春の桜と弟と −前編
遠い遠い記憶の中の出来事。
春爛漫の桜並木。家の近くの川沿いにある散策路。お気に入りの公園に向かうには、少し遠回りになる道なのに、なぜかその日はその散策路を通って公園に向かった。
暖かな日差しに誘われて出た彼女が見つけた小さな男の子。
よそ風に舞う桜の花びらの下、淋しそうに男の子が立っていた。
お母さんはどうしたのかな?
お父さんはどうしたのかな?
迷子になっているのかな?
なんとなく気になった。
公園でお昼まで遊んだ。お友達もみんなご飯を食べにおうちに帰ると言うから、彼女もおうちに帰ることにした。
なんとなく気になって、帰り道にも桜並木のあの道を選んだ。
おんなじ桜の木の下に、やっぱり、淋しそうな男の子が立っていた。
『誰か待っているの?』と彼女が問う。
男の子が悲しそうに首を縦に振った。
『ママを待っているの?』と再び問う。
男の子は悲しそうに首を横に振った。
『パパを待っているの?』
また男の子は悲しそうに首を横に振った。
『迷子になったの?』
不思議に思って聞いてみた。
『ちがうの・・・』
はじめて男の子の声を聞いた。捨てられた子犬のように震えた声だった。
『迷子じゃないの?』
男の子が悲しそうに首を縦に振った。
『じゃぁ誰を待っているの?』
男の子はぎゅっと両手を握って泣きそうな目で彼女を見た。
『誰でもいいの・・・・』
小さな肩を震わせて男の子が言った。
『ボク・・・・捨てられたんだ・・・・』
ああ、そうか。と彼女は思った。
『拾ってやったら嬉しい?』
『うん。』
『じゃ、拾ってやるから、ついてきな。』
『うん。』
アタシはこうしてコイツを拾って、コイツの手を引いて家に連れて帰った。
パパとママが驚いていた。
見知らぬ場所に連れてこられてコイツは震えていた。
にぎった手が震えていた。
小さなアタシの背中に隠れるように、ぎゅっと身体を小さくした。
『あっちの道で拾ったの。』
『アタシが拾ったの。』
『シンジって言うんだって。弟にしていいでしょ?』
『アタシが拾ってきたんだから、シンジはアタシの弟になるんだよ。』
『ねぇ、いいでしょ!?いいでしょ!?』
夢を見た。
ずっと忘れていた夢を見た。
久々に見た夢だった。
「姉さん・・・よだれ出てるよ。」
「そう?」
「うん。」
ぼんやりしていた。ああ、そうか。春の日差しがあまりに心地よくて、ついつい居間のクッションを枕にして眠ってしまったんだ。
そうなんだ。春だからか。桜が舞う季節が来たのか。だからあんな夢をみたんだな。
ひとり納得して、ぼうっとしていると、弟のシンジがハンカチを差し出していた。
「ふいたほうがいいよ。そのままにしていると跡が残るでしょ?」
「・・・ふいて。」
面倒なので言いつけた。
弟は仕方ないなとつぶやきながら、やさしく口元を拭いてくれる。
「はい。綺麗になったよ。あ、そうそう。のどかわいたでしょ?紅茶飲むでしょ?」
気が付くと良い香りが居間中を満たしていた。
ちゃんと湯で温めてあるティーカップに弟が美しい色合いの紅茶を注いでくれた。
「砂糖は一つ半でいいよね?レモンがいい?ミルクがいい?」
「・・・レモンがいい。」
几帳面にも密閉できる入れ物からレモンを取り出して、テーブルの上で小さくスライスする。
最初の一枚は取り除けて、もう一枚スライスして、小さな切込みを入れて、ティーカップに添えてくれる。
「クッキーとパンプキンパイがあるけど、どっちがいい?」
「えっと・・・パイが食べたい。」
「わかった。ちょっと待ってね。」
笑顔で応えた弟は、台所に向かった。レモンの容器を忘れずに持ってゆき、ラップして冷蔵庫にしまったようだ。
食器棚から皿を出してパイを切り分けて載せてくる。
便利なヤツ。
つくづくそう思う。
そうなんだ、こいつを拾ってからもう10年以上になるのか。
アタシは覚えているけどね。
こいつは覚えていないだろう。
拾ったとき、まだ2歳ぐらいだったから。
才色兼備。清楚でおしとやかな淑女を演じるアタシが、こんなだらしない姿を見せられるのは、こいつだけかもしれない。
パパとママとアタシが拾ったコイツと・・・家族だけが知っている。
外では思いっきり猫をかぶっているから、家ではこんなにだらしなくて、ぼんやりしているなんて誰も知らない。
「アスカの猫っかぶりは筋金入りだからなぁ。」
「そうね。一歩外に出たら、まるで別人なんですもの。」
「三歳ぐらいの頃からだったかな?」
「そうですわね。それぐらいからだったかしら?」
「他所様からは『何ておしとやかなお嬢さんなんでしょう。』なんて言われるたびに、何と答えていいものやら、本当に困るよ。」
「そうでしょう?まさか違うとも言えませんし。」
「外じゃまるで別人だからな、アスカは。」
「私も多少は気をつかいますけどね・・・アスカの場合は度合いが違いますから。」
何か好き勝手に言われているような気もするけど、実際そうなんだから家族の前では反論できない。
なぜそうなのかは正直言うと自分でも判らないんだけど、なぜか一歩自宅を離れると猫をかぶっちゃうのよねぇ。
で、小さな頃から猫をかぶっていたものだから、大きくなるに従って重ねる猫の数も増えてしまって、今では自分でもどれぐらい猫をかぶっているのだか、判らなくなってきてしまってる。
いまさら猫を外そうったって、そう簡単に外せないって気がするし。
他人に迷惑をかけてるわけじゃないから、それでいいじゃん!?って感じ。
実を言うと一番の不安は弟のシンジだったんだけど、幼稚園も小学校も中学校も学年こそ違っても同じところへ通い続けて、あいつ、一度もアタシのこと、誰にも言わなかったんだよね。
猫っかぶりがばれるなら、絶対シンジからしか無いって思ってたんだけど。
全然そういうこと言わないんだ。シンジって。
おかげで学校やご近所はおろか、じいちゃんやばあちゃんを含めて親戚中にも、アタシは心やさしい清楚なお嬢さまで通っている。
まぁこの通り大半のことはシンジがやってくれちゃうから、実際のところアタシは家事一般から身の回りのことまで何もできないに等しいのだけど、そこは全部弟のシンジがフォローしてくれるから、家族以外の誰にも知られていなかったりする。
だいたいこいつって便利すぎ。
テーブルに用意してもらったパイを食べ、紅茶を飲みながらふと見上げると、シンジのどうしたの?という問いかける視線を感じた。
特に用事も無いから視線をカップに戻して首を左右に小さく振る。
それだけで察してくれる。
ほんとうに便利なヤツ。
こいつが傍にいると本当に何もしなくて良いから便利なんだ。
猫をかぶるっていうのも、疲れるんだよねぇ。
しかも何枚かぶってるのか自分でも判らないぐらいだから、学校にいって愛想を振り撒いて笑顔の出血大サービスをして自宅に帰り着くともう駄目。完全にグロッキー。何もする気力が無くなる。のろのろと部屋に戻って制服を脱ぎ散らかして、部屋着に着替えたら後は居間でごろごろするだけ。
制服はシンジが片付けてくれるし、まぁ猫をかぶるために必要だから最低限の勉強ぐらいはするけど、家ではTVを見て雑誌を読んでご飯を食べてお風呂に入る以外のことは、何もしない。しなくていい。
小学校に入るぐらいだったか、髪が長くて面倒だから切りたい!って言ったら、シンジが『長くて綺麗なのに勿体無いよ。ボクが綺麗にしてあげるから切らないで。』ってお願いするから、お風呂を使った後の手入れも全部シンジにやらせている。
だいたい腰まで届くこの髪は始末に悪い。
お父さんはドイツの人だし、お母さんもハーフだし、75%が北欧系の混血のせいで、アタシの髪は生まれつき蜂蜜色で絹のように細くてウェーブかかかっていたりする。
お風呂で洗ってリンスするだけで軽く1時間はかかってしまう。
ただでさえ一日中気をつかって精力を使い果たしている上に、毎日のお風呂で1時間以上も手間がかかるのだ。風呂上りの髪の手入れぐらいシンジがやって当然だ。
「どっか出かけようか?」
気が付くとテーブルの上がすっかり片付けられていた。
器用なヤツだ。何時の間に片付けたんだろう?
「父さんと母さんは?」
「えっとね、なにかの絵画展見にいくって言ってたよ。」
「ふうん。」
「それからコンサートにいって、外でご飯たべてくるって。」
「アタシ達の晩御飯はどうすんのよ?」
「好きにしていいって。お金も預かってるから姉さんがそうしたいなら、どこか食べにいこうか?」
「いい。面倒くさい。今日は家にいる。」
「わかった。じゃ晩御飯僕がつくるね。」
「ハンバーグ。」
「了解。」
たぶんアタシがこう答えることは予想済みのことなのだろう。
うちの両親は何かあると弟に言付ける。ずぼらなアタシには言わない。言っても忘れることの方が多いし、シンジに言っておけば安全確実ご利益的面と判ってるからだ。
両親の外出の予定は間違いなく前もって弟の耳に入っていたはず。
たぶんアタシが何を食べたいというのかまで予想して昨日のうちに買い物その他用意は済ませてしまっているに違いない。
うちの弟はそういうヤツなのである。
本当に便利なヤツなのである。
まぁ弟を形容するのに「便利なヤツ」の一言で済ませるとあまりに不憫なので、少しはシンジにも人に誉められるところがあるってことを言ってあげようかな。
指をおって数えてみると・・・あっと、両手の指じゃもう足りないのか。
12年だ。そっかぁ。もうシンジも中学二年生になるのか。
成績は、そうね、だいたいアタシと同じぐらい。優秀な姉のアタシに恥じをかかせるなよと言い付けてあるから、まぁ必死に頑張ってるんでしょう。健気なヤツ。
でもって、背丈はアタシと同じぐらい。
生意気じゃないの。姉と肩を並べるなんてさ。
そういや純粋な日本人なのかな?シンジって?
見慣れてるせいかあんまり違和感無いのかもしれないけど、パパと並んで歩いていても親子で通じるようなスタイルしてるな。
顔もまぁまぁ良いほうだし、あのとおりのマメな性格だから、女の子にも人気があるみたい。
うんうん。アタシの弟なんだから当然よね。
アタシは今年高校に進学したから、これは予想でしかないんだけど、今年もシンジは結構ラブレターもらったり、告られたりしてるんじゃないのかなぁ。
二歳離れてるから去年一年しか中学はいっしょじゃなかったけど、放課後いっしょに帰ろうと思って迎えに行くと、何度か告白されてる現場に出くわしちゃったりもしたのよね。
たぶん今年も似たようなもんなんでしょう。
当然アタシももてもてなんだけど、まぁアタシには敵わずともシンジもかなりいけてるんじゃないのかなぁ。
そういや不思議ね。なんでだろ?シンジの彼女って紹介されたこと無いわよね。
あれだけもてもてなんだから、彼女の1人や2人、すぐにできそうなものだけど。
日曜日だっていうのに家にこもって人の世話を焼いてるぐらいだから、かわいそうに彼女の1人もいないってわけ?
となると、シンジが女の子にもてるだろうって思うのは姉の贔屓目なのかしら?
おかしいなぁ。姉のアタシの目から見てもシンジっていい線いってるはずなんだけどなぁ。
「どうかした?」
「ん・・・なんでもない。ちょっと考え事。」
「ふうん・・・」
思い悩んでると突然シンジが声をかけてきて、少しドキっとした。
目ざといというか本当にマメというか、タイミング良過ぎ。
姉の贔屓目ってことはないよね。と、再び思考を元に戻してみる。
う〜ん。贔屓目ってことは絶対無い。
だいたいが華も恥らう17歳の女子高生の乙女が、春の陽気も麗らかな日曜日の午後を気だるく自宅で過ごしているとこの現状の一端には弟の存在があるのだから。
弟のシンジのことはとりあえず横においておくとして。
なぜにアタシが日曜日ごとに家でごろごろしてるかっていうと、つまりは特定の彼氏と呼べる相手がいないというか、まぁ早い話がそういうことなのよ。
さっきも言ったようにアタシはもてる。ほぼ毎日のように複数の男の子からラブレターをもらってるし、ちょくちょく人気の少ない、言わば定番の告白ポイントに呼び出されて交際を申し込まれたりしている。
もちろん並程度の男の子と付き合うつもりなんか無い。
だいたいが毎日猫を重ね着するような生活を続けているのだから、彼氏なんかができた日には、さらに猫を何枚か身に付けなければならないだろう。
そこまで努力するからには、相手もそれないの男の子である必要があって当然でしょう?
情けないというか、何というか、悲しいことにアタシの身の回りにいる男の子達って、五十歩百歩というか、十羽一絡げというか、どいつもこいつも似たようなのばっかりで、これって男の子がいないのよね。
去年の夏にちょっとだけ付き合ってもいいかな?って思える男の子がいたんだけど、中学では女の子の人気で一位二位を争うスポーツマンで、勉強もけっこうできていつも試験ではトップクラスに名前を連ねていて、いかにも爽やかな好男子って子だったのよね。
で、まぁ、交際を申し込まれて、普通だったらその場で丁寧にお断りするところを、少し考えさせてください、なんて意味深に引っ張っておいたんだけど、実は内心、この人とだったら交際してみてもいいかな?と思っていたのよね。
アタシだって年頃だし、恋愛っていうのにも人並みの興味もあったし、それ以前に付き合ってみてもいいかなって男の子に出会えずに、そういった経験はまるでなかったからいよいよアタシにも春がきたかなぁ、なんても思ってもみた。
だけどね・・・これが不思議なことに、校門のところまで彼と並んで歩いていったら、そこにシンジが待っていたわけよ。
まぁ同じ小学校に通っていた頃は登校も下校もシンジといっしょだったわけだし、中学も同じ学校になれば、また登校も下校もシンジといっしょになって不思議は無いわけで、アタシも『勝手に1人で帰ってるんじゃないわよ!』と言い付けていたから、シンジが待っていて当然なのよね。
でね、校門の所でシンジと合流してね、シンジの顔を見てからもう一度交際を申し込んできた相手の顔を見たらね、さっきまでは格好良いかもと思っていたその顔が、なにか突然しまりの無いだらしない顔に見えてしまったのよね。
なんていうかなぁ。よく見ればブレザーの肩には何やらフケみたいな白いものがあったりするし、髪型は格好つけてるのかもしれないけど中途半端に乱れているし、目尻りはやにさがっているし、おでことかほっぺたとか脂ぎっていて汚らしく感じちゃったのよね。
期待が膨らんでいた分、なんだかなぁって感じで急にその気がなくなっちゃって、相手の人には申し訳なかったけど、この人誰?ってシンジの顔を見たとたんに、せっかくですけどって、交際の申し込みをお断りしちゃった。
うん。そうだ。そうだに違いない。
ここまで考えて急にアタシはシンジに彼女ができないわけを理解した。
そりゃそうよ。当然よね。
アタシと同じよ。
たとえ何枚猫をかぶっているにせよ、少なくとも家の外のアタシは完璧な淑女なわけで、しかも家族として自宅におけるアタシの実体を目の当たりにしているとなれば、それを知るシンジがそうそう簡単に女の子に心を許すはずが無いのだ。
「なぁんだ・・・いっしょじゃん・・・・・」
「え?何がいっしょなの?」
いぶかしげに見つめてくる弟の表情がおかしくて、アタシはクッションを抱え込んでころころと笑い転げてしまった。
「ねぇ、どうしたのさ?いきなり思い出し笑いなんかして?」
「へへ〜ん。な・い・しょ!」
やっぱり姉弟よねぇ。こんなところもいっしょなのかぁ。
勝手に1人で納得して、勝手に1人で喜んでいたアタシは、何て能天気だったのだろう。
それはアタシが高校2年生、弟のシンジが中学3年生になったある日のことだった。
学校からの帰り道。同級の1人の女生徒が話し掛けてきた。
「妹からきいたんですけど、惣流さんの弟さん、○○県の○サール高校を受験されるんですってね。さすが惣流さんの弟さんですわね。」
初耳だった。てっきりシンジは、アタシの通う高校に進学するものだと当然のように思っていたからだ。
同級生達の言葉には適当に相槌を打ち、何気ない素振りで差し障りの無い会話を続けながらも、アタシは心は散り散りに乱れていった。
―――困るじゃないの!アンタが居なくなったらアタシが困るじゃないの!!!!
「アスカ・・・自分の服ぐらい片付けない。」
「はあい。」
「もう。雨が降ってきたら洗濯物取り込んでおいてっていつも言ってるでしょう?」
「はあい。」
「もう!いつまでも髪を濡らしたままにしておくと風邪引くわよ。」
「はあい。」
「いつまでゴロゴロしてるんですか。ほら、こっちきて手伝ってちょうだい。」
「はあい。」
「もうこの子ったら部屋の掃除ぐらい自分でしなさい。」
「はあい。」
「ほら。自分の着替えぐらい自分で持っていきなさい。」
「はあい。」
―――ほら。やっぱりこうなるんだ。思ったとおりだ。
こんな日常を繰り返しているうちに高校を卒業して、大学も卒業して、そのまま進んだ大学院も卒業して、気が付けばバブルがはじけて世の中不景気の真っ只中だった。
この世知辛い情勢に修士出の女学生に求人は少なく、アタシは家事手伝いと職業欄に書かざるを得ない人間になってしまっていた。
この時期、父と母が独力で起こした輸入雑貨を扱う商社も、乱高下する金融市場の煽りを受けて経営は思わしく無く、一時の勢いももはや途絶えた感があった。
それでも進む円高のおかげでどうにか会社の屋台骨を支えているものの、どうにかこうにか経営を続けているというのが実情だった。
アタシも家事手伝いなどという身分で、のほほんと両親の脛をかじって暮らしているわけにはいかないんじゃないかと思うようになった。
父の会社でバイトみたいな仕事を手伝い、ショーや展示会では率先してコンパニオン役を務めた。本当に両親の役に立てているのか、学問の世界に長らく暮らしたアタシには是も非も区別がつけ難かったが、元来の猫っかぶりが効を奏したらしく、お客さまの評判は上々であると、多少は会社の経費節減にも貢献できているようだった。
パパもママも本当に大変なんだ。
初めて体験する実社会は、毎日が驚きの連続だった。
かつての陽だまりの中にいたような生活が夢幻と感じられるぐらい、両親の仕事に打ち込む真摯な姿は胸を打った。
昼間は営業と資金繰りに奔走し、夜は海外の取引先と折衝する。
小さな会社で不景気になってからは、どんどんと社員の数も減らしていて、社長であるパパや専務であるママ自ら、事細かなところまで仕事を切り回していかなければならないようになっていた。経験豊富な古株の有能な社員ほど、他社に引き抜かれてたり、会社を離れて独立していったそうだ。
会社に残ったのはまだ経験の浅い若手社員ばかりで、会社の経営だけではなく実際の営業活動にいたるまで、全ての部分をパパとママで切り盛りしなければならなかった。
「パパの会社のことは考えなくてもいいんだよ。会社は全然大丈夫なんだから。」
「本当よ。あなたが嫌だったら、断っていいんだからね。」
だからパパとママが、申し訳無さそうに、一枚のお見合い写真を差し出してきたとき、アタシの返事は最初から決まっていた。
詳しい話を聞くまでもなく、アタシは即答していた。
お見合いの相手はパパの会社のメインバンクの重役の息子だった。
「そのお話、進めていいよ。」
お見合いの席の後、数回のデートを重ね、結納の品が届いた日から、アタシはパパとママの仕事のお手伝いを止め、自宅で花嫁修業をする身となった。
昼日中からぼんやりと部屋で過ごすなんて久しぶり。
学生時代も夏や冬の休みは同じように過ごしてきたはずだけど、本当になにもやることが無く過ごす時間は久しぶりのことだった。
居間に続く客間の和室に並ぶ結納の品々。白無垢とウェディングドレス。
そして左手に耀くエンゲージリング。
別に感動など何も無かった。
自分でもあっけないと思うほど事実として受け止めている。そんな感じがした。
「ざまぁみろ。ちゃんと玉の輿に乗ってやったぞ。ばぁか。」
クッションを抱えて、ごろんと居間に転がった。
窓の外を早咲きの桜の花びらが舞っていた。
「あ〜・・・桜だぁ・・・・・・きれいだね・・・・・・・」
身体から力を抜いて睡魔に身を委ねる。
ほら、見えてきた。やっぱりだ。見るとおもったんだ。春だから。
春爛漫の桜並木。家の近くの川沿いにある散策路。
よそ風に舞う桜の花びらの下、淋しそうに男の子が立っていた。
『誰か待っているの?』と彼女が問う。
男の子が悲しそうに首を縦に振った。
『ママを待っているの?』と再び問う。
男の子は悲しそうに首を横に振った。
『パパを待っているの?』
また男の子は悲しそうに首を横に振った。
『迷子になったの?』
不思議に思って聞いてみた。
『ちがうの・・・』
はじめて男の子の声を聞いた。捨てられた子犬のように震えた声だった。
『迷子じゃないの?』
男の子が悲しそうに首を縦に振った。
『じゃぁ誰を待っているの?』
男の子はぎゅっと両手を握って泣きそうな目で彼女を見た。
『誰でもいいの・・・・』
小さな肩を震わせて男の子が言った。
『ボク・・・・捨てられたんだ・・・・』
ああ、そうか。と彼女は思った。
『拾ってやったら嬉しい?』
『やだ。』
『え?』彼女はいぶかしげに男の子を見た。
何時の間にか男の子は大きくなって中学生のシンジの姿になっていた。
『だって、姉さんはお金持ちの人と結婚するんでしょう?』
訴えかけるような眼差しだった。
『そうよ。前にも言ったでしょう?将来の夢は玉の輿だって。』
ちくっ。
『だったら僕はいかない。ここにいる。』
中学生になったシンジが、真正面から挑むようにアタシを睨む。
『なに言ってるの。馬鹿なこと言ってないでいっしょにきなさい。』
アタシは中学生のシンジの手を取って叱りつける。
『だって、姉さんはお金を持っている人のお嫁さんになるんでしょう?』
ちくっ。
『そうよ。今度の日曜日にアタシは結婚するんだもの。』
ちくっちくっ。
『だったら僕はいかない。ここにいる。』
手が振り解かれる。
『アンタもくるの。アンタ、アタシの弟でしょ?祝ってくんないの?』
シンジは両手をぎゅっと握って俯いた。
『やだよ。そんなのやだよ!!!』
ちくっちくっちくっ。
『ぼ、僕はそんなの嫌だ。アスカがお嫁にいっちゃうなんて嫌だ。』
馬鹿者。やめないか。
そんな目で姉のアタシを見てはいけないんだ。
なんでこんなに胸の奥がチクチク痛いんだ。
アンタは弟なんだから、アタシが結婚するのを祝福してくれなきゃ駄目なんだ。
『だって嫌なんだ!!!僕はアスカのことが好きなんだから!!!』
―――がばっ!
「・・・なんつ〜夢だ・・・・・・」
窓の外はもう夕焼け色に染まっていた。
ぽりぽりと頭をかいてしまう。
やっぱ忘れられないのかな。
「・・・ばぁか・・・・・・」
馬鹿だ。
ほんとにアイツは馬鹿なヤツだ。
「・・・ばかシンジ・・・・・・」
(後編に続く)