その日、一日がよく晴れ渡ったことを示す、きれいな夕日に照らされて、アタシとシンジは学校の屋上にいた。
「なによ、シンジっ! アタシをこんなところに呼び出してさぁ……アンタ、何様のつもり?」
心底迷惑そうに、アタシはため息をついた。
でもそれは、一人になったとき、絶対に後悔する意地っ張りなアタシ。放課後、いつもシンジと一緒に帰る口実を探しているのに、コイツからなにか言われると、すぐに反発してしまう。
「うん……ごめんね、アスカ」
いつもなら、悪態をつくアタシにシンジは苦笑を返してくれるのに、今日は……違っていた。
「でも、今日だけは……」
少しうつむいていたシンジが顔を上げた。
その瞬間、アタシの鼓動が跳ね上がる。
真剣な瞳。でも、普段の優しい雰囲気はそのまま。真一文字に引き結んだ口が決意の強さを現していた。
――シンジって……こんな表情も持ってるんだ……
夕日に引き延ばされた二つの影が向かい合う。
シンジの真剣さの中に垣間見える緊張した気配。
心臓はどきどきうるさくて、膝はカクカク震えている。もどかしさの中で、身体の後ろでもじもじと手を合わせるアタシ。今にもふわりと浮き上がってしまいそうな感覚に襲われた。
もしかして……もしかして、これって……!?
「アスカ……」
「な、なによ……」
虚勢をはっていつもの口調で答えようとしたけど、アタシの声は滑稽なくらい弱々しかった。妙に現実感のない自分の声が、どこか遠くの方から聞こえてくるみたい。
アタシは夕方の光に照らされていることに安堵した。これなら顔が真っ赤になってても判らないから。
――シンジ……早く次の言葉を言ってよ。アタシ、今なら素直になれる気がするから。
コイツはアタシの焦慮に気づきもしない。でも、一つ深呼吸してから、はっきりと言った。
「……好きです、アスカ。僕とつきあってください」
シンジの真摯な眼差し。勇気の言葉が、アタシの気持ちを――優しく、でも力強く解放してくれた。
「――はい」
自分でも信じられないくらい素直な言葉が、零れ出た。でも、言った後で恥ずかしくなってすぐにうつむいてしまう。
小さな返事だったから、シンジに聞こえてたか、わかんないよぉ!?
アタシは恐る恐る、前髪の間からシンジを覗き見た。
シンジはビックリしていて、それでホッとした顔になって、すぐに嬉しそうな表情をしてアタシに笑いかけた。
ホントに言えた。アタシ、自分でも信じられないくらい素直に言えたよぉ!
綿菓子みたいに、どんどん増える嬉しさに包まれながら、アタシは急に自分の格好が気になり始めた。
髪……おかしくないかな?
スカートのしわ、シンジからは見えないよね?
どうして、こんな日に体育あるのよぉ! 汗くさくなってるだろうし、下着は汚れてるし……って、やだぁ!
アタシが内心で動揺していると、シンジが感極まったように、突然抱きついてきた。
「ちょ、ちょっと、シンジ!?」
うわずった声のアタシに、シンジはちょっとだけ強引に顔を寄せてくる。
……え? ……え!? これって、もしかして……?
めちゃくちゃなフットワークで踊っている心臓が、内側からアタシの胸を殴りつける。シンジの腕の中で、アタシは身体を小さくした。
そりゃぁさ、キス、初めてじゃないよ。でもさ、今回がホントの初めてっていうかさ。この前の、鼻を摘んでしたのが初めてじゃあんまりだし、もっとロマンチックにっていうか……夕暮れ時なんて十分、ロマンチックだけど……やだ、汗くさくないよね? ……あぁん、もう!
アタシはシンジの息づかいを間近で感じながら、ぎゅっと目を瞑った。虚勢の壁もシンジの突然の行為にどんどん削り取られて、もう、太陽の前の薄氷よりも脆くなっていた。
シンジ……今回のキス、初めてにしていいよね? 夕日の中でなら、けっこうロマンチックだし、相手はアンタなんだから――
シンジがそうしやすいように、アタシは少しだけ顔を上げた。コイツの全部に絆されて、熱くなった心と身体に、アタシの虚勢は露と消えた。
――アタシ……シンジが好き! 大好き!!
切ないったらないわよ、もうっ!
「……っ!?」
アタシは、弾けるように目を覚ました。
慌てて起きあがって、ぐるりと見回す。シンジの腕の中でもなければ、夕暮れ時の屋上でもない。いつものアタシの部屋。
「えっと、えっと……今日もアイツと一緒に帰ってきて、そのあと……あれ?」
……なんだ、夢かぁ。
確か、帰ってきてからすぐに部屋に引き籠もったんだっけ。
もう一度部屋を眺めてみると、床には脱ぎ散らかした制服。くしゃくしゃの靴下とリボン。ぽつんと置かれたヘッドセット。自分の服装を見てみれば、着替えの途中でベットに倒れ込んで、そのまま寝ちゃったみたい。ブラウスのままだった。
アタシは全身を弛緩させて、もう一度ベットに倒れ込んだ。
寝起きの頭に血液が巡って、少しずつ意識がはっきりしていく。同時に、アタシの思考も回転を始めて、逃避するように眠ってしまった理由――今日、唐突に聞かされた、アタシにとっては辛すぎる事実を思い出させた。
「シンジ……」
アイツが、行っちゃうの……
アタシをおいて、アイツが――シンジが行っちゃうよぉ!
留学ですって?
そんなの酷いよ。こんなに突然言うなんて酷すぎるよっ! アタシに内緒で、一人で勝手に決めちゃうなんてぇ!
そりゃぁさ、今のアイツはさ、周りに流されてないし、なよなよしてないし、「いつのまにこんなに強くなったの!?」って感じだし、ときどきはっとするほどかっこよくみえるし……
昔っから……っていってもそんなに前じゃないけど……アイツ、たまにとんでもなく思い切ったことするヤツだったっけ。
でも、それだけじゃない。
卑屈さを過去に置き忘れてきたみたいにアイツは、今を、ホントに楽しそうに暮らしてる。
シンジって……すっごく変わったと思う。どこが変わったのか、はっきり言えないけど、とにかく毎日が楽しそう。愛想笑いなんてほとんどしない。
身長は伸びてるみたいだけど、さ。
それに、アタシだって楽しい。昔みたいに切羽詰まって、息苦しく生きてないからね。
……それ以上にアイツの存在が大きいって自覚したのは、いつだったかな?
ごく最近のことかも知れないし、もっと前だったかも知れない。
――もしかしたら、出会った瞬間!?
アイツと交わす他愛のない言葉。「おはよう」から始まって「おやすみ」で終わる毎日の習慣。
アイツが作ってくれる温かい食事。さりげなくアタシが嫌いなモノを食材に使うのに、アタシはいつの間にか食べられるようになっていた。
傍にいると噛みついちゃうけど、近くにいてくれないと物足りない。
いつの間にか……っていうのが一番しっくりくると思う。
溺れていたアタシが掴んだのは頼りない藁じゃなかったのかも知れない。
きっとそれは暗雲から差し込む一条の光。アタシをあたたかく包んでくれる、心地よい春の日差し。
アイツが差し伸べてくれた手を、邪険に振り払ったアタシなのに、アイツは――アイツは待っていてくれた。
血を流しながら手を差し出して、いつもの笑顔で――悲しいくらい奇麗な、アタシの大好きな笑顔で――
「やだよ……シンジ……」
アタシは愛用の枕をぎゅっと抱きしめた。
この部屋……ここ、無理矢理シンジから奪ったんだっけ。ちょっと前まで、「絶対入るな!」って、ドアにメッセージボード掛けてたけど、取っちゃったの……シンジ気づいてるかな?
チェロ弾いてるの、偶然聴いちゃってさ……アイツのこと、少し見直したのよね。
その日の夜……初めてキスして、アイツもきっと初めてで、アイツの鼻を抓んでやって……ホントに唇を合わせるだけで、ロマンも情緒も、女の子の夢の欠片もないキスだっけ。
照れ隠しのつもりだったんだけど……アタシが洗面所に行っちゃった後、アイツ、傷ついた顔してたんだろうなぁ。
……って、昔のことばっかり思い出して、これじゃ、ホントに離ればなれになっちゃうみたいじゃない!
アタシの気も知らないで、アイツは……シンジは……
そんなの絶対許さないっ!
憎たらしいくらい屈託なく笑みを浮かべるアイツの顔が、ふと脳裏をよぎる。
アタシはシンジにとって一番綺麗な花でいたい。
シンジという水源がなくなってしまったら、きっとアタシはあっというまに枯れてしまう。
シンジ――早くアタシを摘み取って?
アンタに気を止めてもらおうと、シンジだけに見てもらおうと、一生懸命咲いているんだから、アンタにはその義務があるんだから……
今でも、アタシがアンタと一緒に暮らしてるの……なんでだと思う?
仕事だからなんて……そんな理由じゃないよ。
アタシが日本にいる理由なんて、ホントはないんだよ? 一応まだエヴァの搭乗者だけどさ、いろいろ誘いはあったの……アンタ知らないでしょ? 大学の教授とか有名な研究機関とかね。
そこはアタシの能力をひけらかすには、もってこいの舞台。地位と名誉と名声のスポットライトが眩しく飛び交う、昔のアタシが望んだものが簡単に手に入る、最高の舞台。
でもね、今のアタシが夢見るのは、小さくてもいいから綺麗な白い家と、綺麗なお庭。そこに住んでいる少し大人になった二人。
柔らかな日差しが降り注ぐあたたかな季節。エプロン姿のアタシが、休日にテラスで日向ぼっこをしながら読書している貴方に言うの――
「シ〜ンジ! 今日はさ、天気いいからここでご飯食べない?」
「…………」
「シンジってば!」
「……んぁ? あ、ごめん、寝てたみたい……なに、アスカ?」
「んもぉ! 寝ぼけないでよ、ここでご飯食べようって言ったのっ!」
「そうだね。そうしようか、アスカ」
「うん!」
貴方のいつもの笑顔――アタシの大好きなシンジの微笑み。
アタシの中にあたたかいの風が駆け抜ける。貴方にも同じ気持ちを分けてあげたくて、アタシも精一杯、微笑むの。
『アタシ……とってもしあわせだよ』
今のアタシにはできないかも知れないけど、でも……それでも、シンジと一緒にいれば、きっといつかできるようになる。
なのに――
「やだよぉ……シンジぃ……」
自分でも情けないくらい弱々しい声。
どうしてアンタはそんなに平然としてられるの?
今でもアタシと一緒に暮らしてるのはどうして?
アタシと離ればなれになっちゃうの……なんとも思わないの?
なんとも思ってないんだったら……どうしてあんなに優しいのよ?
アタシが女の子だから? ただそれだけで優しくしてくれるの、シンジは? そんなの残酷だよっ!
今だって平気な顔して、夕食の準備でもしてるんでしょ!?
「はぁ……」
アタシは重たくため息をついた。
いつからアタシは――惣流アスカラングレーはこんなに弱くなってしまったの?
ちょっと前までのアタシだったら、うじうじ悩むなんてことはしないで、自分の気持ちをぶつけられたのに……
なのにどうして?
「そんなの……」
決まってる!
それはアタシにとって、シンジが絶対に必要だから。
でもシンジにとってはアタシが必要なのか、わからない。
もしも……もしも、シンジに拒絶されてしまったら――
「やだぁ……」
急激な冬の風に肌が粟立ち、アタシの身体を震わせた。少しずつアタシの心に雪が積もっていく。
アタシは膝を抱えて丸くなった。静かな部屋にベットのきしむ音が響く。
――寒いよ、シンジ……
思ってはみても、アタシの傍にシンジはいない。冬に降りた雪を溶かせるのは、暖かな日差しだけなのに。
アタシ達の間には分厚く硬い氷の壁がそびえ立っていた。シンジの笑顔だけは見ることのできる、透明な氷壁。
「ひっく……」
その冷たさに耐えきれず、小さく嗚咽が漏れてしまった。
それは、凍てつく夜の路地裏で親猫のいなくなってしまった子猫の鳴き声。
「行っちゃやだよ、シンジ……」
アタシ、捨てられた子猫にはなりたくないよ。
「う、ひっく……シンジ、シンジぃ……」
涙まで出てきた。無理矢理、泣くのをやめようとして、ぎゅって目を瞑ったけど……全然、ダメ。
瞼の端から涙が溢れて、頬を伝う。その痕が乾く間もなく、次の雫が流れる。枕で顔を隠したけど、ほっぺたの代わりに、枕の表面を濡らすだけだった。
ううぅ、辛いよぉ……
こんな宙ぶらりんなの、きつすぎだよぉ。
「シンジのバカ! ……バカ、バカっ、バカぁ!!」
「アスカ?」
「うひゃぁ!」
……え? え!? なに、シンジなの?
「どうしたの、アスカ? なんか叫んでたみたいだけど……」
「な、なんでもないわよっ!」
アタシは、いつもみたいにシンジを突き放した。反射的な自分の対応に、また、チクリと胸が痛んだ。
悲しいけど、これがきっと、自覚できる意地っ張りなアタシとシンジの関係なんだよね。
「……なんか用?」
枕で涙を拭って、呼吸を整える。アタシは泣いていたことをシンジに悟られないようにしながら応えた。
「うん。夕ご飯できたから、呼びに来たんだけど……」
何か自分の中で熱い固まりが膨れあがるのを感じた。アタシが……アタシがこれだけ悩んでるのに、コイツは普段通り、なんにも変わんないんだ。
このバカ野郎は、全然平気なんだ――アタシと別れちゃうことが。
「……いらない」
アタシは素っ気なく言った。裡に噴き上がった熱い固まりが急速に冷えて重くのしかかる。
「え!? どうかしのた? 身体の具合、悪いの?」
「うるさいっ! アンタには関係ないっ。さっさとむこう行ってよっ!!」
気遣わしげな言葉をかけてくるシンジへ、アタシは悲鳴寸前の声で叫んだ。
そんな……同居人としてだけの心配なんて、アタシはいらない。今のアタシが欲しいのは――
「そんな……どうしたんだよ、アスカ? なんかおかしいよ?」
「うるさいって言ってんでしょっ! いいからほっといてよっ!」
――でないと、よけいにつらくなっちゃうじゃない……
アタシは内心の辛さを押し隠して、ドアの向こうのシンジへ棘だらけの言葉をぶつけた。
それっきり部屋の外も中も静まりかえる。
……シンジ、行っちゃったの?
アタシは耳をそばだてた。涙で霞む視界をこらして、ドアの向こうにいるはずのシンジを伺う。
シンジに傍に来て欲しいのに、来て欲しくない。矛盾した気持ちがアタシを混乱させる。
アタシは我知らず、立ち上がった。心細さが態度に出てしまったのか、枕を抱えたまま、足音をさせないようにドアの前まで歩く。
そのドアに、そっと手を添えた。
冷たい感触。
薄っぺらな板なのに、今のアタシとシンジを隔てる強固な壁。
このドアを開けて、シンジの胸に飛び込めるくらい、アタシが素直になれたらいいのに――
「いかないで、シンジ……」
ううん……今のアタシならきっとできる。
でも、もしも、シンジに拒絶されてしまったら――
結局同じ場所にたどり着き、アタシは同じ迷路を同じ道でグルグル回るだけだった。
「アスカ、開けるよ」
あ……シンジ、まだそこにいてくれたんだ。
でもアタシは反射的に、開きかけたドアを閉めてしまう。
「ダメぇ!」
「そこにいるの、アスカ?」
かすかに驚きの混じったシンジの声。アタシの言葉に素直に従ったのか、ドアから伝わる力が消えた。それでもアタシは、ドアの引き手を力一杯押さえていた。
「シンジ、お願い……入ってこないで」
ホントは無理矢理にでも入ってきて欲しい。でも、単なる同居人の慰めなんてアタシには辛いだけ。
「……アスカ、それじゃぁ、そのまま聞いてよ」
シンジの固い声が、アタシの全身に響いた。
少しでもシンジを傍に感じたくて、アタシは無意識のうちに、薄っぺらなくせに冷たく固いドアに頬を当てる。
アタシの無言を肯定と受け取ったのか、シンジはうわずった声で一生懸命話し出した。
「あ、あのさ……今日はアスカの好きなモノばっかり作ったんだ、夕ご飯……」
シンジの緊張した気配が伝わってくる。
アタシは既視感に襲われた。ごく最近? ……ううん、そうじゃない! さっきの夢!?
「えっと、その……違う! 僕が言いたいのは、そんなことじゃなくて……」
――シ……ンジ?
急に早まりだした鼓動に、アタシはぎゅっと枕を抱きしめる。
「僕……さ。もうすぐ、留学するんだ……って、これはもう話したけど……」
シンジ、お願い、続き、早く聞かせて?
「それで、その……その前に、アスカに言っときたいことがあるんだ」
あぁん! もうダメぇ、口から心臓、飛び出しそう。
「アスカ……僕、僕は……」
震えるシンジの声に、アタシの心も震えた。ドアの向こうでシンジが、深呼吸したのが判る。
「ぼ、ぼぼ、僕は……」
情けなくどもっているシンジ。そんなカッコ悪いコイツの、言葉の一つ一つにアタシは息を飲んだ。
アタシの夢の中のコイツとは全然違う。
でも、それでもコイツは、ホントに情けなくだけど……アタシが待ち望んでいた、ずっと言って欲しかった、夢にまで見た言葉を――
「僕は、好きだ! ア、アスカのことがっ!」
言ってくれた……
アタシは、踊り出す気持ちをそのままぶつけるみたいに、枕を放り投げて勢い良くドアを開ける。
予想通りそこには、ちょっとだけ驚いている真っ赤な顔のシンジがいた。
「も、もう一回言いなさいよっ!」
「うわ! なんてカッコしてるんだよ、アスカ!?」
「そんなのいいの! お願い……シンジ、もう一回……もう一回だけアタシに聞かせて、今の言葉?」
「……うん」
あはは、シンジってば緊張しまくってガチガチになってる!
ほらぁ! もっとスマートにカッコ良く言ってよぉ。
だいたいなに? その格好……エプロンにおたま!?
シンジ、相変わらず要領悪すぎ! せめてこんな時くらいさぁ、バシッとキメなさいよっ!
「アスカ……」
でも――
「僕は……」
アタシは――
「アスカのことが好きだ!」
そんなシンジが好き!
真っ赤な顔で、思いっきり恥ずかしそうだったけど、シンジはアタシの目を真っ直ぐ見つめて、はっきりと告げた。
シンジの二度目の告白。夢の中の告白とは、似ても似つかない。場所はアタシの部屋の前だし、シンジは相変わらず優柔不断。
それこそ天と地ほども違うけど、でも、アタシにはその方がシンジらしいって思えた。
そして、次の瞬間、アタシは大好きなシンジに飛びついた。
慌てておたまを放りだして、受け止めてくれるシンジ。
「ア、アスカ!?」
慌てた声を聞きながら、アタシは大して厚くもないコイツの胸板にほっぺたを押し当てた。
よしよし! どきどきしてるわね。
あれだけアタシを不安にさせたんだから、ちょっとくらい困らせてやらないと、アタシの気が済まない。
「えっと、その……」
シンジはしどろもどろになって、遠慮しながらアタシの背中に腕を回した。
ちょっと前の……ううん、数分前のアタシがシンジにこんなことされたら、怒り半分恥ずかしさ半分で、コイツをひっぱたいていたと思う。
でも、今のアタシにそんなことする理由なんて、まったくなかった。
背中から伝わるシンジの手の平のあたたかさを心地よく感じながら、
――あ、今日の夕ご飯、ハンバーグと唐揚げと……ホントにアタシの好きな物ばっかりなんだ……
と、シンジのエプロンからのにおいでそんなことを考えていた。
「あ、あの、アスカ……」
「ん……なに、シンジ?」
「まだ、返事、聞いてないんだけど……」
そんなの決まってんじゃん! アタシがアンタに抱きついたの、なんでだと思ってんのよ?
そう言ってやろうと、アタシは口を開きかけたけど、でもその瞬間、シンジにアタシの返事を伝えるのに、もってこいのアイディアがひらめいた。
内心でほくそ笑みつつ、アタシは別のことを言ってやった。
「……アンタ、なに見てんのよ」
シンジの胸に顔を寄せたまま、ちょっとだけ厳しく糾弾する。
アタシの今の格好……はっきり言って恥ずかしすぎ!
……ホントは、シンジなら全部見せてやってもいいんだけどね。
「え! あ? そんなぁ、だってアスカが……」
「うるさい! アンタが見なければいいんでしょ? 謝る前にさっさと目、つぶんなさいよっ!」
「あ、そうか」
微妙に混乱しているシンジは、なんの疑いも持たないで、素直に目を閉じた。
アタシは悟られないように、声を抑えて小さく笑う。
う〜、我ながら恥ずかしいかも!? でも、シンジを不安にさせたままなんて、絶対いやだし、それにここで優位に立っておけばっ!
シンジぃ、ぜ〜ったい! 離さないんだからねっ!!
アタシはシンジの首へ素早く腕を回した。
いつの間にか、出会ったときよりもずっと大きくなってるんだ、シンジは。
微妙に悔しさなんか感じつつ、アタシはちょっとつま先立ちになって、思いっきりシンジを引き寄せた。
「ア、アスカ……んぅ!?」
よし! これがホントの初めてってことにしよう。相手はアンタなんだし……いいよね、シンジ?
目を瞑って、そんなことを思っていると、コイツってば、アタシのウェスト、抱きしめてきた。
あ、生意気!
シンジのくせに、アタシが自分のモノだってのを態度で示すみたい。
……へへ、ちょっと嬉しいかも?
シンジに優しく包まれているアタシ。かさついた唇を、自分の唇で感じながら、少しずつ、少しずつ、アタシの思考に甘く切ない霞がかかっていく。
そして、いっそう深くアタシとシンジは情熱的な口づけを交わす。
え? わっ、わわっ! ちょ、ちょっとぉ!?
「シ、シンジ!?」
一度、シンジが唇を離した。
自分でもわかる。アタシ、きっと真っ赤な顔して、目なんかウルウルさせちゃってるよぉ。
「好き、好き! アスカ、大好き!!」
シンジが感極まったように、アタシの肩を抱きしめる。
ちょっと痛いけど、その痛みだって、今のアタシには心地いい。
シンジって……こんなに思い切った一面もあったんだぁ、とアタシは心の片隅で感心した。
力任せの抱擁。アタシを見つめる嬉しいような泣きそうなような黒い瞳。コイツの全部に絆されて、熱くなった心と身体。
「アタシも好き……シンジが好き! 死ぬほど好き!!」
現実と夢が交錯した瞬間。
アタシもシンジも惹かれあいながらゆっくりと目を閉じる。
そしてアタシ達は、本日二度目の――通算三度目のキスをした。
拝啓
日本に四季が戻ってきて始めての冬。そちらは寒いと思いますけど、健やかにお過ごしでしょうか。
今となっては、あの暑い日々が懐かしく思えます。
なんて、あらたまっちゃったけど、アスカ、元気にしてますか?
もちろん僕は元気です。
って言っても、まだこっちに引っ越してから一週間しか経ってないんだけどね。
入学式も終わって、ようやく一息つけました。
一人暮らしって、けっこう静かなんだね。知らなかったよ。
学校がにぎやかだから、よけいにそう感じるのかも知れないけど、授業が終わって部屋に帰ってきて……なんていうのかな? とにかくなんかすっごく静かなんだ。
これってやっぱり寂しいのかな?
……ダメだね、これじゃ。まだこっちに引っ越したばっかりなのに。
初めてだからしょうがないのかも知れないけど、正直に言うとね、アスカの顔が見られないと寂しいよ。
早く慣れないといけないよね。あと2年、こっちで生活しないといけないんだから。
だから、アスカ、2年だけ、待っていてください。
あの時の言葉は嘘じゃないから。
アスカとした約束。指切り、絶対守るから。
ちょっとしんみりしちゃった。
こんな話題ばっかりじゃ、アスカを不安にさせちゃうかも知れないから、近況を報告します。
近所にすごく新鮮な食材が手に入るお店を見つけました。でも、一人分の食事作るのってやりがいがないから、ついつい総菜に頼っちゃったりします。
あ、でもこっちで新しい料理覚えたよ。長期休暇のときはアスカに食べさせてあげるね!
授業もなんとか理解できます。
友達もできました。
ちょっと驚いたけど、みんな搭乗者候補生なんだ。さすがネルフのいきのかかった学校だね。
だから、みんなアスカのことも知ってたよ。やっぱりすごいんだね、アスカは! こっちでも有名人なんだもん。
ちょっと焼き餅かな? でも、そのおかげで友達ができるきっかけになったんだよね。アスカは僕のそばにいなくても、僕のこと助けてくれるんだね。
ありがとう、アスカ!
それじゃ、今回の手紙はこれくらいで。
あ、この手紙とは他に、アスカに言われたとおりメールは毎日出します。ふと思ったんだけど、これって交換日記みたいだね?
最後に、僕の今の気持ち!
アスカの声が聞きたい。アスカに触れたい。アスカを思いっきり抱きしめて、キス――したいな。
というわけで、アスカから貰った写真を抱きしめて、枕を濡らすことにします。
……なんてね!
敬具
大好きなアスカへ碇シンジ
「な、なな、なんて手紙、書いてんのよっ!」
顔が熱い。自分でも真っ赤になってるのがわかる。
「くぅ! いつの間に、こんな生意気なことを……」
シンジがこんなことできるようになるなんてぇ! 十年早いっ!
アタシは読み終わった手紙を皺にならないように注意しながら水色の封筒の中に戻して、どんなこと考えながらこの手紙を書いたんだろう、とアタシは、それなりに流ちょうな筆記体で書かれた宛名をなんとなく眺めた。
う〜、やっぱり生意気!
顔の熱を自覚しながら、部屋の中にはアタシ以外誰もいないけど、不自然なくらい澄まし顔を作って、アタシはその手紙を大事そうに肩から下げたバッグのポケットにしまった。
そのバッグを置いて、部屋をぐるりと見回してみる。
殺風景な感じがした。寒々しい室内の空気に、息が詰まる。
「シンジ……アタシも寂しいよ」
アタシもシンジに逢いたい。
いつもシンジに傍にいてもらって、お話しして……そのままいい雰囲気になって、抱きしめられて、この前みたいに……キス……して欲しい。
シンジ、どうしてアタシをおいて行っちゃったの?
せっかくシンジに「好き」って言ってもらえたのに、2年間も離ればなれなんて、イヤだよ。
それに……アタシ、まだシンジになにもしてあげない。
デートだってしてない。
せっかくシンジの傍まで来れたんだから、今までの分まで、アタシ、シンジにいろいろしてあげたいよ。
だから……だから――
「来ちゃったよ、アタシっ!」
どきどきしながら新しいシンジの部屋に入って、一番最初にアタシの目にとまったのは、テーブルに置かれた、アタシの名前の書かれた手紙だった。
シンジ……やっぱり、アタシここにきてよかったんだね!
ホントはちょっとだけ不安だったけど……よかったよぉ、シンジぃ!
アタシは嬉しくなって、あらためて部屋の中を見回してみた。
小綺麗にしてるけど、隅っこにはまだ捨ててない段ボール。キッチンだってまだ全然使った形跡がない。日本から持ってきた愛用のエプロンだけが使い込まれていて、妙に浮いていた。
そして、背後には着替えを詰め込んであるアタシが持ってきた大きめの旅行鞄。
このアタシがさ、2年も我慢できるわけないじゃない?
即断即決よ!
すぐに実行しちゃうんだからぁ!!
シンジのためにおしゃれして、ショッピングしたり、遊園地行ったり……ちょっと高級なレストランでディナーして、その後に夜景の綺麗なホテルで……じゃなくてっ!
と、とにかく! アタシとシンジは……こ、恋人同士になったんだから……ぜったい、ぜったい離さないんだからっ!
日本でできなかったこと、全部こっちでやっちゃうもんっ!
「シンジ……ずっと一緒だよ……」
アタシのぽつりとしたつぶやきが部屋の中に流れる。アタシはフローリングの床にぺたりと座り込んで、シンジが使っていると思うクッションを抱きしめた。
だいたい勝手すぎる!
アタシのこと好きだ……って言ったくせに留学なんてしてさ……シンジ、勝手すぎるよ!
そりゃさ、シンジには、指切り……してもらったよ? でも、それでも不安に決まってるじゃない?
だからアタシだって自分勝手にするもん!
ネルフに2年間暇をもらって、ちょっとだけ裏に手を回してもらったけど、こっちに来ちゃったもん!
「シンジ、ちょっとだけ早くなっちゃうけど、約束……守ってもらうわよ」
白い家でもないし、お庭もないけど……ね!
これからのシンジとの生活に思いを馳せて、アタシは思わず口元がゆるんでしまった。
えへへ……きっとビックリするわね。今日帰ってきたら、いきなりアタシがいるんだもん。しかもそれだけじゃないわよ。明日、学校行ったらもっとビックリさせてやるんだからっ!
特別講師――なんて良い響きなのかしらぁ。大学卒業しといて、ホントよかったわ。
シンジ、新しく覚えた料理、さっそく食べさせてもらうわよ!
「それにしても……」
さすがネルフの超VIPの部屋って感じね。
まず広い! テレビ、大きい! キッチンも使いやすそうだし、さらに誰が気を遣ったのかわかんないけど、部屋の中がやや日本風。
ちょっと生活感が足りなくて、部屋に冷たい雰囲気があるけど、そんなのこれから消していけばいいよね。
「さて……」
今からなにしよ?
そろそろシンジが帰ってきてもよさそうな時間なんだけど……
あ、忘れてた。もちろんアタシはここにシンジと一緒に暮らすつもりなんだけど……アタシの部屋はどこにしようかな? 3LDKなんて学生が住むにしては贅沢すぎるわよねぇ。
……シンジと一緒に狭いアパートで……ってのもアタシとしては捨てがたかったんだけどぉ!
ま、一つはシンジ部屋で、もう一つはアタシの部屋。残りは二人の寝室で決まりよね。
「……あれ?」
――アタシ、今、なに考えたっけ?
……寝室?
「そっか……」
アタシは一つ大きく深呼吸をした。
うん。わかってる……と思う。当然の成り行きだよね。一つ屋根の下で暮らすんだし……
覚悟はできてる。
いつかは通らなきゃならないことだし……それが遅いか早いかの違いよね。
シンジはアタシのこと好きって言ってくれたし、もちろんアタシだってシンジのこと、す、好きだし……高校入ったばっかりでちょっと早すぎる気もするけど……
アタシの初めて……全部アンタにあげるわ、シンジ!
うわ〜、どきどきしてきた!
ど、どうしよう!? こーゆーときってどうすればいいんだっけ?
「えっと、えっと……?」
自分の置かれてた状況に、慌ててアタシは頭の中の引き出しを引っかき回すけど、どこにも見つかんないよ〜。
「いやぁん、どうすればいいの?」
早くしないとシンジが帰ってきちゃうよぉ!
「そ、そだ! ヒカリに……」
フケツよ〜! とか言われそうだけど、迷ってる暇なんてない。それに「アタシとシンジは将来を誓い合った仲なの」とかなんとか言えば、きっと説得できる、たぶん……
アタシは慌てて、近くにあった電話を掴んで、ヒカリの家の番号を押した。
「はやく、はやく! ……どうして繋がんないのよっ!」
……って、しまったぁ! ここは日本じゃなかったわっ!
「えっと、国際電話はぁ……? こくさいでんわぁぁぁ!」
もう一度番号を押し直して、今度こそ――
「ただいま〜……って誰もいないかぁ。……あれ? この靴……?」
って、思ってたのにぃ!
シンジが帰ってきちゃったよぉ。
でも、覚悟だけはできてるから……あとはシンジにまかせちゃうってのも悪くない……かな?
あ、一つだけ思い出した。
たしか、正座して両手の指を三本ずつ膝の前について……えっとぉ?
あぁん、もう!
シンジがすぐそこまできちゃってるよぉ!
アタシはとりあえず、ドアに向かって正座をして三つ指をついた。
ゆっくりとドアが開いて、警戒しながら部屋に入ってくるシンジ。
「ア、アスカ!?」
アタシはぺこりと頭を下げた。
「ふ、ふふ、不束者ですけど、よろしく……おお、お願いします!」
おしまい