おかゆ


 

 

 

 

 

 

目の前に横たわっていたのは、あるいはあまりにも露骨な死の姿だったのかもしれない。
それは、ちょうどあの大海原が人の思惑も運命も包み込んでただ揺れている姿のように、絶対的な存在感と圧倒的な無意味さでそこにあった。

星空のような、海溝のような、深い深い虚無の縁に自分が立っていることを、はっきりと感じた。いや、すでに立ってすらいなかったような気もする。
そもそも、自分はまだ本当に人の姿を保っているのだろうか?

人が人としての器を失ったのなら、それはただのあやふやな、存在しているのかどうかもあやしいような、そんな、ほんの兆しのようなものでしかない。そんなものに意味はない。
意味がないのなら、存在する理由もない。

ならば、自分は消えていこうとしているのだろうか?
彩りに溢れた世界に見放されて、捕まった手の指を一本ずつはがされていくように、底なしに暗い虚無に落ちていこうとしているのだろうか?
そう思っても、特にそれが怖いとか恐ろしいなどとは感じなかった。

ただ、悲しかった。

理由など知らない。ただ、精神の奥の奥、生まれたときから誰の手にも触れずに、そっと心のひだに包まれて守られていた小さなかたまり。
それが、泣いている。
身を震わせて、とめどなく涙を流して、まるで消えゆく自分自身の運命を哀れんでいるかのように、ふるふると泣いている。

それが、悲しくて、なんだかとても悲しくて。
だから、自分も今泣いているのだと、そのことに気づいた。
気づいたから余計に悲しくなって、余計に悲しくなったから何もかもがどうでもよくなって。
それで、彼女は捕まっている手を離した。

鮮やかな世界に彼女をつなぎ止めている細いロープを断ち切って、何もない、限りない安楽へとその身を委ねようとした。

したけれど。

「……スカ!」

誰かの声が聞こえて。
それがひどく暖かくて、懐かしいもののような気がして。
その声がもっと聞きたいと思った。

「ア……カ! ……カ!」

より鮮明に、より正確に。波に翻弄される者が頭上の空気を求めてあえぐように、彼女はその声を求めた。
そして、不意にやわらかなぬくもりを感じて。

「……アスカ!」

彼女は、虚無の縁から、引き戻された。

 

 

 

 

「……で、いったいどんな理由で平日の昼間に部屋でひとり餓死しかけてたわけ?」

何かを押し殺したような声に、返事は返ってこなかった。
その代わりとでもいうように、ずず、という音と拗ねたような上目遣いの視線だけが彼に向けられる。

「ふぁっへぇ……ふぁんはりおほほひろふぁったふぁら……」

「食べるか喋るかどっちかにする」

彼女は口を一杯にふくらませたまま、しばし天井を見つめて――食べることに専念することに決めたのか、何も言わずに再び手元のお椀からおかゆをすすり始めた。
そのおかゆの作り主でもある彼、碇シンジは、ため息をひとつ付いてあたりを見回した。

数週間前に彼が引っ越しを手伝ったときには整然と片づけられていたはずのマンションの一室は、今やそのころの面影もないほどにカオスに支配されている。ページを開いたままの週刊誌やら口の開いたお菓子の袋やらジュースの空き缶やら、全てを列挙するだけで原稿用紙の10枚やそこらは軽く消費できるのではないかというような状態である。
当然、足の踏み場などない。

ゲームコントローラを握ったままで床に寝そべって、あっちの世界を垣間見ていた彼女自身の身体の上にさえカップラーメンの容器や漫画本が積み重なっていたのだ。シンジが彼女を「発掘」するのには実に10分以上かかった。大して広くもないこの部屋で、である。

なんとか台所は綺麗だったので――それはすなわちその場所がほとんど使われていないことを示していたが――、差し入れようと買ってきた材料とあり合わせのものでおかゆを作り、適当に部屋の中を押しのけてなんとか二人が座れるくらいの場所を作った。視線の定まらない彼女に流し込むようにしておかゆを食べさせ、ようやく自分でスプーンを握って食べられるくらいにまで回復したのだ。

空腹ではあるようだが、数日間の絶食状態のため胃腸が弱っているのか、その食事は遅々として進まない。しばらくはそれを黙って眺めていたのだが、不意に思いついて立ち上がった。この時間を利用して少しでもこの部屋を片づけようと思ったのだ。どう見てもここは人の生活する環境ではない。

立ち上がったのはいいが、どこから手をつけたものか、としばし思い悩んでいると、ズボンの裾をくいくいと引く感触に気づいた。

「ふぁへぇ……」

見ると、やはりおかゆを口一杯に頬張ったままの彼女――というか、アスカ――がなにやら訴えるような目で裾をつかんでいる。どうやら「駄目」と言いたいらしい。

「だって、このまんまじゃどうにもならないよ?」

アスカはシンジのズボンの裾をつかんだまま、頭を上下に揺らした。口の中のおかゆを必死に咀嚼しているようだ。
やがて、ごくん、とのどが鳴り、ふぅと息をひとつつく。

「……で?」

律儀にそれを待っていたシンジに弱々しい声で答えた。

「地層の下の方には……下着とかいろいろ埋まってるのよ……」

いつもならば語尾に「バカシンジ」がついて、さらに平手打ちの数発とともに繰り出されるような台詞だろう。しかし、飢えで弱っているためか、あるいは命を助けられたという負い目のためか、今日は多少控えめなようだった。

「あー……うん、わかったよ」

「前は平気で下着も洗わせてたじゃないか」とは口に出さない。今なら殴られることはないだろうが、一週間後もそうであるという保証はどこにもない。その時までに彼女がこのことを忘れているという保証も。

彼が腰を下ろしたのを見届けると、アスカは安心したかのように再びお椀の中のおかゆを頬張り始めた。彼女が持っているお椀の前には、おかゆが一杯に入った大きな鍋が置かれている。もちろん、テーブルを出しているような場所的余裕などないので、床に直接鍋敷きをしいてその上に置いてあるのだ。

それはいいのだが、その鍋の中に入っているおかゆの量はどうみても一人分ではない。いくら数日間絶食状態にあったとはいえ、一度にそれだけの量を食べきれるものではないだろう。自分では落ち着いて行動したつもりだったのだが、やはり餓死しかけている彼女を目の当たりにして、そうとう狼狽していたらしい。

他にすることもないので、シンジは台所からお椀と陶器のスプーンをもう一セット持ってきて、自分もそれを食べることにした。一人暮らしを始めた彼女の様子を見がてらに、久しぶりに料理でも作ってやろうかといった彼の本来の目的は、奇しくも果たされようとしていた。たとえ当初に想定していたものとはほど遠いものだったとしても。

とはいえ、シンジとてまさかアスカがたったひとりで完璧な生活を送っているなどと考えられるほど甘くはない。部屋の片づけを手伝わされたりといったこともある程度覚悟はしていた。ただ、その絶対的分量がいかんせん足りなかったというだけの話だ。もっとも、この元同居人の少女がまさか部屋の真ん中でつい先日発売されたコンピューターゲームを起動させたまま死にかけているなどという事態は完全に予想の範囲外だったが。

「まったく……いくらゲームに夢中になってたからって、何も食事を忘れることはないだろうに……」

独り言のようにして言った言葉だったが、彼女はそれにぴくり、と反応したようだった。口をもごもごと動かして少しでも早く飲み下そうとしているのは、反論するためなのだろう。

「……だって、先の展開が気になるじゃない。ちょっと食事を先延ばしにして続けようかな、と思っただけよ……」
「その『ちょっと』で一週間近く絶食したうえに死にかけるの?」
「うう……」

なにやら悔しそうに唸ると、彼女は再び食事に専念することにしたようだった。シンジがアスカを口げんかで言い負かすなど、こんなときでもなければないだろう。すなわち、どう考えてもアスカの側に非があり、なおかつそれを強引にひっくり返すだけの余力が彼女にないとき、ということだ。

そんな、彼女との出会い以来初めてといってもいいような自らの優位が彼の行動を多少軽率にしたのだろうか。シンジは二杯目を自分のお椀によそいながら、

「だいたい、ミサトさんの結婚を機に一人暮らしする、なんて言い出したときから不安はあったんだよ。いっつも僕に家事から雑用から全部押しつけて、お姫様みたいな上げ膳据え膳の生活にどっぷり浸かってたアスカが、いきなり自活しようだなんて。そんなふうに後先考えないで行動するから……」

と、説教がましい口調で話していた言葉が不意に止まる。

その時まで気が付かなかったのは、あるいはここ数年の平穏な生活にかれの危険予知能力が鈍ってしまったからなのか。ともかく、空気が不自然なほどに重くなっていることに気づいたシンジは、壊れた人形のようなぎこちない動作で――顔を上げた。

そして、視線が合う。

右手におかゆの入ったお椀を持ったままの姿勢で、にっこり笑っている彼女と。
――目は笑っていない、無論だが。

「あ……と……その……」

彼女は笑みを崩さずに、

「……後で覚えてなさいね」
「………………はい…………」

 

他にどう答えようがあるというのか。

 

 

「ふぅ……」

とん、と空のお椀を床に置く。

「ごちそうさま」
「もういいの?」

まだ食べているシンジが尋ねる。アスカは少し息をついた。

「胃腸弱ってるしね……三杯くらいが限界よ、とりあえず」

まだ鍋の中には半分以上のおかゆが残っている。よくもまあこんなに作ったものだと多少呆れながら彼女は目の前の元同居人に視線を移した。

「ん? 大丈夫だよ、残りはおいといてまた後で暖めて食べられるし、僕ももうちょっと食べるからね」

彼女の視線を非難と受け取ったのか、シンジは多少弁解がましくそんなことを言った。
現に、高校に入学したぐらいのころからシンジの食事量は明らかに以前よりも増えている。それは、いつの間にか彼女を大きく引き離してしまった身長ともけして無関係ではないのだろう。
……初めてキスしたときは同じぐらいだったのにねぇ…

ふとそんなことを思う。まだ戦いが日常だった頃の話だ。キスとはいっても子供の好奇心の発露に過ぎない、何の発展も成果も生まないような、そんなキスだった。少なくとも、そういうことにして自分を納得させてはいた。

とりあえず胃の中が落ち着くと、頭も次第に冷静さを取り戻してくる。アスカは改めて自らの部屋を見回した。いつか片づけよう、と思っていつの間にか収拾がつかないほどに積み重なってしまった日用品の層が、ここ数日の放置状態によってそのエントロピーをさらに増進させている。

我ながら、ほんの一ヶ月足らずの期間によくここまで散らかしたものだ、と思う。引っ越してきた当日はシンジが全ての物を整然と片づけてくれたはずなのに。

「……僕が、もっと早く来てればよかったんだよね」

まるでアスカの思考を読んだようなタイミングで、そんなことを言う。

「レポートの提出期限が迫ってるからってろくすっぽ様子も見ないでほっといたからこんなことになっちゃって……やっぱり僕の責任だよ」

「あんたねぇ、そんな人を熱帯魚か何かみたいに……」

「だって、僕が来るのがあと三日遅かったら、アスカ死んでたよ?」

「う」

またも言葉に詰まる。どうも今回はとことん分が悪い。
なんとか話題を転換させようとした彼女の口から出てきたのは、自分でも意外な言葉だった。

「あのさぁ、シンジ」
「ん?」
「……結婚しよっか?」
「ぶっ!!」

盛大に口の中のおかゆを吹き出すシンジ。

「うわ、汚いわねぇ……大丈夫?」

最後の言葉が自然に出てくるあたり、彼女も成長したと言うべきか。とにかく、運良く手の届く場所にあったティッシュをとって二、三枚まとめて渡してやる。それで床と自分の口周りをふき取ったシンジは、なにやら疑わしげな視線をアスカに向けてきた。

「……本気なの? アスカ」
「何が?」
「いや、だから……その、僕と結婚するって」
「本気よ」

コーヒーの銘柄でも答えるかのような気楽さでアスカ。

「…………」

シンジは沈黙している。彼女の真意を測りかねているのだろう。
アスカは持っていたままのスプーンを手で回しながら、

「だって、どうせこの先あたしを夢中にさせてくれるような男なんて出てこないだろうしねぇ……そしたら、少なくとも生活の面倒は見てくれて、それなりに気心の知れてるあんたあたりで手を打っとくのが無難かなぁ、って思うのよね」
「そんな無茶な……」

シンジはうめくが、いつも通り彼女はそんなことは歯牙にもかけない。

「で、どうよ? 結婚する?」

いつもの命令口調ではないあたりが隠しきれない弱気と緊張の現れと見れるのかどうか。少なくともシンジにはそんなものに思いを至らせるほどの余裕はなかったようである。

「結婚って言ったって……その前に、ほら、なんていうか、色々と段階があるじゃないか……」
もごもごと口の中だけで話すシンジ。他人に流されつつあるときの彼の癖である。

「過程なんて問題じゃないわ、結婚して、あんたがあたしの身の回りの世話をしてくれる、っていう結果が重要なんだから」
「結果が重要、か……」

繰り返すと、不意に黙り込んでしまった。顎の下に手を添えて、前方の一点を見つめるようにして何かをじっと思考している。
アスカはしばらく彼の言葉を待っていた。そういえば今日はどこで寝ようか、などと場違いな思考が時折頭に浮かんだりもする。
かた、と部屋の片隅で何かが少しずれたような音がした。
それきりで、部屋は再び静寂に包まれた。シンジはまだ動かない。
沈黙に耐えかねたアスカが、自分から口を開こうとした瞬間。

「でもさ――やっぱり僕は、過程を大事にしたいよ」
「……どういうことよ?」

出鼻をくじかれた形になって、多少不機嫌になりながらも彼女は聞き返した。

「だから、さ……僕は、アスカと結婚するよりも恋人同士になりたい……今は、ね」
「へ?」

今度は――さすがに吹き出したりはしなかったが――アスカが虚を突かれる番だった。

「だって、好きでもない人と結婚するなんてやっぱり悲しいよ。だから、さ。まず恋人になろう。その間にアスカが僕のことを好きになってくれれば、それで問題は全部解決するよ」

多少の逡巡を見せながらも、はっきりした口調でさらに付け加える。

「それに、僕の方はもう問題はないし、ね」
「それって……」

シンジは黙ってうなずいた。言うまでもない、ということだろう。その頬は微妙に赤い。自分もきっと同じような状態なのだろうと思うと、なんだか悔しいような恥ずかしいような妙な気分になった。

「……わかったわ。それじゃあ、今日からあんたとあたしは恋人同士。それでいいわね?」
「うん。アスカが早く僕のことを好きになってくれることを祈ってるよ」

赤面しながらも、そんなことを平気で言ってのける。良くも悪くも成長したものだ、とつい妙な感慨を抱いてしまった。

「えーっと……まあ、それじゃあ……とりあえず、僕、帰るね」
「あ、そ、そう?」

立ち上がったシンジに、慌てて自分も身を持ち上げる。
それがいけなかったのか、一瞬世界が大振り子のように揺れるのを感じた。立ちくらみで倒れかけた身体を支えるため、とっさに出した足が、盛大に足下のゴミの山を蹴飛ばした。
あ、と開きかけた口のままで、シンジのため息の音を聞く。

「明日、また来るからさ。一緒に片づけようよ、この部屋」
「そうね……多分その方がいいわ」

アスカは今日はもうそれ以上気にしないことにした。部屋に負けず劣らず散らかっている廊下を何とか隙間を見つけて歩く。

「あー……それでさ、何か明日食べたいものとか……ある?」
「今は、軽いものしか食べられないと思う」
「あ、そだね……」
「そうよ」
「ええと……」

間を持てあまし気味のシンジ。玄関まで出て靴を履いたのはいいのだが、そこから出ていくタイミングがつかめないらしい。

「あ、そうだ」

何かを思いだしたような声を上げると、唐突にアスカの手を引いた。

「きゃ――」

前のめりにバランスを崩した彼女の身体を抱きとめ、その唇を素早く奪う。
ほんの一瞬ふれあうだけの、五年前のそれよりももっと淡泊な一瞬だけのキス。そのあまりの前触れのなさに、アスカも瞬間、何も反応できなかったほどだった。

「とりあえず、手付け金……ってことでね」

格好をつけて言いながらも、すでに手はドアノブにかかっている。
はっと我に返ったアスカが、罵声と共に玄関脇の花瓶を投げつけるのと、シンジがドアから飛び出していくのとはほぼ同時だった。ドアに思い切りぶつかった花瓶は、派手な音と共に水と破片と花の残骸をあたりにまき散らす。

「あのバカ……っ! やってくれるじゃないの……」

一瞬、花瓶を片づけようかとも思ったがやめた。明日も来ると言っていた。そのときに片づけさせればよいのだ。

玄関前で二、三度深呼吸をして心を落ち着かせると、また部屋へと戻り、先ほどまでシンジの座っていた隙間にぺたんと腰を下ろした。後でラップをかけて保存しておくようにと指示を受けた鍋が、まるでひとりで彼女の話し相手をつとめるとでも言わんばかりに、目の前にでんと鎮座していた。

「あたしがあいつのことを好きになるまで恋人同士、か……」

独りごちる。

「にしても、あれで結構焦ってたのか、それとも本気で大馬鹿なのか……」

鍋に両手を添えて、その中をのぞき込んだ。

「単に家事をやらせるだけなら前みたいな同居で十分じゃないの」

鍋の中に見えるのは見慣れたおかゆ。彼女が具合を悪くしたときにいつも作ってくれた、変わらない味が鍋の三分の一ほど控えめにたたずんでいる。
それ以上は何も言わずに、彼女はただ鍋の中身を見つめていた。たとえその場に他の何者かがいたとしても、その表情から考えている内容を推察することはできなかったろう。

どれくらいそうしていたのか。顔に当たる熱にふと気が付くと、西向きのベランダからは鮮やかな夕日が射し込んで、秩序の崩壊した部屋を赤に統一しようとしていた。
引っ越してくるときに、これだから角の部屋はいやなのよ、とシンジにぼやいたことなど思い出しながら、アスカはもう一度つぶやいた。

 

「結果の知れた勝負、か……それもいいかもね」

 

明日も天気はいいようだった。

 

 

 

 

 


 



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