…」

「シンジぃ……」

お互いの視線がぶつかる。上目遣いのその目は涙に濡れてとても綺麗で、ぼうっとそれに魅入られてしまうような錯覚を覚える。やがて静かにその目は閉じられて…
こんな時、何か言うんだろうけど、気の利いたセリフ、何一つ出てこないや…

「好きだ、アスカ…」

「アタシも…………んっ」

たどたどしいながらも全ての想いを込めたキス。
僕らが本当にお互いの感情を認めた上での初めてのキス。

5秒か10秒か、どのくらいの長さかわからなかったけど、やがて唇と唇がそっと離れて、その間に小さな橋がかかり、音も無く崩れた。なんだかそれがひどく現実離れしたような光景に見えて、僕らはそれをぼうっとそれを見つめている。

「シンジ……」

まるで熱にうかされたかのようにとろんとしたアスカの表情にまた落ち着いていた心臓がドキリと動くのがわかった。やっぱりこれは反則だよ…

「その…えっと、うまく言えないんだけど…僕が、守るから…」

「うん…信じてる。シンジの言う事なら、信じられるから…」

いつまでもこんな状態のままじゃ、ミサトさんが帰ってきた時に何て言われるかわかったもんじゃないな…喜んでくれるかもしれないけど、まだちょっと知られたくないってのもあるし…

そう考えて、そっとその肩に手を置いて抱きついていたアスカを引き離す。失われていく温もりがひどく寂しげなものに感じられたけど−

「さ、涙拭いて。ご飯食べようよ。折角アスカのために作ったんだから冷めちゃったら持ったいないよ。ね?」

半分照れ隠しだけど、アスカのために作ったのだから食べてもらわなきゃ勿体無いって気持ちも当然ある。やっぱり泣いている顔は似合わないから−

「……うん!」

その笑顔はまるで雨上がりの向日葵のように、蜂蜜色の髪とともに輝いていた。



 

 

それは、雨が少しだけ嫌じゃなくなった日の出来事。




 


 

 

 

 

 


それからというもの−



「し、シンジ…」

「ん?どうしたのアスカ、こんな夜更けに?」

「…きょ、今日って雨降ってるでしょ…また雷が落ちそうで嫌なの…そ、その、一緒に寝ていい?」

…枕を持って、パジャマ姿で来られては嫌なんて言えるわけないよなぁ…
その…可愛いし。

「ぼ、僕はいいんだけど…ミサトさんに見つかったらどうするの?それこそ雷が落ちるよ?」

「そしたら、シンジがまた守ってくれるもん……ね?」

雨の日をすっかり味方につけたアスカは、今日もこうしてご機嫌の表情で眠りについた。僕も男なんだけどなぁ…わかってるのかな?





 




………ま、いいか。

 

 

 

 

 


あとがき

これを最初に書いたのはまだ初夏と言える頃…1ヶ月以上前です。雨が降ってました。仕方なく部屋に引きこもりクンです。ああ暗い(笑) 一人甘い話をつらつら書いているっていうシチュエーションが暗さ倍増でなんだか鬱になってました(爆)

ストックが切れたので今日からまたネタ探しです。でも執筆は大幅な遅れが予想されます。
…だってDDR4th出るんだもん(爆)

気合いの入った投稿、来ないかなぁ…

感想など頂けたら幸いです。 sango@evangelion.net


2000/08/23 さんご


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