朝の光に洗われた町が、夜の闇の中で潜めていた息吹を今日も吹き返す。
己の健康を増進させるためにジョギングにはげむサラリーマン、あくびを繰り返しながらスコップ片手に大型犬に引っ張られていく少女、お揃いのユニフォーム姿で野球道具を手に駆けていく少年たち。連休初日の朝は普段よりもなお穏やかに、それらを包んでゆったりとたたずんでいるように見えた。
そんな清涼な朝の雰囲気も、これだけ広く入り組んだ都市では隅々まで届くわけではない。
コンフォートマンションのこの一室も、どうやらそのひとつのようだった。

「ねぇシンちゃん! 私の財布どこやったか知らない!? あの赤いやつ!」
「洗面所で見ましたよ! 僕が取ってくるから早く着替えてください! もう時間ないんでしょ!」

怒鳴りつつ――単に相手に合わせた音量で話しているためそうなってしまうだけだが――、洗面所の脇に無造作に置かれていた赤い財布を取りに行く。
ドアの向こうからは、どたばたと走り回る音とあちこちに体をぶつける音、さらに時々勢い余って部屋の備品を引き倒す音まで詳細に聞こえてくる。
少年――碇シンジは、はぁとため息をつくとそのドアを開けた。
視界に入ってきた姿は、ネルフの礼服を後ろ前に着て足にはパジャマのズボンを引っかけたまま駆け回る29歳独身女性のもの。

「財布あったよ、ミサトさん……すぐ朝ご飯つぐから、落ち着いて着替えてください」
「あ、ありがとー、シンちゃん。やっぱ男の子は頼りになるわ〜」

少なくとも、普通こういう局面で使う台詞ではないだろう、とは思ったのだが――あえてそれは指摘せず、シンジはあわただしくご飯と味噌汁をついで、それに卵焼きと昨日の残りの肉じゃがを添えてテーブルに出す。
いただきますを口早に言ってそれをかきこみだすミサトを横目で見ながら、ようやくほっと息をついた。
のもつかの間のことだったようで。

「……あにやってんのぉ……?」

もうひとりの同居人が、寝ぼけ眼をこすりながら部屋のふすまを開けて出てくる。
彼女にしてみればせっかくの連休初日に早朝からドタバタ騒ぎで起こされたわけだ。寝ぼけているせいか怒りのスイッチはまだ入っていないようだが、さすがにそのまま寝ている気にもならなかったらしい。

「あ、アスカ。ごめん。ミサトさんが、急な出張が決まったっていうからさ」
「しゅっちょう?」

その聞き返しにはどうやら大した意味はないようだった。単にまだ十分な会話のキャッチボールができるほど頭が起きていないだけなのだろう。
どちらにせよ、その問題に対する興味はすぐに失せたらしい。

「ん……ふぁ〜〜〜あ」

寝間着代わりのTシャツのすそから手を突っ込んでぼりぼりと腹をかきながら、隠しもせずにおおあくびをして洗面所へと向かうアスカ。すでに同い年の少年を目の前にした年頃の女の子としてはかなりダメな領域にまで達しているといえよう。

「…………」

それを複雑な気分で見送って。
ちら、とテーブルの上の朝食を一心不乱にかきこんでいる保護者に視線を転じる。

「ああもう時間がない! お腹に入れば一緒よね! 余裕! パーペキ!」

未だ妙齢と呼べる範囲には収まっているはずのその女性は、今まさにご飯茶碗に味噌汁と肉じゃがと卵焼きを全部放り込んで口の中へと流し込もうとしているところだった。
……まあ、いいんだけどね、別に。と、口の中だけで呟く碇シンジ14歳。青春の入り口に立ったばかりの彼としてはもう少し女性には夢を見ていたかったのだが、どうやらそれすらもかなわぬ望みらしい。
とにかくも、この日の朝はそんな具合に慌ただしく始まったのだった。







『オメデトウ』







「ん」

頬を目一杯膨らませながら、彼女専用の茶碗をずいと突き出す。
橋をくわえたままでそれを受け取り、慣れた手つきでご飯をついで彼女へと戻す。
よく朝からそんなに食べられるね、とは言わない。前にそれを言ったら思い切り蹴り飛ばされたからだ。理由はよくわからない。
その代わりというわけでもないが、黙々と朝食を咀嚼する彼女の姿をシンジはなんとなく眺めていた。
突風のようにミサトが家を出ていって、ようやくこの部屋にも朝の落ち着いた雰囲気が戻り始めたようである。
まだいまいちエンジンのかかりきっていないらしいアスカは、珍しく静かに食事をとっている。シンジはもとより口数の多い方ではないため、自然食卓に会話はなくなる。
以前の彼らならば、あるいはこれが知らない人間とであったらこの沈黙に息苦しいような居心地の悪さを感じもしただろうが、今この食卓に漂う沈黙にそういった気まずさのようなものは全く感じなかった。お互いに空気のような存在、とでもいうのか、特に会話がなくとも苦痛に感じないだけの何らかは、ふたりの間に確実に存在するようだった。

「……んー、ごっそーさまー」

ひとつ大きな伸びをして、箸を置くアスカ。
食器を片づけもせず、リビングにでんと寝転がってテレビをつける。何度かチャンネルを変えるが、結局はワイドショーに落ち着いたらしい。

「…………」

その背中に向けて色々と言いたいことはあったのだが――過去の経験からか単に本人の性格によるものか、一家の主夫である少年はただため息ひとつのみにあらゆる感情を込めて後かたづけを始める。
流しで茶碗を洗いながら、ふと思い出してアスカに声をかける。

「あ、そうだ。アスカ、今日の晩ご飯はカレーがあるからこれ食べてね」
「……カレー? 何よ、あんたどっか行くわけ?」
「うん、今日はトウジと一緒にケンスケの家に泊まりに行くって……言ってなかったっけ?」
「…………」

クッションを胸に抱いて寝ころんだまま、視線だけが宙を泳ぐ。記憶の糸をたぐり寄せようとしているらしい。

「そういえば、そんなこと言ってたかしら……にしても、男三人で狭苦しい部屋にこもって何するわけ? やーらしいんだー」
「な、何がやらしいんだよ!」
「どうせ夜中にいやらしいビデオの鑑賞会したりするんでしょ? あーやだやだ男って。頭ん中それしかないのかしら」
「…………し、しないよそんな事!」

充分すぎる間が言葉よりも雄弁に真実を語ってしまっているのだが。

「はいはい。いいわよ別に。シンジ様はアタシのことなんか気にしないで、どうぞ思う存分野獣のような性欲を発散してきてくださいな」
「違うって言ってるだろ!」

ひらひらと手を振る彼女に怒鳴り返すが、もう完全に聞き流し体勢に入ったようだった。こうなると――というよりもいつだって――口論でシンジに勝ち目はない。
ささやかな抵抗として口の中だけでぶつぶつと文句を言って、少年は再び洗い物へと戻るのだった。
そして昼時。
アスカの分の昼食を作り終えたシンジは、時計の時間を気にしながら外出の用意をする。

「アスカー。行ってくるよ。戸締まりはしっかりしといてね」

相変わらずリビングで寝そべっているアスカに呼びかけるが、彼女は何やら壁の方を向いたままで反応を返してこない。

「…………?」

首をかしげ、もう一度、今度は気持ち大きめな声で声をかけた。

「アスカー?」
「……え? あ、うん。行ってらっしゃい」

その時になって初めて気づいたとでもいうように、少女はこちらへと視線を向けた。

「…………あのさ、シンジ」
「え?」

まさに出ようとした瞬間に聞こえてきた声に、シンジは振り向く。アスカはやはり壁の方を向いたままで続けた。

「今日……泊まってくのよね」
「うん、さっきも言ったけど……どうかした?」
「…………」
「アスカ?」
「別に。何でもない。行ってらっしゃい」

と――ぽすん、とクッションに顔を埋める。
その態度に思わず首をひねるシンジ。が、あいにくと何か彼女の心理に影響を与えるような心当たりもないし、何よりすでに約束の時間が迫っている。

「それじゃ、行ってくるから。ちゃんと晩ご飯食べてね!」

急いで靴を履くと、再度声をかけて玄関から出ていく。それに対するアスカの応えはなかった。





「……そっか。今日は……」

壁に掛かったカレンダー。一年の最後の月が記されたそれを見つめて、誰に言うともなく独りごちる。

「……ま、別にいいんだけどね」

ガラじゃないしね、と呟いて――立ち上がって台所へと入っていく。とりあえず、シンジの残していった昼食で当面の空腹を満たそう。それだけを考える。

「別に――大したことでも、ないしね」

そんな彼女の独り言を聞く者は、その場にはいなかった。











「これでどうや! 逃がさへんで!」
「おおっと! そんな大雑把な攻撃じゃ当たらないね!」

背後から聞こえてくる声と電子音、さらに爆発やらミサイル発射やらの効果音、他にもまわりから雑多に流れてくる音楽や効果音を聞くとも無しに聞きつつ、シンジは手に持った缶ジュースに口を付ける。

「ぬおっ! 挟み撃ちとは卑怯やぞケンスケ!」
「クレバーと言ってくれよ。ルール上の問題は何もないんだからな!」

もうすでに旬を過ぎた――そのおかげで待ち時間ゼロで占有できるわけだが――体感ゲームの筐体によりかかって、ぼうと天井を見上げる。二人対戦のゲームを三人で楽しもうと思えば、一人があぶれるのは至極当然のことだ。三人で楽しもうと来たのなら、ローテーションを組んで楽しもうとするのもごく普通だろう。
良く言えば穴場、悪く言えば人気のない、そんな行きつけのゲームセンターであるために人も少なく、周りの人間を気にすることもなく遊ぶことができる。

「うおおおっ! ふんっ! とりゃあっ! ぬおおおおおっ!」
「くそ! 後はハエが止まっただけで死にそうだってのになんで当たんないんだ!?」

しかしながら、一回のゲーム時間は遊び手の力量によってかなり左右されるわけで。
このメンツでのゲーム大会となると、ひとり圧倒的に下手であるシンジが、自然とあぶれやすくなるのもまた自然な流れだった。仮にも人型決戦兵器の正規パイロットである彼が、ロボット格闘ゲームで遅れを取るというのも一見妙な話だが、神経接続で動くエヴァとコントローラ操作で動くゲームとでは勝手が違う。さらに最も大きな理由としては、対人戦における駆け引きが悲しいほどにシンジは不得手だった。
使徒の方がまだ戦いやすい、と愚痴ったときに二人が妙な顔をしたことを覚えている。
しかし、今日の不調は必ずしもそればかりが原因ではないようだった。

「ふははははは! もらったでケンスケ!」
「し、しまったぁぁぁっ!」

――と。
一際大きな炸裂音と共に筐体が大きく揺れて。
数秒後には、勝者と敗者が明確に分かたれて筐体から出てくる。

「あー、畜生! 絶対もらったと思ったのになぁ」
「ふ、一瞬の油断が命取りや。ワシの方が一枚上手だったようやのう」
「二人ともお疲れ。また今回は長期戦だったね」

苦笑しながら声をかける。

「惜しかったよなー、あそこでマシンガンが……」
「何言うとんのや。ワシのレーザーにかかれば……」

たった今の対戦について話し始める二人。
どうも長くなりそうだと察したシンジは、ちょうど飲み終わった缶ジュースを少し離れたごみ箱へと捨てに行った。空き缶が落ちることん、という音を聞きながら、ふぅと息を付く。

「…………」
「どうしたんだ? シンジ」
「え?」

ごみ箱をじっと見つめていたところを突然、背後から肩を叩かれた。
振り返ると、ケンスケの見慣れた顔がある。どうやらわざわざこちらまで歩み寄ってきたらしい。

「あ……いや、ごめん。ちょっとぼっとしてた」
「またか? さっきの対戦中もなんか心ここにあらず、ってな感じだったし……何かあるのか?」
「いや、特別何かって訳じゃないんだけど……」

そういいながらも、先ほどからずっと頭に引っかかっている光景がまたシンジの脳裏に蘇る。

「……家を出るとき、アスカの様子がおかしくてさ」
「あん? 腹でも壊したんとちゃうか?」

いつの間にやら缶コーヒー片手にすぐそばまで来ていたトウジが気のなさそうな様子で言う。

「いや、そういうんじゃなくて……なんていうんだろう、元気がなさそうっていうか……」
「ていうか?」

続く言葉を言いかけて。
唐突に、それが猛烈に彼女にはそぐわない言葉であるような気がして、シンジはそれを飲み込んだ。

「……あー、いや、何でもない。多分気のせいだよ。うん」

そう、きっと気のせいだ。
アスカが、彼女が――寂しそうに、見えたなんて。











「…………暇」

ごろ、と転がって。
天井をしばらく眺め、それにも飽きてまた転がりうつ伏せに戻る。

「暇。暇。ひーまー」

言いながら、足をばたばたさせる。通りすがりのペンペンがそれを不思議そうに見つつ、自分のねぐらへと入っていった。
やることがない、というわけでもない。本を読んだっていいし、今からショッピングに出かけるくらいの余裕もある。けれど、やる気が起きない。何もしないことは苦痛だったが、それ以上に何かをすることもまた苦痛だった。
退屈に苛まれながらも、それでいて体は指一本動かす気にもならない不思議な無気力感が体を支配している。

「……ヒカリに電話でもしよっかな」

なんとなく思いつくが、数メートル先の電話が妙に遠く感じる。手に取るためには立ち上がらなくてはならないのも億劫だ。

「…………ふぅぅ」

妙な吐息を吐きながら。シャクトリムシのような格好で電話まで近づき、しばらく見上げた後に勢いを付けて立ち上がる。
電話機を手に取り、またしばらく考えて。そして、おもむろに番号を押した。唯一と言ってもいい親友の家の電話番号は、すでに暗記している。
押し当てた受話器の冷たさが、耳を通して体へとしみこんでくる。無機質な呼び出し音を聞きながら、どっとソファーに腰を下ろした。

「……はい、洞木です」
「あ、ヒカリ? あのさ、今日ヒマ? 実はさ……」
「……ただ今留守にしております。御用の方は、ピーッという発進の後にメッセージを入れてください」
「…………」

ピ――――――ッ。

耳に痛い電子音を待つまでもなく、ぽいと放り投げて。
ソファーに寝転がりながら誰にともなく呟く。

「……そういえば、今度の連休は家族旅行だって行ってたっけ……」

覚えときなさいよ、アタシ。
気怠げに息をつき、床に落ちたクッションを拾い上げて顔を埋める。
わずかな動作だけで、体に残っていた活力を全て使い切ってしまったような気がする。もうこれ以上は動かない。動きたくない。
別に理由なんてない。ただ……ちょっと、調子が出ないだけだ。人寂しいわけでもないし、ましてや今日という日に何か関係があるなんて事もありえない。
だって。別に。
12月4日が特別な日だったことなんて、今まで一度もなかったんだから。











肉の焼ける匂いが、鼻を通して体中に染み渡る。
鉄板の上で焦げ目のついた肉を次々にひっくり返すと、それにすぐさま横から伸びる箸。

「あ、トウジ! その肉まだ焼けてないよ」
「ふ、甘いのうシンジ。肉は生焼けが一番うまいんや」
「……腹壊しても知らないぞ」

一旦ケンスケ宅で落ち着いた三人は、夕食を取るために焼き肉屋へと繰り出していた。ちょうど夕食時ということもあり、店内は家族連れやカップル、あるいはシンジたちのような学生らしき集団で賑わっている。

「ふ、この肉ももらうで!」
「あ、また! もう、トウジ、肉ばかり食べてないで野菜も取ってよ!」
「ワシは肉が好きなんじゃ! こればっかりはいくら親友の頼みとはいえ聞けんわい!」
「そんなこと言って、さっきから一人で食べてるじゃないかぁ」
「……まあ、俺は肉も野菜も適度に食ってるからいいんだけどな。別に」

ちなみに、焼くのはもっぱらシンジの仕事である。別に打ち合わせて決めたというわけでもなく、性格的に自然とこういう役割分担がなされてしまうのだ。

「はぁ……これじゃアスカやミサトさんと食べてるのと変わらないよ……」

自分の言葉に、ふと家に一人残してきた少女のことを思い出す。
……アスカ、ちゃんと晩ご飯食べてるかな……。
子供を心配する母親のような心境で、胸中で呟いた。そんな思考に呼応するかのように、再度アスカの表情がフラッシュバックする。
――あの時彼女は、一体何を見ていたのだろうか。何か、気づきたくなかったことに気づいてしまったような、でも本当はそれに気づくことを望んでいたような、何とも言えない、不思議な表情をしていた。大きな青い目でじっと一点を見つめているその横顔が、網膜に深く刻み込まれて離れない。

「……シンジ、おいシンジ!」
「えっ? あ、ご、ごめん。ちょっとぼうっとしてた」
「大丈夫か?――そんなに、惣流のことが気になるのか」
「そんなわけじゃ……ないけどさ」

思わず口ごもる。

「そんなに心配やったら、ちょっと電話でもかけてみたらどうや? まぁどうせ大したことないと思うがの」
「うん……いや、いいや。多分僕の気のせいだろうしね」

わざわざ電話するほどのことでもないだろう。そう思った。
きっと、またいつも通り自分だけが色々と意識して、勝手に思い悩んでいるだけなんだろう。いつだって彼女と自分との関係はそういうものだ。

「……うん、きっと思い過ごしだよ。それより、この後どうする?」
「うーん、とりあえず、コンビニでも寄ってって食料と飲み物買い込むか。どうせ今日は徹夜だろ?」
「もちろんや! ゲームもビデオもたっぷりあるからのう、今夜は二人とも寝かさへんで!」

互いに笑い合いながら、今夜の予定について語り合う。
ちょっとしたふざけ合い、他愛もない会話。今まで、目の見える所にありながらけして自分には手の届かないものだと思っていたものが、いつの間にか自分の手の中にある。何気ないやりとりの中にそれを感じ、シンジはひどく満ち足りたような気持ちが自分の中に広がっていくのを感じた。
――この街に来てよかった。
辛いこともやり切れないことも数え切れないほどあったが、ただ、今この瞬間だけは素直にそう感じることができる。それがとても幸せで、自然と笑みがこぼれる。前の街ではできなかったような、そんな笑みだった。

「――あ、ごめん、ちょっとトイレ」

ふと背筋に寒気を感じ、席を立つ。
用を足して、洗面所で手を洗っていると、不意に鏡に見知った顔が映った。

「あれ? 加持さん?」

振り向くと、肩越しに何やらにやけた笑いを浮かべている加持の姿が見える。

「やあ、シンジ君。珍しいところで会うなぁ……アスカと一緒かい?」
「いえ、今日は友達と一緒に来てるんです。アスカには、ちょっと悪いと思ったけど家にカレーを作っておきました……加持さんこそ、誰かと一緒に来たんですか?」

持っていたハンカチで手を拭きながら尋ね返す。だが、加持は妙な表情をしただけでシンジの問いには答えなかった。

「ちょっと待ってくれ、シンジ君……どうして君はこんな所にいるんだ?」
「え? だから、友達と一緒に……」
「いや、俺が聞きたいのはそういうことじゃないよ」

シンジが滅多に見ることのないような真面目な顔で、加持は言った。

「どうして、君がこんな所にいるのかを聞いているんだ。――よりにもよって、こんな日に」











時計の針が、かち、かち、と一定のリズムで盤上を回る。
ただ規則正しいだけ、それ以外になんの意義も見いだせないその運動は空しくないのだろうか。ふと、そんなことを考えた。
ソファーに身を沈め、ただそれを見つめているだけで彼女の一日は終わってしまった。文字盤の短針と長針は徐々にその一番高いところへと、それぞれの速さで近づいていく。その二本が完全に合わさった時――今日という日は終わる。
だから何だというのだろう。今日までのたった14年の人生でも、もう数える気にもならないほどの日を過ごしてきた。一日が終わるだけで何かを感じるなんて、そんな無駄で非効率的なことがあるだろうか?

「ううん――15年、ね」

声に出して、自分の思考を訂正する。
今日という日。自分がこの世に生まれ出た日。書類の年齢欄に記入する数字がひとつ増える日。
――ただ、それだけのことだ。
人間が勝手に作り出した暦の上での、単なる時間的区切りに過ぎない。そんなもののためにいちいち祝ったりはしゃいだりするなんて、ナンセンスの極みだ。
彼女には、そんな暇も余裕もなかった。同年代の子供たちが誕生日とクリスマスのプレゼントに胸を膨らましている間も、研究所に通ってエヴァの訓練を続け、それがないときにはただひたすら知識を蓄えた。
それが辛かったわけではない。ましてや後悔もしていない。自分が自分であるために闘っていたのだから。
だから、今日という日がこのまま終わっても、それは別に大したことじゃない。
ただ、今までと同じように訪れたその日が今までと同じように過ぎ去っていった。ただそれだけのことだ。
それだけのこと、のはずだ。

「……お腹、空いたな……」

夕食のカレーには手を付けていない。
特に理由はない。ただ、あえて言うなら食べるのが億劫だったというだけに過ぎない。
時計の針は、もうほとんど重なっていた。今日という日は、12月4日はもうあと数分しか残っていない。
シンジは何をしているんだろう。ふと、そんなことが思い浮かんだ。

「相田の家に行くって言ってたっけ……三バカが揃って何やってるんだか」

ごろ、とソファーの上に体を倒す。時計が視界から消えて、白くくすんだ天井だけが見えた。

「この部屋、こんなに広かったっけ……」

呟く声は、冷えた空気に吸い込まれていって拡散して消える。
それも、やはりそれだけのことだ。
――アタシは一人で生きる。
そう誓った。大切なものを失ったあの日に。
だから、こんなものはただの気の迷いだ。そうでなければ疲れが見せる幻覚だ。
そうとでも言わないと、こんな気持ちはとても説明がつかない。ひどく非合理的で――そして馬鹿馬鹿しい。
いつも隣で困ったように笑っているあの気弱な少年に。
シンジに会いたくて仕方ない、なんて。
そんな馬鹿な話が――あるものか。

「…………バカ……」

その言葉は、誰に向けたものなのか。自分でもよくわからなかった。
時計を見上げる。既に長針と短針は完全に重なっているように見える。秒針だけが規則正しく回り、残りわずかな今日をゆっくりと、そして確実に削り取っていく。
目を見開いて、それを見つめていた。少しずつ、少しずつ迫ってくるその時を、身じろぎもせずに。
――アタシは、何を求めているんだろう?
分かってはいた。けれど、分からない振りをしていた。それを認めてしまうと、自分が弱くなったことを認めてしまうような気がするから。だから、目を見開いて、ただ事実のみを受け入れようと時計の秒針を見つめていた。
すでに『9』の時を回った秒針が、やがて、一度もその動きを早めることも遅らせることもなく、『12』という字に。
重なろうとした、その瞬間。

「アスカっ!」
「――――――!」

呼吸が、止まった。
聞きたかった声。聞こえるはずのない声。それが――聞こえてしまったから。
ばたばたと玄関口で靴を脱ぎ、息を切らしながら少年が部屋へと入ってくる。その手には、無粋なコンビニのビニール袋が揺れていた。

「シンジ……」
「はぁっ……はぁっ……アスカ……」

その場で膝に手をついて、呼吸を整えるシンジ。
アスカは、自分でも気づかないうちに立ち上がっていた。荒い息に肩を揺らすシンジの黒い髪を、覚えず見つめる。

「はぁっ……アスカ、ひどいよ……」
「え?」
「誕生日だったなんて……教えて、くれなかったじゃないか」
「…………」

何と言ったらいいのか。
言葉が、出てこない。言いたいことは色々あるような気がするのだが、そのどれもが頭の中でうまくまとまらない。

「……どうして、それを?」

ようやく出てきたのは、そんな言葉だけだった。

「加持さんに会ってさ……聞いたんだ。もう時間が時間だったから、ケーキもコンビニのやつしか買えなかったけど」

――どうしてここに?
喉元まででかかったその言葉を、すんでのところで飲み込む。
シンジが、ここにいる。本来ならばいるはずのない場所に、息を切らして、全身汗まみれになって立っている。
その事実が、何よりも明確に語っているではないか。

「……あ」

シンジの声に、はっと我に返る。
彼が呆然とした表情で見ている先は、部屋の壁にかけられた時計。すでに長針は短針を通り過ぎ、日付が変わったことを示していた。

「……ごめん、アスカ。間に……あわなかったね」

どうして。
どうして、この少年は、そんなに心底すまなそうな顔をするのだろうか。
こんな可愛げのない女のために、そんなに息を切らして、大事な友達との約束まで反故にして。そこまでしておきながら、どうしてなお謝るのか。

「…………アスカ?」

そんな風にされたら――そんな顔で見つめられたら、一体どうすればいいのだろう。何を言えば、いいのだろう。

「アスカ……泣いてるの?」
「なっ――」

そんなことない、と言いたかった。
けれど、後から後から零れてくるそれは、いくら拭っても止まらない。

「ごめん、アスカ……その……」
「バ、バカっ! そんなんじゃ――そんなんじゃないわよっ! ただ、アンタがあんまりバカだから……それで、呆れて泣けてきただけよ!」

泣き顔を見せるのは癪だったから。だから、その額をシンジの胸に押しつける。
どこにも行かないように、強くワイシャツを握りしめて。ただ、その胸で泣いた。

「アスカ……」

少年は、何も言わなかった。
ただ、まるで壊れやすいものに触れるかのように彼女の肩を抱いて。
そして、一言だけ。
ずっと彼女の聞きたかった言葉を、そしてずっと彼の言いたかった言葉を。そっと、その耳に囁いた。


「……誕生日おめでとう、アスカ」