楔(くさび)


 

 


王子が鬼に捕らわれて一月、解放されてから3日の後、彼らはネルフ本部近くの駅で鉢合わせした。

定期シンクロテスト及び、王子の体調検査のためにネルフ本部に行っての帰りのことだった。


「あ〜ら、これはこれは無敵のシンジ様。一ヶ月家出をしていたと思ったらもう元の鞘ですか。
 相変わらずもてますねぇ」

「あ…アスカ。そんなんじゃ…無いよ」


皮肉を込めたアスカの言葉に対し、何の気も見せないシンジの返答。

流石にシンジもそれが皮肉だと分かったのか、感情は一切感じられない。


「何よすましちゃって…端から見れば仲のいいカップルにしか見えないのに…」


聞こえるように、そして聞こえないように。


「…」


一方のレイにいたってはアスカと会ってから…正確にはシンジと合ってから何もしゃべっていない。

シンジと会ってからはシンジの話をずっと聞いているだけ、

アスカが加わってからはずっと二人の会話を聞いている、ただそれだけであった。


「フンッ」


結局二人の間に割ることができないと判断したのか、アスカは同じ列車の別の車両に乗り込んでいた。

当然のように二人に対して声をかけるわけでもない。

また、同じようにシンジとレイも一切の会話はなかった。
















足下に滴り落ちる紅い滴。

場所は風呂、紅い滴の持ち主は金髪蒼眼の少女。


「誰がミサトや馬鹿シンジの浸かったお湯なんかに浸かるもんか…」


この日の一番風呂は、言うまでもなく彼女である。

当然、今アスカが抜いているお湯にシンジもミサトも浸かってはいない。

彼女が嫌悪に感じているのは…共有している”浴槽”である。


「誰がミサトや馬鹿シンジが座ったトイレなんか使うもんか…」


「誰がミサトや馬鹿シンジが吸った空気なんか吸うもんか…」


「ミサトは嫌い、馬鹿シンジは嫌い、ファーストはもっと嫌いっ」


「嫌いっ嫌いっみんな嫌いっ…どうしてアタシがっ」


生理中における精神の不安定。

医者ならそう判断するだろう、その言動。

しかし今の彼女にとってはそれだけが原因ではない。

それを知ってか知らずか、聞こえてくる癇癪に対して静観を決め込むミサトがいた。


「うっ…ううっ…くぅっ…」


ついには涙をこぼし始める。


「誰か…助けてよ…シンジ…加持さん…」


タイルにへたり込み、捨てられた子猫のように助けを求めるアスカ。

しかし今の彼女に救いの手は伸びない。
















定期的に行われているシンクロテスト。

あの風呂場での修羅場から一夜明けた日、行われていた。


「…」


「シンクロ率−12.8%。起動指数ぎりぎりです」

「ひどい物ね…」

「仕方ないわよ。アスカ、今日2日目だし」


その辺りのサイクルも、作戦部長であるミサトはしっかりと報告されている。


「シンクロ率は身体的な障害に左右されない。知っているはずよ、ミサト」

「となると…問題は…」

「ココロ、ね」


心で動かすエヴァ。

その心がエヴァとはかけ離れたところにあれば、シンクロ率が落ちるのは当然の結果である。


『助けて…シンジ…助けて…加持さん…』


彼女の心の中は意識する二人の男性に助けてほしい、ただそれだけを考えるだけになってしまっていた。

一人はすぐ近くにいながら、今もって何もしてくれない少年。

もう一人はどこか遠くに行ってしまった大人の男性。

しかし今の彼女には誰の助けも入らない。
















どのような因果があるのかは分からない。

が、三人が再び同じ空間にいることだけは事実となっている。

聞こえてくる音は、何故かアナログ式のエレベータ階層表示のみ。

少年はただ、俯いて時間が経つのを待っているだけ。

少女のうちの一人はわれ関せずと、一人静観を決め込む。

最後の一人はその二人を上から見下ろすようにしている。


そして辺りを満たしていた静寂が、一人の少女により、破壊されてしまう。


「心を開かなければ…」

「…!」

「エヴァは動かないわ」


エヴァという言葉に対して、アスカは過剰に反応してしまった。


「アタシが心を閉ざしているってぇの?!」

「あ、アスカ…」


俯いていたシンジも、その形相にあてられたのか、何とか鎮めようと輪にはいる。


「うっさいっ。アンタは黙っててっ」


しかし、一別にされる。


「何でアタシがエヴァに心を開く必要があるってのよっ」

「だって…エヴァには心があるもの…碇君も知っているわ」

「兵器に心ですってぇ…ハン、必要ないわよ、アタシには」

「そう…」


その言葉で、レイはアスカを見ていた目を再び避ける。

それがしゃくに障ったのか、アスカの頭に再び血が上り始めた。


バシッ


乾いた音がレイの頬から放たれた。

その音を発したものは誰でもない、頭に血が上っているアスカ自身。


「…」


だが、その行為を受けて尚、レイは微動だにしない。


「ふ、フンッ…勝手にすればいいわよ…勝手に…」


頬を叩いたという行為に対して、何かしらに罪悪感があるのであろう。

アスカの声はうわずっていて、声に意志が感じられない。


「勝手に…勝手に馬鹿シンジといちゃいちゃしてればいいじゃないのっ勝手にっ」


先ほどのシンジとレイだけが知っていると言うところを思い返したのだろう。

先ほどまでの会話とは違い、ほとんどただの罵声と化している。

そしてそのままエレベータから降り、二人とは別れることになった。


「だいっ嫌いっ」


彼女の残した言葉はこれだけであった。

数分後、彼女は別のエレベータで家路につくことになる。

その彼女に、涙があったという報告とともに。
















「第一種戦闘配置。地・対空迎撃戦用意」


作戦部長である葛城ミサトより、戦闘配置の指示が下される。

彼女は当然、現状を把握し、最良の指示を下しただけである。

現状は、突如として衛星軌道上に出現。

国連軍がN2航空爆雷を使用するも、ATフィールドに阻まれ、効果無し。

作戦指揮をNERV本部に委譲、と言う感じだ。


「零号機射出後、ポジトロン・スナイパー・ライフル改用意」

「了解」

「零号機射出後、弐号機射出。バックアップに努めて」


近接戦闘が当然出来ない衛星軌道上の使徒。

そうなるとATフィールドを高出力兵器で突き破る超長距離射撃戦闘しかない。


「初号機はどういたしましょう」

「初号機は私の権限では動かせないわ。現状維持…と言っても凍結中か」


そこへすかさず弐号機からのサウンドオンリー回線が開かれる。


「このアタシが…バックアップなんて嫌よ。弐号機射出します」


常に一番であり、エースでなければならないと言う彼女の考えから、

彼女は独断専行を行う。

それが彼女を支えているプライドだと、ミサトは分かったのだろう、それを許可した。


「良いわ。やらせましょう。もしだめなら…サードインパクトかパイロット権剥奪ね」

「ラストチャンス…ですね」

「アスカにしても、私たちにしても、ね」


そして曇天の中、アスカの駆る弐号機がリフトオフする。

それに続いてポジトロン・スナイパー・ライフル改の登場。

殲滅すべき対象は未だ動き無し。

役者はすべてそろった。
















辺り一面に広がる暗黒の海。

その海にたたずむ、一人の少女。


「…タスケテ…」


一条の光を浴びたときから、彼女はその場所にたたずんでいた。

彼女の心の闇が具現化した世界。

必死で隠しておきたかった自分自身の負の部分。


「…シンジ…加持さん…」


二つのぼぅっとした光が浮かび上がる。

その二つの光は、だんだんとヒトの形を作っていき、固定される。

それは少女が今、一番切に願っている異性。


「…ァァ…」


二人に手を伸ばそうとする…が、触れるか触れないかのうちに、光は四散してしまった。

その光を賢明にかき集めようとするが、時すでに遅し。


「…もうだめ…タスケテ…シンジ…加持さん…」


普段の彼女からは決して発せられない言葉が次々と発せられる。

これが幾重にも殻をかぶった彼女の本当の心の中。

当然、この心は誰も知らないし…気づくはずもない。
















一人、泣いている。

うずくまり、決して人に顔を見られないように、泣いている。


「サミシイノ…?」

「寂しくなんか…無い…」


暗闇から子供が一人、アスカに話しかける。

その手にぬいぐるみを抱いて。


「本当は寂しいんだろ…アスカ。何で隠すんだよ…」

「寂しくないって…言ってるでしょ。隠しても…無いわよ」


精悍な顔立ちの、学生服の少年がアスカに話しかける。


「だがアスカ、君が今流している涙は何だい?寂しさの象徴じゃないのか?」

「泣いてなんか…いないもん…」


無精髭を生やした、憧れていた大人の男性がアスカに話しかける。


「だったら周りを見てごらん…そこに何があるか…アスカは何が見えるの?」


少年がアスカに立ち上がれとの言葉をかける。

それが今の彼女には無理だとしても、心の偶像ががんばれと言葉をかける。


「…ァァ…」


彼女の目に見えるのは、過去の記憶。

忌まわしい、忘れてしまいたい、閉じこめていた記憶。


人形を抱いている母親。

その人形を我が子だと誤認している母親。

その母親を第三者のように見ている父親。

その父親に妖艶な言葉をかける義理の母親。


首をつる母親。

その母親の葬儀。

不憫に思ったのか、声をかける近所の老婆。

義理の母親からもらったサルのぬいぐるみ。


そして…泣いている自分。


「イヤ…イヤ…イヤぁぁ・・・」


いつしか心の偶像は姿を消し、そこにはアスカ一人。

瞳に光をたたえていない、アスカが一人、そこにいた。
















全てが終わったとき。

アスカは動かなくなったエヴァ弐号機のエントリープラグ内で、ただ呟いていた。


「見られた…汚されちゃったよぉ…シンジぃ…加持さぁん…」
















「良かったね…アスカ。無事で…」


戦闘後、格納される弐号機の眼前で、ただ一人佇んでいるアスカ。

その後ろからシンジは労いの言葉をかけた。


「良く…無いわよ…」


反論する…が、その声に力はなく、ただ呟くのみである。


「でも…怪我がないんだから…良かったよ」


その言葉の直後、アスカは首をシンジの方に向ける。

ちらっと、それでいてシンジがその視線を感じないくらいに、アスカはシンジを見る。


「…」


アスカが見たそれは、心に何かの震えを与えることになった。


『ナニ…この感じ…は』


今まで感じたことのない感覚に、疑問を抱きながらもアスカはそれに闇を感じることはなかった。

震えを与えたもの…シンジが作り出した他人への安堵感…笑顔。

それを見たときからアスカの心にはそれが巣くうようになってしまっていた。
















結果として、彼女は負け、そしてエースであるというプライドを砕かれた。

アスカはそれを簡単に、甘んじて受けるような性格ではない。

当然のように彼女は再びエヴァに乗り込んでいた…が、


「未練たらしい…」


彼女には先日、上司であるミサト、そして司令の署名入りの宣告を受けている。


−惣流アスカ・ラングレーよりセカンドチルドレンとしての資格を剥奪する−


先の戦闘結果による、指令部の判断であった。

しかしすぐに剥奪する余裕は今のNERVにはない。

代わりのチルドレンが見つかるまで、彼女はその繋ぎ役として、今はエヴァに搭乗していた。

もちろん、彼女の意志は一切関係ない。

乗れようが、乗れまいが。
















DNAの螺旋を思わせる形態をしている使徒…第拾六使徒、アルミサエル。

使徒とエヴァの戦いはすでに始まり、戦術の最下位に当たる作戦、逐次投入を開始している。


「どうでも良いわよ…どうせアタシに動かせる訳ないでしょ…」


その呟きはミサトに聞こえているが、今その様なことを言っていられないのか、発進命令を下す。

慣れたGに身を任せ、地上へと這いずり出す。

そして号令。


「…リフトオフ」


その命令と同時に、最終拘束具が外され、獣が解き放たれる…筈だった。


「ほらやっぱり…動かない…動かないわよ…」


さも当然といったように、彼女は誰に対してか、呟く。

当然、全く動かないエヴァ弐号機はすぐに収容される。

その間にも戦闘は続けられ、更なる戦力の逐次投入が行われる。


「エヴァ初号機、発進」


先の戦いでは封印、凍結されていたエヴァ初号機がその勇姿を現す。

この首脳部の行動に対して、アスカは従わざる終えないと考えつつも、納得はしていなかった。


「アタシの時は出さなかったのに…」


それは当然の抗議といえる。

さらにアスカは本人には全く関係のないことまで口走る。


「結局はアイツの方がいいって事ね…司令も…シンジも」


端的な考えであるが、間違ってはいないだろう。

もっともシンジ自身はレイだけを守ろうとは考えてはいない。

本当にレイを欲しているのは碇ゲンドウだけだということを、アスカは知るはずもないし、知る理由もない。
















「加持さん…どこに行っちゃったの…加持さん…」


テーブルにうつ伏せになり、一人誰にも聞こえないように呟く。

誰にも聞こえないように言ったつもりだったのであろうが、いつの間にかシンジがアスカの傍らに寄ってきた。


「加持さんは…もう居ないよ…」


もう居ない。

その言葉の意味するところは…死。

シンジ自身も直接聞いたわけではないが、ミサトの言動を見るとそう感じることができる。

そしてシンジはそれをアスカに、なるべく柔らかに、ショックを与えないように言ったつもりだった。


「嘘…嘘よ。加持さんが居なくなる訳無いじゃない…」

「本当だよ…加持さんはもう居ない…死んじゃったんだ…」

「何で…何でアンタが知ってんのよ…」

「…」


シンジは語ることができない。

あのミサトの涙を見た今となってしまっては。


「そんな…」

「…本当…だよ。加持さんは…もう居ない…会えないんだ…」


最後の会えないという言葉を聞かされてしまい、アスカから止めどなく涙があふれ始めた。


「…っ…っっ…」


先のミサトに対してはできなかった行為…抱きしめてあげる、という行為が今回のシンジには出来た。

今、アスカはシンジに身を任せ、その胸の中で涙を流している。

知る者と知らざる者の違い…今2人はただそれだけの存在になっていた。


「…」

「…」


一時がたった頃、2人は何も言わず離れ、何も言わずに個々の部屋へと消えていった。

2人に残っていたのは、互いの温もりだけであった。
















その日の深夜、アスカは誰に告げるでもなく、家を出ていった。

目的地は…決まっていない。
















エヴァ零号機の自爆によって作り上げられた街の廃墟。

数ある廃墟の内の一つに、彼女はここ2,3日住んでいた。

当然、水以外の物は口にしていない。


「加持さんはもう居ない…シンジもアタシを本当に見てくれていない…」


その目は虚ろで、あまり生気という物を発していない。


「もうエヴァにも乗れない…NERVもセカンドチルドレンを必要としていない…」


その虚ろな目に映っているのは、今は男性2人だけ…自分を助けてくれると想っていた男性2人。

その2人は隣に今居ない…。


「アタシはファーストより劣るって事か…はんっ、ザマァ無いわね…」


にやりと笑うその口元に、前までのような本当の歓喜は見受けられない。


「シンクロ率もゼロ…ホントにセカンドチルドレンたる資格無しって感じね…」


その言葉を放つと同時に、彼女は今までふせっていた体を仰向けにする。

アスカの目の周りには澄み切った夏の青空が広がっていた。

しかし彼女自身にその青空は見えていない。
















消毒臭を感じている。

嗅ぎなれた臭い。

その臭いから、アスカはそこが何処なのかということだけを感じ取っていた。


『そっか…今のアタシは…』


彼女に与えられたのは、わずかな思考能力のみ。

人に対しての思考は失われていた。

別の言葉で言えば…心を閉ざすという言葉が一番当てはまる。


『もうどうでもいいわ…』


その考えがでてくるときにはわずかな反応があるが、後はずっと反応無しが続く。

誰がきても、何をしても。

今の彼女は、機械で生きながらえているだけにすぎなかった。
















静まりかえった院内。

時折院内放送が聞こえる程度で、それ以外は人の気配すら感じない。

少年はそこにいた。


「タスケテヨ…アスカ、ネェ…タスケテヨ…」


語りかけているのはベッドで布勢っている少女に対して。

動かない、何も見ない、何も語らない…少女。


「怖いんだよ…みんな…みんな怖いんだ…アスカだけ…アスカだけは安心できるんだ…」


対人恐怖症。

今彼が患っている精神病の一種。


「父さんは僕を子供としてみてくれないから怖い…」


「ミサトさんは僕を兵器としてしか見てくれないから怖い…」


「綾波は…人間じゃないから怖い…」


「アスカだけだから…僕を僕としてみてくれるのはアスカだけだから…だから助けてよ…」


賢明に願うが、それが届いていることはない。

アスカは今も心を閉ざし、外界からの情報を一切遮断してしまっているから。

しかし、それでもシンジはアスカに語りかける。

賢明に起こそうと体を揺すり始める。


「ねぇ起きて…起きて僕を助けてよ…僕と話してよ…」


「ねぇアスカ…っ」


点滴の袋が揺れ、中の医薬品が水音をたてる。

一時の静寂の後、シンジはそれを凝視していた。

普段、見たくて…触れたくてたまらなかった物。

何度イメージしたかわからない…アスカの胸。

それを見たシンジが行ったことは、短絡的な物にすぎなかった。


「…」


14才の彼にとっては至極当然の行動なのかもしれない。

しかしそれを擁護するべき人はもう居ない。

その人は彼自身が殺してしまったから。


「…ッ…」


部屋を出る直前、シンジが言い放った言葉は彼の精神状態を表すのに最適な言葉だった。


「アスカをこういうことでしか見ることができない…”俺”は…最低だ…」


その行為そのものを意識していたわけではない。

だが、アスカはシンジが行った行為そのものに対しては断片的に解釈していた。

その行為に対しては…


『…見ては…くれるけど…』


見てくれるという安堵感。

しかしそれは自分自身が雄の対象物で有るということへの嫌悪感が入り交じっていた。

そして彼女は再び混沌へと陥る…。
















「…痛い…」


人の温もりなどではなく、突然の痛覚によって目を覚まさせられる。

突然のことなので、発した言葉は何かぼけてはいた…が、痛みは相当の物だ。


「ぐぅぅっ…ううっ…」


体中を襲ってくる激しい痛み。

まるで肉を一片一片削り取られるような痛みをアスカは感じている。

今のアスカは…エヴァの中にいる。

当然、シンクロは行われておらず、痛みは全てアスカの錯覚にすぎない。


「痛い…痛い…死んじゃう…アタシ…死ぬ…」


身を抱え、必死に痛みを隠そうとするが、彼女に与えられるのは更なる激痛。

しかもその激痛は全て錯覚しているだけの代物である。


「助けて…痛いよ…シンジ…加持さん…」


必死に助けを呼ぶ。

が、その声は2人はおろか発令所にすら届いていない。

聞こえているのは声を発している自己のみ。


「助けてよ…助けてよ…助けてよ…シンジぃ…加持さぁん…ママぁ…」


忘れていたはずの、アスカに最も近き人…母親。

精神的にも肉体的にも追いつめられた人間が一番多く行っている行為をアスカもしていた。

しかし彼女の母親はすでにこの世の人ではない。

それはアスカが一番よく知っていた。

しかし危機迫った彼女に、その事実はさほど関係ない。


「痛いよぉ…」
















古来より、子を守る母親という者は強い、という言葉がある。

今、まさにそれが具現化している。


「ママが見てるのに…アタシは負けられないのよっ」


人の魂を刈る紅き戦神。

ジオ・フロントと呼ばれ、天蓋が破壊され、青き空が広がる中、アスカはがむしゃらにエヴァ弐号機を駆っている。

劇のストーリーは、ただの殺戮劇。

みるみるうちに人の魂が天へと昇華されていっている。


「通常兵器が役に立つ訳無いじゃない…こっちにはATフィールドと1万2千枚の特殊装甲があるのよ…」


それは心の弱さを守り、見せないための体の良い殻。

現に今、ATフィールドは他者を寄せ付けない壁となり、彼女を戦慄へと走らせている。
















あらかた破壊、もしくは逃走しただろうか。

紅き戦神が佇むそこは、ただの瓦礫の平原となっている。

そして見上げるは澄み切った青空。

目に見えるは…白き羽を持った惨殺者。


「…エヴァシリーズ…」


完成していたという驚愕の事実に驚きながらも、頭の中は冷静に戦力分析をしている。


「たぶんアイツらはダミープラグ…戦闘経験は多くないはず。そうなると…短期決戦有るのみっ」


掛け声一閃、アスカは瞬く間に一匹のエヴァシリーズを肉塊と変化させる。

惨殺しているという行為に対して優越感、強者であるという事実、そして快楽に浸りながら。

その歪んだ表情からは本当の笑顔がどのような物であったのかはかり知ることは出来ない。

今のアスカを比喩するならば…かつての太陽ではなく、太陽に”なり損なった”存在、木星と言ったところか。
































「……ァァ……ッ……ィ…イタイ…」


左目は貫かれ…

右腕は肩口から真っ二つ…

左腕はもがれ…

脚は踏みにじられ…

内蔵という内蔵は全て食い尽くされ…

生体部品が全て死滅したエヴァ弐号機の胎内で、アスカはじっと身を潜めていた。


「イタイよぉ…」


最終的に彼女がはじき出したシンクロ率は、100%。

つまりはエヴァとの同一化。

当然、それに対するフィードバックは通常では計り知れないほどの痛みとなって帰ってくる。

100%なら…全てが。


「………ンジィ………イよぉ……カ…さぁん………ケテよぉ…」


目は虚ろ、涙が止めどなく流れてくる。

目だけではなく、フィードバックが起こった場所全てに生気が発せられていない。

重傷…と呼ぶにはあまりに惨たらしい彼女の肢体。

さらに言ってしまえば、アスカの心も同様に重傷であると言うところか。


「…っく…っ……ひっく…」


敗北感、痛み、屈辱、砕かれたプライド…それら多くの負の感情によりアスカは泣き続けている。

奇しくもそれは彼女にとって美しい涙となっていた。

何もかも失い、そして今…命さえも。
































波の音が聞こえる…。

とても静かで、波の音しか聞こえてこない。

潮の香りがしない、波の音。


『…イキテ…ル…?』


意識を覚醒させたアスカは、周りの環境に意識を持っていく。


『ナミノオト…シロイソラ…ハイキョ…ジュウジカ…』


『マッカナニジ…ニンギョウノアタマ……シンジ…』


他には何も感じない、生きている物は何も。


『コワレチャッタンダ…』


辺り一面の廃墟を見る限り、アスカにとってもそれがサード・インパクト後の世界だと言うことが伺いしれる。

爆心地近くのこの地、第三新東京市で生きていると言うことは僥倖である、アスカはそう感じていた。

この絶望が渦巻く地で、アスカは一つのことを思い起こしている。


『アイツの笑顔…見たいな…』


ただ一つ頭の中に思い描くはシンジの笑顔のみ。

時折、彼女の母親が映し出されるが、すぐにシンジの笑顔によってかき消されてしまう。

辛うじて彼女の精神を現世にとどめていると言っても過言ではない。


『シンジ…なぜ…泣いて…いるの?…』


今のアスカが見ているシンジは、ずっと泣いていた。

なぜ泣いているのか、アスカにはわからない。

そして、そのシンジを慰めることも出来ないでいる。

それをしようとすると、体の痛みが彼女の意志を奪ってしまう。


『…何か…辛いことがあったんだ…』


シンジは手のひらをずっと見続けていた。

そしてそれを見て、ずっと泣いていた。

手にあるのは銀色の無骨なクロス。


『ミサト…の…?』


彼が直に接した最大の悲しみ。

それを具現化した物が彼の手にある。

けれどもその事実をアスカは知ることはない。

辛うじて感じ取ることが出来るのみであった。


『誰も…居ないのかな…』


辺りにはシンジ以外に人の気配という物を感じない。


『どうなるんだろう…これから…シンジと2人っきりになって…』


今日(今)より明日(未来)を見るように心がけていたアスカがそこにはいた。

彼の温もりをその手に感じながら。




アスカは今、シンジを慰めるだけの存在になっている。

今、この刻は。
































過去、エヴァという楔によってその身を固定されてしまった男女が居た。

その楔は時に2人を固定し、時には引き裂き、最終的には再び固定した。


「エヴァだけが全てだったアタシが…あのときは居たのよ…」

「何となく分かってた。僕もそうだったから」

「何事にも代え難い物だった…けど全部壊れた…壊してしまった」

「その発端となったのは僕の自我崩壊」

「人間は自分だけが可愛いものね…」

「だからだと思う。みんな死んでしまえと思ってしまったのは」

「結局その通りになった」

「全部壊れて…死んで…残ったのは…」

「アタシ達だけ」

「全てが壊れてしまった世界でも僕は泣き続けた」

「ミサトの死…レイへの恐怖…カヲルと言う人への思慕…」

「残ったのは僕たちと…この紅い海」


2人は過去を懐古し、今現在を見ていない。

それは人間が生きていく上で、記憶となる物の大半をたったの一年間に凝縮してしまったからであろう。

そこで、ふとアスカが眼前の光景に目をやる。

それにつられてシンジも。


「今…アタシ達にあるのはこの紅い海だけ。この壊れた世界の…」

「それでも今僕たちは生きている…全人類の命を糧として…生きている」

「生きている…ホントは生かされているのかもね…」

「それでも生を全うできる体があるんだ」


命を生み出した海が、今は全ての命そのものとなっている。

彼らはその命を糧として、今を生きている。

それが今の…彼らの…宿命、命を宿す、生きていくための行為といえよう。

しかし…今の彼らには海を見続け、生きながらえることしか出来ないでいる。

悲しみを癒さない限り、動くことはないだろう。
































「微笑みかけてくれるだけで良いの…今は」

「僕も…同じだと思う」

「2人だけになってようやく気づいた気がする…」

「人は1人では生きられないって事?」

「いいえ…誰かに必要とされ続けることが生きていけることだって事」

「かまって欲しいんだね」

「言葉でも…肉体でも触れ合うことが大切だって事なのよ」

「2人しかいないこの世界、互いにかまいあうしかないこの世界」


体の傷は癒え、生活という物を取り戻しつつある。

2人しかいない生活ではあるが、彼らには満ち足りていた。

しかし…世界は満ち足りてはいない。

未だに廃墟が存在する…誰もいない世界のままだった。

そんな中、2人は結ばれた。

必然と言っていいかもしれない。


「新世紀のアダムとイヴ…誰がこんな言葉を言ったのかしらね…」

「楽園を追放された2人…今の僕らにはぴったりかもね」

「第三新東京市という楽園を追われ、廃墟にたどり着いた2人は…どうなるんだろう」

「何とかなるさ、2人でいられるならば」

「だと…良いわね」


互いに巳を寄せ合い、温もりを貪る2人。

18番目の使徒たる行為が今、そこで行われている。




廃墟に佇む白き十字架は彼らを祝福などしていない。

紅い虹もただ、そこにあるだけの物にすぎない。

もう他の人から祝福を受けることは一切無い。

そんな世界でも、2人は生きていく。

ただ、生きるという行為のためだけに。

人にとっては…それが全てだろう。












「もう…離せない」

「全てが終わったとしても…離せない。コイツを離すことは出来ない」

 

 

 

 

 

 


後書き

くさび【楔】:堅い木や金属で作ったV字型の物。木や石を割り、物を押し上げ、または物の間に差し込んで固定するのに使う。
 【−を打ち込む】敵中に攻め入って勢力を二分する
 【−を打つ(さす)】くぎを打つ
(新小辞林より)

今回のは後者の意味で捉えていただけると良いと思います。

他、何かありましたらメールにて。


Y-MICKでした。


感想メールはこちらへ。

 

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