深すぎる闇の底で


 

 

 

何となく嫌な予感はしていたのだ。
いつの間にか分岐路がなくなっていつまでも単調な通路が続いていたことも、両脇の石壁に何かがこすれたような後があったことも、通路が微妙に傾斜していることも、もっとも注意しなくてはならないものは何なのかということも、彼女は全て分かっていた。
彼女は分かっていたのだ。そう、彼女は分かっていた。
だから、彼女は注意していた。壁に怪しい凹凸はないか。地面にどこか様子の違うところはないか。
注意していたから、見つけることができた。わずかに変色した地面の四角い部分を。埃に隠されたそのまわりの継ぎ目を。
しかし、次の瞬間、彼女の者でない足がそれを踏んでいた。変色した四角は足にかけられた体重によって、まわりの地面よりも拳一つ分ほど沈んだ。
そして、通路の向こうで、何かが外れるような音がした。次いで、遠雷のようなかすかな音。遠雷はやがて迅雷へと変わり、その音の主は巨大な姿を現していた。
――そのときは既に、彼女は逆方向へと全力疾走していたが。

「信っっっじらんない! どうしてあんな見え見えの罠に引っかかるわけ!?」
「そ、そんなこと言われても……」

罠発動のスイッチを踏んだ張本人である気の弱そうな少年へと怒鳴り散らしてみるが、それで背後から転がってくる大岩が止まってくれるわけでもない。それだけのエネルギーがあるのなら足にまわした方がいいとは理解している。理解しているが、怒鳴らずにはいられない。
全力で走りながらも、ふつふつと怒りがこみ上げてくる。もう一度怒鳴ろうとしたが、それをぐっとこらえた。大岩との距離は徐々に詰まってきている。このままでは分岐路につく前に潰されてしまう可能性が高い。
走る速さは緩めずに、口の中で呪文を唱え始めた。当然だが、ものすごく苦しい。基礎体力の訓練は怠っていないとはいえ、既に大分息も上がっている。
――ええい、苦しくない! 息ぐらいできなくても死なない!
無茶苦茶な論理で自分自身を押さえ込んで、何とか呪文を完成させた。
振り向くと、既に大岩はすぐそこまで肉薄している。全力で回転させていた足を止めると、大岩へと向き直り、両手を突き出した。その両手が転がってくる大岩に触れる直前、呪文を発動させる。
視界が白く染まり、体の全面に爆風と衝撃を感じた。一瞬重力から解放され、再びそれに捕らわれて地面へと墜落する。なぜか痛みはそれほどなかった。
閉じていた目を開けると、そこには黒こげになった通路、そして粉々に砕けた大岩の欠片が無数に転がっていた。

「ふう……何とか助かったわね。<火球>の爆発に指向性を持たせるなんて授業が役に立つとは思わなかったわ……」

やや呆然とした表情で呟く。命が助かると、こんな危険な――一歩間違えば死につながるようなトラップを設置した学院側への怒りが湧いてくる。しかし、その怒りをぶつけるべき相手は今は近くにいない。とりあえず手頃なところで済ませようと辺りを見回す。しかし、彼女の求める少年の姿は見つからなかった。

「あれ? 死んじゃったのかしら、あいつ」

まあそれならそれでいいか、などと思いながら軽く呟くと、不意に腰の下で何かが動いた。
そういえば、なんだか先ほどからうめき声が聞こえていたような気もする。何となく石の天井を見上げ、そこに規則正しく並べられた石煉瓦しか見えないのを確認すると、それから下へと視線を向けた。

「……重いよー。苦しいよー。どいてほしいよー」
「……何やってんの? そんなとこで」

クッション代わりにしている者に対して何やってんのもないような気もしたが、とりあえず彼女は聞いてみた。
爆風で跳ばされた際に下敷きにしてしまったらしい。立ち上がると、なぜかより爆心地に近かったはずの彼女よりもぼろぼろになっている少年も、よろよろと立ち上がった。

「痛てて……随分と荒っぽいことするなぁ」

その声には、多分に非難の調子も含まれていた。だが、彼女に言わせればそもそもあんな罠を発動させたのはこの少年なのだ。自分が非難されるいわれはない。それをこの少年に思い知らせてやろうと思い、とりあえず蹴り飛ばした。
中腰になって服の汚れを払っていた少年は、なすすべもなく顔面から地面と仲良くなった。起こしかけた頭を上から踏みつけ、ぐりぐりと踏みにじりながら言い聞かせる。

「い・い? そもそもあんたが、あんな子供だましのトラップに引っかかるからいけないのよ。このあたしに余分な精神力使わせて! おまけに命まで助けてもらって、何よその言いぐさは! 感謝するのならともかく、あんたみたいなのがこのあたしに文句を言おうなんて500兆億万年早いのよ! 分かった!?」
「そ、そんな数字はなへぶぅっ!」

反論しかけた少年の頭に、さらに体重をかけてやる。少年の顔面と地面との距離はゼロ以下になろうとしていた。

「わ・か・っ・た!?」
「わがりまじだぁぁぁぁぁぁぁ」

しくしくと泣きながら少年が言うと、ようやく彼女は満足したように足を離した。

「まったく……いっつもこうなのよね。どうしてあたしってこんなにくじ運が悪いのかしら……」

地面にはいつくばった少年はまだ復活してきてはいなかったが、そんなことは微塵も気にせずに彼女は先を急いだ。

 

 

●○●○●

 

 

魔法学院という場所がある。大陸中から魔法を志す者が集まる場所である。入学すること自体はそれほど難しくはない。基礎的な筆記試験と実技試験のみである。筆記試験は受験勉強の必要なほどのものでもないし、実技試験に至っては、落ちるぐらいなら何年修行しようと魔法使いになるのは無理だという位のレベルである。
そのため入るだけならば、誰でもできるともいえる。だが、卒業するのは容易ではない。その証拠として、毎年ほぼ同数の生徒が出ていき、そして入ってくるが、出ていく生徒の中で卒業という形で学院を去ることのできるのは毎年約一割である。学院に留年という制度はないため、規定通り5年の課程を済ませた者は、卒業の是非に関わらず学院を去らなくてはならない。もう一度入学して再び卒業を目指すかどうかは本人のやる気次第である。
その学院で、今年も卒業試験の季節がやってきた。その内容は毎年変わらない。
つまり、『二人一組となって試練の迷宮へと入り、その最深部にある証を取って戻ってこなければならない』という、シンプルといえばシンプルなものである。
その学院の地下に作られた巨大な試練の迷宮に、今アスカはいるのだった。
その隣で今まで通ってきた道をわざわざマッピングしているのは、くじで決められた彼女と同期のパートナー、シンジである。
同期とはいってもアスカたちの年だけでも数千人という生徒数である。一度も顔を合わせたこともないような生徒も多数いる。知っている者の方が少ないぐらいである。同じ学年でも、入学当時の年齢に差があるため、見た目ではどの学年なのかということも全く分からない。事実、アスカもこの試練の迷宮の入り口で顔を合わせるまでは、まさかシンジが自分と同期だとは思わなかったのだ。
九歳で学院に入学し、それからも常にトップの成績を取り続けてきたアスカである。同い年の少年が相手だと知って、自分の実力を見せつけてやろうかという子供じみた顕示欲もあった。しかし、実際に共に行動してみて、そんな思いは微塵にうち砕かれた。
――見せつける必要もないほどに下手だったのだ。
初歩の魔法すらろくに扱えないシンジにさんざん足を引っ張られながらも、なんとか地下12階まで降りてきた。たしか証は地下15階にあるはずである。

「もう少しだね」
「そうね。これでやっとあんたとも縁が切れるかと思うとせいせいするわ」

アスカとしてはかなり本気で言ったのだが、シンジは少し苦笑しただけだった。ただの冗談だとでも思っているのかも知れない。
迷宮は主に、いくつかの部屋とそれを結ぶ通路で構成されているようだった。壁と天井は石だが、床だけは土になっている。おそらくは外から運び込まれたものだろう土の感触を足の裏に感じながら、アスカは軽く歩いていた。
大岩のトラップで死にかけて以来、特にこれといった罠もなく、行く手を阻む魔法生物も出てこない。適度な緊張感は保ちつつも、やはり多少気は緩む。そうなると、無駄口を叩きたくもなった。

「それにしたって、なんであんたみたいなのと同じ組になっちゃったのかしら……あたし一人だったらこんぐらい、簡単にクリアできたのに……」
「ごめん……あ、でもさ。その……僕は嬉しかったよ。アスカさんと同じ組になれてさ」
「へ?」
「ほら、アスカさんって僕と同い年なのに、いっつも成績はトップで、学院始まって以来の天才だなんて言われて、さ……すごく憧れてたから」
「……あんたに憧れられてもあんま嬉しくないわねー」
「うん……そりゃそうだね。ははは……」

シンジの力無い笑い声に、傷つけてしまったかと少しばつの悪い心持ちになる。だが、そんな思いもすぐに消えた。シンジがどう思おうと、そんなことはアスカの知ったことではない。

「だいたいあんたは、自分に自信が無さすぎんのよ。今まで5年間もここで勉強してきたんだから、もっと堂々と魔法使えばいいのに」
「うん……先生にもそう言われたんだけど……練習の時は使えるのに、本番になると、いっつも頭の中が真っ白になっちゃって、呪文も唱えられなくなって……」

アスカは嘆息した。

「情けないわねー。あんたも男だったら……ん? シンジ?」

人差し指を立てて説教を始めようとした瞬間、シンジの姿がかき消えていた。思わず辺りを見回すが、どこにもシンジはおろか生き物の気配すらない。

「シンジ……?」

小さな声で名前を呼びながらも、アスカはやや身を沈めて臨戦態勢をとった。頭の中で無数の呪文が思い浮かぶ。状況に合わせて最も的確な呪文を選べるように集中しながら、彼女は慎重に気配を探った。
背後でかすかな音がする。そちらに向き直ろうとした時、本能的に危険を察知し、アスカは倒れ込むように身をかわした。その頬をかすかな衝撃がかする。

(矢……!?)

それは音がした方とは反対から飛んできた。アスカは地面に伏せたまま、矢の飛んできた方へと狙いを定めて呪文を唱えた。

「万物の根元たるマナよ……」

ほとんど時間もかけずに<光撃>の呪文が完成する。彼女の手から放たれた光の矢は、真っ直ぐに闇へと吸い込まれていった。光の矢が目標に命中し、炸裂した瞬間、膨れ上がった光に目標の姿が映し出された。

(シンジ……!?)

闇の中、一瞬だが浮かび上がったその姿は確かにシンジだった。

(どういうこと……?)

考える暇もなく、体勢を立て直したのか二発目の矢が飛んでくる。アスカは手の中に光球を作り出すと、矢をよけながらそれであたりを照らした。弓と矢をその手に持ったシンジの姿が、光の中にさらされる。
自分の姿が見えていることなど気にした様子もなく、シンジは次の矢を弓につがえていた。濁った瞳からはいかなる感情の色も読みとれない。どうやら、何者かに操られているようである。
次々と飛んでくる矢を軽い身のこなしでかわしながら、アスカはこの状況の打開案を考えていた。シンジの体を可能な限り傷つけずに、戦闘能力を奪う方法。
それを必至に考えていると、唐突に胸中に怒りがこみ上げてきた。
冷静に考えてみれば、捕まったのも操られたのもシンジ自身の責任である。なにも彼女が尻拭いをしてやることはない。しかも、シンジにはこの迷宮に入ってからというもの迷惑のかけられ通しである。

「そうよ……別に手加減してやる必要はないわよね。そっちがその気なら、思い切りぶっ飛ばしてやるわ!」

アスカは再び呪文を唱えだした。先ほどの<光撃>よりもレベルも高く、威力もはるかに高い魔法である。

「万能なるマナよ、破壊の炎となれ! ヴァナ・フレイム・ヴェ・イグロルス!」

彼女の声に応えるように、赤く燃える炎が彼女の目の前に球体となって収束した。死なないぐらいには威力をセーブしてあるため、普段よりもかなり小さめの火球である。それでも、破壊の魔法であることに変わりはない。
シンジが次の光撃のために矢を弓につがえた瞬間、アスカは火球を解放した。炎は真っ直ぐにシンジの足下に炸裂し、爆風と熱をまき散らす。埃が舞い上がり、アスカの視界を塞いだ。もうもうと立ちこめるそれが収まるのを待ってから、アスカはぼろぼろになって倒れているはずのシンジを回収するために足を前に進めた。
だが、シンジの立っていたあたりに行っても何も見当たらない。まさかあの攻撃をかわせたとも思えない。確かに手応えはあった。それにもかかわらず、そこに転がっているはずのシンジの姿がない。

「……どういうこと……?」

口元に指を当てて独りごちる。何かシンジのものでも残っていないかとあたりを探るが、何も出てきはしない。
眉間にしわを寄せて考え込んだ彼女は、やがて一つの結論に達した。

「幻覚、か……ずいぶんと手の込んだことしてくれるじゃない」

振り向いてみれば、先ほどまでシンジが乱射していたはずの矢も一本も残ってはいない。何らかの方法でシンジとアスカを引き離し、作り出したシンジの幻影にアスカを襲わせたのだ。そうなると、シンジの方も幻影のアスカに襲われている可能性が高い。
幻影といっても馬鹿にはできない。アスカに気配を感じさせるほどの高度な幻覚ともなれば、攻撃されたと思いこませるだけでも相手を死に至らしめる場合もある。そこまでいかなくても、斬りつける剣と流れ出る血の幻覚でも見せてやれば、それが幻覚だと気づかない限り大概の人間は自分が死んだと思いこみ、戦闘不能に陥るだろう。

「さて、と……」

アスカは服の埃を払い、あごに細い指先を添えた。
こうなったら、とりあえずはシンジを探さなくてはならない。別に見捨ててもいいのだが、試験前に『二人一緒に帰ってこないと卒業を認めない』と念を押されているのだ。また5年間もここで授業を受ける気にはなれなかったし、何よりも卒業試験に落第するなどという屈辱は何があっても避けなければならなかった。

「ほんっとにあの馬鹿は! 迷惑ばっかりかけるんだから!」

毒づきながら壁を蹴飛ばしたとき、どこからか視線を感じた。
慌てて辺りを見回すが、そこには何者の気配もない。視線を感じたと思ったのも一瞬のことで、あるいは単なる錯覚だったのかも知れない。
しかし、その錯覚のせいで、彼女は気づいてしまった。
ここが光の届かない暗闇であること。その暗闇にたった独りで取り残されてしまったこと。

(やだな……)

無意識のうちに自分の体に腕をまわす。寒いわけではないが、遠い記憶の底からわき出し続ける不安と恐怖がアスカを苛んでいた。
アスカは舌打ちし、闇と一緒にそれを追い払ってしまおうとばかりに、手の中に必要以上に明るい光球を作り出した。あたりは光に照らし出されたが、そうすると余計に通路の先に見える暗闇と風の音すらしない静けさが染み込んでくる。
アスカは力無く首を振った。
この暗闇と静寂は嫌だったが、それ以上にそんなものに振り回されている自分が嫌だった。たかが、幼い頃の記憶に。
――たかが、母親の死の記憶に。

 

 

●○●○●

 

 

「うわ、ちょっと、ちょっとやめてよアスカさん!」

少年の制止の声もむなしく、赤い髪の少女は剣を振るい続けていた。
その鋭い剣戟をどれも紙一重でかわしながら、シンジは必至にアスカに呼びかけている。
突然あたりの風景が変わったと思ったら、アスカが突然いつの間にか手に持っていた長剣で斬りつけてきたのである。
事態が飲み込めず、とにかく次々と繰り出される剣から自らを守るため、必至に身をかわしていた。目の前の少女の目には、明らかに尋常ではない光が宿っている。

(まさか……操られているのか!?)

そう考えている間も、アスカは剣を振るい続けている。耳元をかすっていく長剣の空を切る音に戦慄しながらも、シンジは覚悟を決めた。

「アスカさん……ごめん!」

最上段から振り下ろされた彼女の剣をかわし、その腹の辺りに狙いを定めて思い切り体当たりする――
そして、次の瞬間には今日二度目の地面とのキスを味わっていた。
かわされたのではない。シンジの体は、アスカをすりぬけたのだ。

「……幻覚!?」

ようやくそこに思いが行き当たる。
彼女と剣の存在感はまさに現実のものであり、とても幻覚とは思えなかったが、シンジの叫びと同時に形を崩し、空気にとけ込むように消えていった。幻覚と見破られた幻覚は消滅するしかない。
シンジは呆然とした面もちのまま立ち上がった。本物と全く見分けがつかないほど精巧な幻覚だった。あの幻の剣に斬られていれば、まず自分は戦闘不能に陥っていただろう。導師クラスの魔法使いならば幻覚で人を殺すこともできるという授業の内容を思い出した。
今更ながらに背筋を冷や汗がしたたり落ちる。思わず首をすくめると、本物のアスカはどこに行ったのかということに気が付いた。
まわりを見回してみるが、見覚えのある風景ではない。迷宮の中の風景などどこも同じようなものだが、それでも今まで通ってきた場所ではないように思えた。

「どうしようか……」

頭をかきながら独りごちた。はぐれたアスカも心配だが、彼女ならば大抵の事態は独力で切り抜けられるだろうと思った。そうなると、向こうも自分のことを捜しているだろう。
自分も彼女を捜して動くべきか、彼女が見つけてくれるのをここで待つべきか、シンジは悩んだ。
今までのアスカの態度から考えれば探してくれない可能性も充分にあったが、二人一緒でないと合格とならないルールがあるため、おそらく不承不承ながらも探してはくれるだろう。見つけてくれるかどうかは別として。
しばらく悩んでそこに立ち尽くしていると、目の前のT字路の右の方から、わずかに光が漏れてきた。魔法による光である。

「アスカさん?」
「シンジ? あんたこんなとこにいたの。もう置いてっちゃおうかと思ったわよ」

角の向こうから、彼女の声が聞こえてくる。
少し安心したような声に聞こえるのは、はたして自惚れだろうか。
とにかくシンジは、ほっと安堵の息をつきながら彼女の見える位置まで移動した。そして、眩いばかりの光の中にアスカの姿を見いだした。
――その後ろで大剣を振りかぶる骸骨の姿も。

「アスカ、危ない!」
「え?」

叫んでアスカの方へと踏み出すのと同時、骸骨は大剣を振り下ろした。

「――――!」

声にならない悲鳴を上げるアスカ。シンジの声に反応して身をかわしたため紙一重で剣をかわすことはできたが、体をかすめていった死の気配に戦慄して、一瞬動きが止まる。
骸骨はその筋肉のない姿からは想像もつかないほどの速さで剣を振りかぶった。虚ろな眼窩の奥から、かすかな魔法の光がアスカを見つめている。

「あ……」

逃げなくてはならない。それはわかっている。しかし、足が動かない。
懸命に自分を叱咤するが、それでも一度すくんだ足はなかなか動き出してはくれない。すぐ脇を通り抜けていった死が、再び引き返してくるのを感じた。
骸骨が再び剣を振り下ろそうとした瞬間、頭の中で死のイメージが爆発する。
暗くて狭い、牢獄のような部屋。誇らしげな自分。天井からぶら下がる体。喜び。期待。驚愕。理解。悲しみ。絶望。消滅――

「い、いやあぁぁぁぁぁっ!」

少しでも死から遠ざかろうかとするように、両手で頭を守った。大剣の前にそれが全く意味を持たないことを知りながらも、必死に手をかざす。
死を受け入れるためではなく、死から逃避するために目をつぶる。闇に閉ざされた世界の中、全身を堅くしてその気配に怯える。
――だが、死は彼女には訪れなかった。
恐る恐る目を開けると、目の前には背中があった。自分のものよりも少し大きく、やや鈍角的な背中。
青いローブに覆われているが、その肩の線ははっきりと分かった。そしてその肩の上には――何もない。

「ひっ――!」

思わず叫び声をあげそうになって、口に手を当てた。前に立ちふさがって骸骨の大剣を両手ではさむように受け止めているシンジが振り向く。

「大丈夫?……危ないところだったね」

不覚にも、アスカはその場に座り込んでしまった。
頭が混乱から正常へと戻ってくると、たった今自分の見せた醜態に気が付く。死の恐怖に囚われて、あんな馬鹿馬鹿しい幻覚まで見てしまった自分の弱い心が心底恨めしかった。何よりも、それをこの頼りにならない少年に全部見られていたという事実に顔が熱くなる。

「このっ!」

シンジは大剣を両手に持ったまま、その手をひねるようにして骸骨を投げ飛ばした。それほど遠くに飛んだわけではないが、バランスを崩して地面に倒れたので、少しは時間を稼げるだろう。

「アスカ……立てる?」
「大丈夫……」

口ではそういったものの、どうやら腰が抜けてしまったらしく立ち上がることができない。これ以上シンジに屈辱的な姿を見られたくないと思い、必死に両手で地面を打つが、何の効果もない。
見かねてシンジが手を差し出すが、それを握ろうとはしなかった。意地でも自力で立ち上がらなくてはならない。力の入らない下半身を胸中で叱咤するが、それで動くわけでもない。
そうこうしている間にも骸骨は立ち上がったようだった。
アスカの心に焦りが生まれる。必死に何とか立ち上がろうと力を込めるが、まるで自分のものでなくなってしまったかのように腰から下が動かない。

「……ごめん!」

せっぱ詰まったようなシンジの声と同時、体が浮かび上がった。シンジに抱きかかえられたのだと気づき、先ほどまでとは少し違った意味で顔が赤らむ。

「ちょっと! 何する……」

アスカの抗議は最後まで言い終わらなかった。
彼女の体を抱きかかえたまま、シンジが跳んだのだ。その後を追いかけるように骸骨の剣が振り下ろされる。
標的を失った大剣は地面に穴を穿った。それでも再びよどみのない動作で持ち上がり、アスカを抱いたままのシンジに狙いを定める。

「アスカ、呪文唱えられる!?」
「……らめ」

腕の中から聞こえてきた意味不明な言葉に、思わずシンジは少女の顔をのぞき込んだ。アスカはその青い瞳に涙をため、口元を押さえている。

「した、かんひゃっは……あんはがひゅうにほぶから……」
「えええっ!」

驚きの声を上げるのと同時、再度骸骨の剣戟が繰り出される。またもそれを何とかかわしながら、シンジは必死にアスカに語りかけていた。

「舌噛んだって……どうにか呪文唱えられないの!?」

もちろん、それが無理なことは魔法学院の生徒であるシンジはよく知っていた。魔法の行使に置いてはいくつかのプロセスがあるが、その中で最も重要なのは上位古代語による呪文の詠唱である。この呪文をどれだけ正確に速く唱えられるかということが、最も分かりやすい魔法使いの実力のバロメータのひとつでもある。
舌を噛んだ状態で呪文詠唱などしようものなら、魔力の素であるマナがねじ曲がって具現してしまい、とんでもない結果となるだろう。

「あんはがはりなはいよ……」

目元に涙をためたまま、アスカが言った。

「そんな……無理だよ。僕なんて、初歩の魔法もろくに使えないのに」

そう思ったからこそ、舌を噛んだアスカに頼んだのだ。彼女ならばそんな状態でも自分よりうまく魔法を扱えるのではないかと思ったから。

「いいはらはりなはいよ! あんはがはほうをふははなひゃ、ははひらひひんひゃうのよ! ふほしはひふんにひひんをほひなはい!」
「う、うん……」

正直な話、彼女の言っていることは半分も理解できなかったが、何とか自分を叱咤しているらしいということは分かった。
大剣を持ったままこちらに歩み寄ってくる骸骨を睨みながら、何とか頭の中で呪文を思い出す。

(そうだ……僕だって9歳の頃から5年も努力してきたんだ……あの努力が無駄だったなんて言わせない!)

息を吸い込み、前に突き出した両手に神経を集中させる。一歩ずつ緩慢な動作で進む骸骨をしっかりと見据えながら、一言ずつ呪文を紡ぎだしていった。

「ば、万物の根源たるマナよ……」

授業で習ったはずの呪文をどうにかして思い出していく。必死で唱えているため、それが合っているのかどうか確認する余裕もない。
ただ、今の彼にできるのは全力で呪文を完成させることだけだった。
やがて何とか呪文が完成し、すでに目の前にまで迫っている骸骨に両手を向けて、腹の底から最後の一言を絞り出す!

「――光よ!」

………………そして、痛いほどの沈黙。
泣きそうな顔のシンジをその感情の宿らない瞳で見つめながら、骸骨は無慈悲に大剣を振りかぶった……

「やっぱり駄目だったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「……ほのばかひんじぃ!」

間一髪でその一撃をかわし、アスカを抱きかかえたまま全力で走る。後ろでは、骸骨が地面にめり込んだ剣を力任せに引き抜く音が聞こえた。
そして、そのまま走って追いかけてくる。一歩歩くごとに骨がぶつかり合って奇妙な不協和音を奏でた。
背後を気にしながらも、迷宮の折れ曲がった通路を必死に走り続ける。途中に現れた分岐路は全て勘で進んだ。
しかし、いくら体重の軽い少女とはいえ、人一人を抱いているのではスピードも遅くなるし、体力の消耗も激しい。シンジは早くも息が上がりつつあった。

「くそ!」

背後から聞こえる骸骨の歩く音は、徐々に距離を詰めてきている。止まるわけにはいかない。止まったら殺されてしまう……

「シンジ、降ろしなさい!」

角を右折したとき、今まで沈黙を保っていたアスカが不意に叫んだ。反射的にその命令に従い、彼女を床に降ろすシンジ。アスカは床に片膝をつくと、右手を頭上に高く掲げた。そのまま、左手を大きく円を描くように動かし、その右手に重ねる。頭上で重なり合った両手を徐々に降ろして、それが顔の前まで降りてきたと同時に動作を止め、呪文の詠唱を始めた。

「魔狼の咆哮、雪娘の抱擁、始源の巨人の悲しみの心……」

角の向こうから、骸骨の姿が現れる。アスカは両手を前につきだし、口早に残りの呪文を完成させた。

「万能なるマナよ、氷雪の嵐となって吹き荒れよ!」

アスカの手から放たれた白い突風が骸骨を襲った。かまわずこちらに進もうとする骸骨の動きが徐々に鈍る。その足から腰にかけては、もうすでに凍り付いていた。まだ凍っていない腕を振り上げようとした瞬間、鈍い音とともに腕が中ほどで砕ける。その場に下半身を氷で固定された骸骨の上半身は、徐々にのけぞりながらも凍っていった。やがて、アスカの唱えた<吹雪>の呪文が完全に終わると、そこには空を仰ぎ見るかのような体勢の氷付けの骸骨が残っていた。

「ふう……」

思わず安堵の息をもらすアスカ。
後ろを振り向くと、シンジが壁にもたれるようにして立っていた。その顔には、惜しむことのない賞賛と尊敬の色が浮かんでいる。

「やっぱりすごいや。アスカ……さんは」
「…………」

アスカは答えず、静かにその顔を見つめていた。その様子を不自然に思ったのか、シンジはきょとんとした表情で、

「……どうかしたの?」

アスカはなおも無言だった。ただ、じっとシンジの顔を見つめている。その視線に居心地が悪そうに体をもじつかせるシンジを見つめて、アスカは静かに口を開いた。

「……言わないのね」
「え?」

思わず聞き返すシンジ。アスカはシンジから表情を隠すかのようにうつむいた。

「あんたは……言わないのね」
「……何を?」
「出来が違うとか……才能の差だとか……自分は努力しても無駄だとか……そういうこと、言わないのね」

アスカの言葉は、充分にシンジの虚を突いた。シンジは少し虚空を眺めるようにし、思い出しながらアスカに言う。

「だって……アスカさんは……がんばってるじゃないか」

今度は、アスカが虚を突かれたようだった。はっと顔を上げ、まじまじとシンジを見つめる。その強い視線から逃げるように壁を見つめながら、シンジは続けた。

「あの、さ……僕は……少しでも魔法がうまく使えるようになりたくて、それで、みんなが寝た後も夜遅くまで一人で勉強してたんだ」

ルームメイトを起こさないように、小さな明かりで勉強を続ける彼は、ある日窓から見える学院の中庭の片隅で、微かな光を見つけた。それは瞬くように灯り、ふっとすぐ消える。そして、しばらくするとまた現れ、同じようにすぐ消えた。

「なんだろうって思って……それで、授業で習ったばかりの<視力強化>の呪文を使ってみたんだ。そしたら……」

見えたのは、一人の少女だった。中庭の片隅で、人の目に触れないように深夜に独り魔法の練習を続ける、栗色の髪の少女。

「……アスカさんの噂は聞いてたから。学院で何度か姿を見かけたこともあったし、すぐに分かったんだ。それで、その、みんなが言ってるみたいな、才能の上にあぐらをかいてるような人じゃないんだなって思って……その、もちろん才能もすごいと思うけど、やっぱり他の人より何倍も努力してるんだってわかったんだ。正直、僕は何回かもう魔法学院をやめようとも思ったんだけど、アスカさんの姿を見てると、僕もがんばらなくちゃいけないなって思って……それで……その……」

シンジが次の言葉を探そうとしていると、アスカは無表情にうつむいた。

「……見てたのね……」
「あっ、いやっ、別にその、覗きとかそういうんじゃなくて! その、ほら、だから、こう、ただ、なんていうか、えーと……」

慌てて両手を振りながら、意味のない言葉の羅列を並べる。何か言い訳をしようと思うのだが、何も浮かばない。というより、こうやって話してみると確かに覗き以外の何者でもないような気もしてくる。
うつむいたままで反応のないアスカの様子に、焦りが加速される。機嫌を損ねてしまったのかも知れないと必死に弁解を考えるが、何も浮かびはしなかった。

「……いいわよ別に。あんたが悪い訳じゃないもんね」
「え?」

予想外に穏やかなアスカの反応に、シンジは困惑した。そんな彼にはかまわず、アスカは立ち上がって歩き出した。その後ろ姿は、どこかひどく寂しげで、まるで傷ついているかのようにも見えた。
慌てて後を追うが、シンジは何も言うべき言葉が見つからない。
しばらく不自然な沈黙が流れた。

「あ、あのさ……その……ごめん」
「なんで謝るの?」
「いや……なんか、元気ないから……悪いこと言ったかなって思ってさ……」

アスカは呆れたような目でシンジを見た。

「……あんたって本当に馬鹿よねー……」
「な、なんだよそれ」

鼻白むシンジだったが、アスカはそれを見てくすりと笑みを漏らした。

「ま、でもそれがアンタのいいところかもね」
「へ?」

言ってることがよく理解できずに間抜けな声を上げたが、アスカはこれ以上この話題を続ける気はないようだった。

「……いいのよ。悪いのはあたしなんだから……」

彼女の呟きはあくまでも小さく、シンジの耳には届かずに消えた。

 

 

●○●○●

 

 

「こ・のぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」

気合いの声と共にアスカのはなった火球が、群がるウッド・ゴーレムを一掃する。その熱が収まるよりも早く、部屋の横壁が崩れ、その向こう側から無数のレッサー・デーモンが飛び出してきた。

「ちいっ!」

舌打ちをしながらも素早く後ろに跳躍し、次の呪文の詠唱へと移行する。一匹のレッサー・デーモンが彼女の頭を食いちぎろうと跳びかかってきたが、それをシンジが大剣で叩き落とした。次の瞬間には呪文が完成し、彼女の手から今日何度目かの破壊の魔法が放たれる。
放物線を描いてレッサー・デーモンの群の中心あたりで火球は炸裂した。大気が瞬間的に膨れ上がり、雄牛と山羊の中間のような禍々しい頭部を持った魔物は、炎に飲み込まれて消えた。
レッサー・デーモンが全滅したことを確認すると、アスカは両足を広げ、すぐに次の呪文詠唱に入れるようにしながら油断なくあたりを見回した。
学院の教室二つ分ほどの広さのその部屋には、これまでの戦闘の証である破壊の跡があちこちに残っている。何度も息を付く間もなく押し寄せる魔物の群に、さすがのアスカもそろそろ限界が近づいていた。
しばらくあたりを警戒した後、どうやらこれで終わりらしいとようやく判断した彼女は、その場にぺたと座り込んだ。

「ふぅぅ……疲れたー」
「大丈夫?」

駆け寄ってくるシンジの手には、上の階で出会った骸骨の大剣が握られている。魔法の成功率が極端に低いため、ないよりはマシだろうと持ってきたものである。事実、素人剣法ながらもなかなかの戦力とはなっていた。意外と筋がいいのかも知れない。

「なんとかねー。でもホンッッットに疲れたわ。しばらくここで休憩するわよ!」
「うん。まだ時間は余ってるはずだしね」

と、シンジは出がけに渡された一本の棒を懐から取り出した。入ったときにはその全身を光でみなぎらせていた棒だが、今は輝きは棒の下3分の2ほどになっている。この棒の光が消えるまでが彼らに与えられた時間だった。
アスカはそれを横目で見ると、その場にごろんと寝ころんだ。連続して呪文を使ったため、かなり体力を消耗している。少しでも早く回復しないことには話にならなかった。
アスカが目をつむってひたすら体力回復に集中していると、シンジがためらいがちに話しかけてきた。

「あの、さ……なんか変だと思わない?」
「何が?」

シンジの言いたいことはだいたい分かっていた。恐らくは自分と同じ疑念を抱いているのだろう。しかし、アスカはそれは明かさずにあくまでも目を閉じたまま、興味なさげに続きを促した。

「なんか……さっきの大岩のあたりからかな、やけに魔物やトラップが大がかりなものになってきてるような気がするんだ。さっきの骸骨にしたって今の魔物にしたって、一歩間違えば命にも関わるよ……今まで卒業試験で死んだ人がいるなんて聞いたことないのに……」
「あたしだってないわよ。案外、どっかでちゃんと先生たちが見張ってるんじゃない? 本当に危なくなったら助けてくれるとか」

自分でもその白々しさが分かっていたが、あえてアスカはそう言った。

「だって……そしたらもっと早く僕らのことを助けたって良さそうなもんじゃないか。ほんとに紙一重で死を免れたようなことだってあったんだし……」
「……そうね……」

アスカは気のなさそうな返事を返すと、上体を起こした。
シンジの指摘した疑問は、アスカも当然感じていたものだった。いくらなんでも危険度が高すぎる。しかも、実際ほとんど偶然とも言える確率で彼女たちが助かったときも、確かに何らかの手段で見張っているはずの教師たちが介入しようとする気配すら感じられなかったのだ。

(死んでもいいとでも思ってるの……? でも、シンジの言うとおり今まで死んだ人がいるなんて聞いてないわよね……)

思考の迷路に陥りかけた彼女は、軽くかぶりを振った。
そんなことを考えていても答えは出ない。今考えるべき事は、この試練をクリアし、無事魔法学院を卒業することだけなのだ。
もし、この試練に失敗するようなことがあれば……

(そのときは、あたしの生きる意味もなくなるわ……)

自虐的に呟いて、彼女は再び横になった。

 

 

「……そろそろ行こうか?」

シンジは、隣で寝ころんでいる少女に遠慮がちに声をかけた。
すでに時間を示す光は棒の中程までしか残っていない。帰りの時間も考えれば、もう進みはじめなくてはならない時間である。

「……ん」

アスカはシンジの声に反応して、眠そうに目をこすりながら起きあがった。まだ目元が定まっていない。
シンジは苦笑して、

「寝てた?」

と、聞いた。アスカは大きく伸びをすると、首を左右に何度か鳴らし、ローブの埃を払いながら立ち上がった。

「ちょっとね。時間、あとどれぐらい?」
「もう半分切ったよ。確か証はこの下の階にあるはずだよね」

手元の地図を身ながらシンジは答えた。彼が今まで歩いてきた道をマッピングしたものである。
まだこの階の階段は見つけていなかったが、すでに大部分は歩き回っていたので大方の見当はついていた。

「もう、ちゃっちゃと終わらせちゃいましょ。いつまでもこんな所にいたら気が滅入っちゃう」

アスカの声は冗談めかしたものだったが、その気持ちはシンジもよく分かった。しばらく太陽の光を見ていないだけで、ずいぶんと妙な気分がする。曇り空や建物の天井の下とは違う、迷宮独特の圧迫感のようなものを感じるのだ。そして、それは決して快適なものではなかった。
地図を身ながら、まだ行ってない場所にいくつかあたりをつけ、歩き回っていると階段はすぐに見つかった。今まで降りてきたのと同じ、石造りの幅の広い階段だった。アスカの作り出した光球であたりを照らし出しているが、その光も下の階まではとどかないのか、階段は闇へと呑み込まれていくように見える。

「……いよいよ、次で最後だね」
「そうね」

シンジはごくんとつばを飲み込んだ。この期に及んで、妙に緊張してくる。

「そ、それじゃあいこうか。アスカ……さん」

横で、アスカが笑みを漏らしたらしいのが何となく気配で分かった。彼女の穏やかな声が耳に滑り込んでくる。

「アスカでいいわよ……さっきから時々そう呼んでたじゃない。あたしばっかりシンジって呼ぶのも不公平だしね」
「う、うん」

汗ばむ手を握りしめ、シンジは階段に一歩踏み出した。次いで二歩目を踏み出そうとしたとき、足下の石段が突然崩れる。

「うわっ!?」
「シンジ!」

慌ててアスカの差しのべた手をつかむが、とっさに手を突きだした彼女の体勢では、シンジの体重を支えることはできなかった。アスカを引きずり込むような形で、階下へと落ちていく。
自由落下しながらも、とっさにアスカを抱きしめ、自分の体をクッションにする。
打ち付けられた背中に激痛が走ったが、それほど高さがなかったことが幸いしたのか、打撲だけですんだようだった。
痛みに顔をしかめながら腕の中を見やると、呆然としているアスカと視線があった。彼女には特に怪我らしい怪我は見当たらない。

「大丈夫? まさかいきなり階段が崩れるなんて……」
「ほんと、意表を突かれたわね……」

同意の声を上げながらも、アスカは妙に落ち着かないようだった。どうかしたのかと視線で問いかけると、少し頬を赤らめ、

「……この手を離してくれるとうれしいんだけど」
「え?」

思わず声を上げて、自分がアスカを抱きしめたままであることに気がついた。しかも顔の位置が妙に近かったりもする。

「うわっ! ご、ごめん!」

慌てて腕を放すと、アスカは胸元を押さえるような仕草で立ち上がり、こほんと咳払いをした。まだ頬は微妙に赤い。

「そ、それよりも……どうやって戻るかってことの方が問題よねぇ」

それぞれの階を結ぶ唯一の移動手段である階段が破壊されてしまったのだ。後には天井にあいた四角い穴と数瞬前までは階段だった石の破片だけが残っている。
天井の穴から上に上れないかとも思ったが、シンジがジャンプしても届きそうにない。

「どうしよっか……」
「ここで悩んでてもしょうがないわね。とりあえず、証を取りに行きましょ。その途中でなんかいい解決策が見つかるかも知れないし」
「うん……そだね」

そう答えながらも、シンジは底知れぬ嫌な予感を感じていた。自分たちと外界を結ぶものが何もなくなってしまったような気がする。これではまるで、迷宮の最深部に閉じこめられたようなものだ。

(閉じこめられた……?)

シンジは愕然とした。
そう、自分たちはまさに閉じこめられたのではないだろうか。この試練の迷宮の奥深くで、唯一の移動手段を断たれ、死ぬまでこの階層をさまよっていなければいけないのか。
そんなことがあるはずがない。きっと、証を手に入れれば先生たちが迎えに来てくれるんだ。あるいは、他にどこか階段があるのかも知れない。14階はまだ全部見終わった訳じゃないから、どこかにもうひとつぐらい階段があっても不思議じゃない。
そう考えようとするのだが、それでも半ば本能的な不安は次々と湧いてくる。
シンジはそれを無理に忘れようとしながら、あたりの通路を見る。彼らがいるのは通路の合流地点であるすこし広くなったところで、シンジからみて正面と右、左後ろにそれぞれ通路が伸びている。

「どれに行く?」
「どれに行ったって結果は同じでしょ。それじゃあ、正面を行きましょ」

反対する理由も特にないシンジは、手元の新しい羊皮紙に『B15』と書いて、通路の形を記録しはじめた。そんな彼の少し前を、アスカがどんどん進んでいく。
通路の先に見えるのは、漆黒の闇だけだった。

 

 

「……ねえ」

アスカが少し不安げな声を出したのは、しばらく歩いてからだった。なんとなく彼女の言いたいことが分かるシンジは、少し足を早めて前を歩いている彼女の横に並んだ。

「おかしいと思わない?」

視線を彼の方へと向けて、アスカ。シンジは黙って頷くと、手元の地図に視線を戻した。
すでに、真っ直ぐと伸びる通路は羊皮紙の端から突き出てしまいそうである。それにもかかわらず、彼らの進んできたこの一本道は、いまだ曲がる気配すら見せない。

「うん……いくらなんでも、長すぎる」

シンジは立ち止まると、今まで進んで来た道を振り返った。半歩前で、アスカもそれに倣う。

「15階だけ広くなってるとか?」
「その可能性もないことはないと思うけど……なんかきな臭いわねぇ……」

アスカは難しい顔をして腕を組んだ。前にも後ろにも、全く同じ石壁の通路だけが伸びている。それを照らし出しているのは、彼女の頭上に浮いている光球のみだった。

「なんか、こんなトラップがなかったっけ?」
「……確か、一本道と見せかけて微妙にカーブしている通路ってのがあったわね。歩いている人間は一本道だと思ってるのに、いつの間にか全然別の方向に向かってるから地図や方向感覚が無茶苦茶になっちゃうってやつ」

授業で得た知識を、アスカがこともなげに披露した。

「……それかな?」

心配そうに、シンジは手元の地図をのぞき込んだ。

「うーん……まあ、心配してもしょうがないじゃない。とりあえず、もうちょっと進んでみましょうか」
「うん、そうだね……」

賛成してから、シンジはふと気づいた。自分の前に続く通路を眺め、それから自分の後ろに続く通路を振り返る。

「どうしたの?」
「いや、あのさ……」

冷や汗など垂らしながら、シンジ。彼の言いたいことをなんとなく察知したのか――同様に冷や汗をかいたアスカが、黙って先を促す。

「……どっちから来たんだっけ?」
「…………」

しばらく、闇の中に冷めかけた紅茶のような時間が流れた。

「……これが狙いだったのかしら」
「うーん」

シンジは頭を抱えた。何となく、迷宮の制作者の意向とはずれた罠のはまり方をしてしまったような気がしてならない。

「ま、まあ! とりあえず進んでみましょ! 来た道だったら階段のとこに戻るだけだし、反対だったらなんかあるかもしんないじゃない!」
「う、うん……」

シンジがやや不安げに頷いた、その時だった。
何の前触れもなく、迷宮の石壁に縦に亀裂が走る。その亀裂はみるみるうちにその大きさを増していき、すぐに天井まで達した。
シンジは、反射的にアスカを横抱きにして跳んだ。次の瞬間には天井が崩れ、石材の崩れ落ちる音と共に通路がふさがってしまう。

「……なんなんだ……?」

飛び退いたままの姿勢で、呆然としているシンジ。アスカはゆっくりと立ち上がると、その崩壊した通路を憎々しげに睨み付けた。

「……とにかく、これではっきりしたわね。これは卒業試験なんかじゃないわ。明らかに私たちの命を狙ってる何者かがいるのよ」
「そんな……!」

シンジは叫んだ。どう考えても、自分が殺される理由が思いつかない。
しかし、ここまでのトラップが完全に試験の範疇を越していることも確かだった。ましてや迷宮そのものを崩壊させるような仕掛けなど――とても学院側の意志とは思えない。
シンジの背筋を、悪寒が撫で上げた。自分たちを殺すという明確な意志を持った存在がいるというのは、けして気持ちのいいものではない。

「どっちにしても、進む道は片方しかなくなったわね。なんだか誘導されてるみたいで気に入らないけど……」

アスカは、通路の奥に限りなく広がる闇を見つめながら言った。気丈な姿にも見えるが、シンジは彼女の瞳の中にわずかな怯えを見たような気がした。
それは、彼が抱いている死への恐怖ともまた異質な、人混みの中で母親の手にしがみつく子供の感じる類の怯えであるようにも見えた。
あるいは、彼女は自分よりももっと何かに気づいているのかもしれない。あるいは、彼女は自分よりももっと何かを知っているのかもしれない。
シンジはかぶりを振った。おそらくはそうだろう。天才である彼女だ。自分のような凡人には思いつきもしないような思考をめぐらせているのかもしれない。

「あたしに喧嘩を売ろうなんて……己の無謀さを思い知らせてやるわ!」

光球に照らし出される彼女の不適な笑顔は――それでもなぜか虚ろにシンジの目には映った。

 

 

彼らがたどり着いたのは、広間だった。
巨大な円形の広間は、今までと同じ石と土によって作られていた。しかし、壁に等間隔に備え付けられている松明は、今まで見られなかったものである。部屋は松明の光によって充分な光量に満ちていたが、アスカは用心のためか光球を消さなかった。わずかに光を弱め、手元に引き寄せる。
広間からは、彼らの通ってきた通路以外には道は延びていないようだった。ただただ無意味に広いだけであるその空間には、何も置かれてはいない。ただ、そこはかとない圧迫感を秘めた空気だけが静かに漂っている。

「…………」

アスカは、慎重な足取りで広間の中心を目指した。その半歩後ろから付いていくシンジの目にも、彼女の全身が緊張しているのが分かる。
広間には何もないし、誰もいない。しかし、そこには間違いなく何者かの気配がしていた。上の階でアスカを射抜いたのと同じ鋭さを持つ視線が、彼らの全身に突き刺さる。

「……出てきなさいよ! ここにいんのはわかってるんだからね!」

アスカが叫ぶと、不意に空気の密度が増した。広間の中に、吐き気を催すほどの威圧感が溢れる。
広間をぐるりと取り囲む壁が、淡い白光を放つ。それらははがれるように壁から離れると、シンジたちの前方10歩ほどの距離で収束した。最初はただの光の固まりにすぎなかったそれは、彼らの緊張した視線の中、徐々に人の形を取っていく。
やがて、完全に人間の姿をとると、威圧感はそのままに、唐突に光が消える。後に残ったのは、まさしく人間の姿だった。
あまり背の高くない、初老の男である。長くはない白髪を後ろに撫で付け、その両眼をなにやら奇妙な細長い物で覆っていた。身につけている地味な衣服は、僧の着るそれにも似ていたが、そのものというには少し不遜に過ぎるようにも見えた。
その男は何も言わず、ただ黙って彼らを見つめている、否、アスカを見つめている。
シンジも、それに導かれるかのようにアスカを見た。彼女の顔ははっきりと分かるほどに青ざめている。信じられないものを見たような表情で、口を何度か開閉させたが、言葉は出てこなかった。

「久しいな。アスカ」

先に口を開いたのは、男だった。どうやら顔見知りであるらしい二人を交互に見比べるシンジ。
血の気を失ったアスカの顔は、まるで死人のようだった。

「……どう……して……?」

何度も無意味な呼吸を繰り返し、ようやくそれだけを絞り出す。あまりの事態に精神が付いていけていないのだろうか。だとしたら、彼女にそれほどまでのショックを与えるこの男は一体何者なのか。
瞳が隠れている男の表情を読みとることは出来ない。いや、最初から表情など浮かんでいないのだろう。男は、ただ無表情に無感動にアスカを見つめている。まるで、彼女が何かを言い出すのを待っているかのように。

「どうして……どうしてなの、キール叔父さん!」

まるで、首を絞められているかのような苦しげな声。キールと呼ばれた男は、何の感情も読みとれない声で答えた。

「お前が、邪魔だからだ。アスカ」

アスカの表情が、さらに変わる。目が見開かれ、唇まではっきりと青くなる。彼女はそれ以上そこに立っていることが出来ず、力無く崩れ落ちた。

「あ、アスカ!?」

シンジがその肩を支えようとするが、アスカはなおも顔色を失ったまま、自らを抱くように両腕を体にまわしている。そんな彼女を見下すかのように、さらに広間にキールの声が響く。

「……その少年は何も知らないようだな。説明してやったらどうだ、アスカ」

アスカは答えられない。キールを真っ向から見つめることも出来ず、絶望しきった瞳でその足下のあたりを見ていた。

「あなたは……一体何なんですか!? どうしてアスカを殺そうとするんです!」

アスカをかばうように、二人の間に立ちふさがったシンジが叫ぶ。キールは一片の温もりも感じられない視線で、彼を射抜いた。それだけで、シンジの両肩には多大な重圧がかかる。それほどの威圧感を、この男は持っていた。
その地鳴りのような威圧感を備えたまま、キールは唐突にシンジに問うた。

「君は、ラングレー家を知っているかね?」
「ラングレー……?」

無論、知っていた。数百年前から代々宮廷魔術師を輩出している名家である。
この王国では、通常王族と貴族以外が名字を名乗ることは許されなかったが、生来の身分が低くても、例外的にそれが認められている者たちがいた。そのひとつが、魔法の一族と言われているラングレー家である。数百年の昔より、その類い希な魔法の力によって王国を支えてきた彼らは、平民でありながら実質上は王族に次ぐ力を持っているという。
キールは、少し顎をあげるようにしてアスカを示しながら言った。

「彼女は、ラングレー家の跡継ぎだ」
「なっ……!?」

その思いがけない言葉に、シンジは赤毛の少女を振り返る。目だけで問いかける彼に対して、彼女は青ざめた顔のまま、静かに頷いた。

「そんな……」

信じられないとでもいうように呟くシンジに、さらにキールは言葉を重ねる。

「そして、私は彼女の叔父であり、また宮廷魔術師のキール・ローレンツだ」
「――――!」

今度こそ、完全にシンジは叩きのめされた。
彼も名前だけは聞いていたが、まさか目の前に立っている白髪の男がそうであろうとは、この瞬間まで思いも寄らなかった。
キール・ローレンツ――王の参謀であり、宮廷魔術師でもある男である。23歳の就任以降55年の長きにわたって宮廷魔術師を努めた父親の後を継ぎ、3年前に宮廷魔術師の任に付いた。『偉大なる魔眼』と称えられた父親と比べても決して見劣りのしないその力を遺憾なく発揮し、また、就任直後に王族の傍系であるローレンツ家に婿養子として入るなどの方法を取って、わずか3年にして急激にその勢力を亡き父と同等かあるいはそれ以上にまで巨大化させた――その彼が、今ここにいる理由がシンジには見当も付かなかった。

広間には、いつの間にか勢いの強くなった松明の、不必要なほどの明かりが満ちている。キールの足下に広がる影は、その明るさに比例して禍々しさを増していった。
不意に、シンジの背後で座り込んでいたアスカが金切り声をあげる。

「どうして! 叔父さん、どうしてあたしを殺すの!? あたしが、あたしがラングレー家の汚点だから!? あたしの力が足りなかったの!?」

捨てられた子犬のように、必死に叫ぶアスカ。
キールは、そんな彼女を温度のない視線で見つめていた。

「……その逆だ、アスカ」

アスカが、息をのんだ。
キールは静かに話し続ける。

「お前は……お前は、あまりに優秀すぎた。この私を脅かすほどにな……」

キールの顔に、初めて感情の色が浮かんだ。苦々しげに口元を歪め、何かを薙ぎ払うかのように右手を横に振る。

「……どういう……事……?」
「……ラングレー家の歴史の中でもお前の才能は飛び抜けた存在だ。魔法の面でも、その頭脳に置いても、な。お前がこの学院を卒業すれば、数年で宮廷魔術師の地位に就けるだろう……たった数年で、だ」

無機質だったキールの声に、徐々に色彩がにじみはじめる。アスカはいつの間にかシンジの肩に捕まるようにして立ち上がり、キールを見つめていた。顔は青ざめたままだが、その瞳にはわずかに理解の色が浮かびつつあった。
キールが、不意に声を荒らげる。

「私は! 私はこの地位を手に入れるのに、30年待った……30年だぞ。この歳月の重みが、貴様らに分かるか!? それを、それを貴様は、ほんの数年でこの私から奪い去ろうとしている……我が名誉あるラングレー家の正統な跡継ぎであれば、まだそれにも耐えられよう。しかし、貴様のような、本当に兄上の血を引いているのかどうかもわからん、薄汚い雌犬の娘に奪われるのだけは、耐えられん!」

あたかも手負いの野獣のような叫びと同時、キールの立っている場所を中心として、空気が外向きに炸裂する。
アスカの前に立っていたシンジの体は、その衝撃波をまともにくらい、アスカの頭上を吹き飛んで石壁に叩きつけられた。骨の折れる鈍い音が、やけに大きく響く。

「うああああああっ!」
「シンジ!」

彼の元へと駆け寄ろうとするアスカの足下に、純白の光熱波が突き刺さる。爆風にバランスを崩して、彼女はその場に転倒した。
逆さまになった視界の中、光熱波を放った姿勢のままのキールが、再び抑揚のない、しかし確かに熱い感情の宿った声で告げる。

「……ラングレー家の歴史に置いて比類のないお前の才能に敬意を表して、私が自ら葬ってやろう。さあ、立ち上がるのだ、アスカ」

その時、シンジには見えた。
アスカの顔から、一瞬全ての表情が消える。そして、次に現れたのは怯えでも絶望でも悲しみでもなく――笑みだった。今までの自信に溢れたそれとは違う、どこか狂気すら孕んだ凄絶な笑み。彼女の体を支配していた震えも、いつの間にか完全に止まっている。

「敬意……? ここまで、散々魔法を使わせといてよく言うわね」
「なに?」

アスカは立ち上がり、体の埃を払った。先ほどまでの怯えきった表情からは想像もできないほど落ち着いた動作で、キールを見据える。

「学院の教師まで抱き込んであれだけのトラップを用意したのも、全てあたしの魔法力を消耗させるため……そして、魔法を使い果たしたあたしを叔父さん自身が確実に始末するため。叔父さんらしい、姑息な作戦だわ」

彼女は笑みを浮かべたままだった。声には、明らかに嘲弄の響きが含まれている。

「もっとも、14歳の子供の才能に恐れを抱くような小心者……それぐらいしないと安心できなかったんでしょう?」

キールは答えない。アスカは右手を掲げ、それが顔よりやや高くなったときに、呪文の詠唱をはじめる。
彼女の呪文は、一瞬で完成した。掲げた右手が純白の光に包まれ、次の瞬間にはキールの喉笛めがけて真っ直ぐに光の矢が伸びていく。

「ふ……」

キールの顔に、嘲笑が浮かんだ。
アスカの手から放たれた光の矢は、彼の目の前で屈折し、あらぬ方向へと飛んでいく。

「この程度の魔法で、私が倒せるとでも思っているのか? アスカ」
「ええ、思ってるわよ」

その言葉と同時、アスカは掲げていた右手を勢いよく振り下ろした。それに呼応して光の矢は再び曲がり、真っ直ぐにキールの背後の岩壁へと突き刺さる。

「なに!?」

閃光と同時、部屋全体に波紋が走る。広間を照らしていた松明が一斉に消え、同時にそれまでそこに満ちていた威圧感がふっと消失した。あたりは一瞬闇に包まれたが、アスカの手の中の光球に照らされ、すぐに明るくなる。
そこは、先ほどまでとは異質な空間だった。
基本的な部屋の作りは変わらない。しかし、何というのか、場に満ちている空気のようなものが、それまでのまるで鉛のような重圧を持つものではなくなっていた。
そして、先ほどまでとは少し離れた場所に、キールが立っている。心なしか、その表情は呆然としているようにも見える。

「松明の光を利用して幻影を生み出し、この部屋そのものを用いてあたしたちに暗示をかける……そういえば、幻覚は叔父さんの十八番だったわよね。でも、いくら叔父さんでもシンジの骨を折れるぐらいの強力な暗示を与えるにはそれなりの装置が必要でしょう? 最もあたしたちの目に映りにくい、自分の背後に隠してるんじゃないかと思ったけど……ドンピシャだったわね」

アスカは吐き捨てるように言うと、キールに背を向け、シンジの元へと歩み寄ってきた。

「大丈夫? シンジ」
「う、うん……痛っ!」

少し体を動かそうとしただけで、激痛が走る。

「無理しちゃ駄目よ。幻覚とはいえ、あんたの骨はホントに折れてるんだから。強力な幻覚は、ときに肉体的なダメージを与えることすら出来る……習ったでしょ?」
「……そんな気もする」

シンジは立ち上がるのを諦めて、少しでも楽な体勢をとろうと、壁にもたれかかった。骨折した左肩が、大きく腫れ上がっている。それを切なげな目で見つめながら、アスカはシンジの耳元に囁いた。

「ごめんね……」
「……アスカ……」

シンジが何か声をかけようとした、その時。
真っ赤に燃える火球が、アスカの背後から迫ってくるのが見えた。

「アスカ! 後ろ!」

シンジが叫ぶよりも早く――アスカは素早く向き直ると、懐から何かを取り出して、その火球へ向かって投げつけた。

「ウェン!」

コマンド・ワードを叫ぶのと同時、火球はアスカの投げた水晶に取り込まれて消滅する。
アスカは地面に落ちた水晶を拾い、それを放り投げて空中で受け止めた。

「学院の倉庫からこっそりガメておいた魔法封印用の水晶……ま、1回使うともうただの石ころだけどね」

と、水晶を魔法を唱えた主――キールの足下へと放り投げてやる。
キールは、絞り出すような声で低くうなった。

「アスカ……私の幻覚を見破ったのはほめてやるが、それだけで勝ったなどとは思わないことだな。あれはあくまでも保険でしかない。貴様を実力で排除することなど、造作もないことだ」

アスカは、軽く鼻で笑うと、

「分かってないわね。叔父さん……いや、キール。あんたは、あたしを恐れてる……あたし一人を殺すために、無数のトラップを用意したり幻覚を作り出したり……そんな手段を執ろうとした時点で、あんたはすでに敗北してるのよ」

と、蔑むかのように言った。次の瞬間、彼女の顔からは笑みが消える。本人にも制御しきれないほどの圧倒的な無数の感情がその蒼い瞳に浮かび、やがて全ては一つの色彩へと収束していく。

「あんたは、あたしを裏切った……殺してやるわ……」

その声は、憎しみと悲しみに囚われ、自らを見失った者の声だった。すでに許容量を遙かに越えた感情が、暴走を始めている――シンジは絶望的な気分で、何故かそれを極めて明確に理解していた。

「……もう貴様との問答には飽きた。これで終わりにしてやろう! アスカ!」

キールは大きく吼えると、両腕を胸の中心で複雑に組み合わせ、呪文を唱えはじめた。同時に、アスカも右手を頭上に高く掲げ、左手を地面を押さえつけるかのように下に伸ばした姿勢で、呪文の詠唱をはじめる。
壁にもたれかかったままふたりの戦いを見守っていたシンジは、アスカとキールの周りに、巨大なマナが集約しつつあるのを感じた。それぞれの呪文によってマナは形を与えられ、次の瞬間にも実体化しようと術者の周囲を渦巻いている。
痛みに朦朧とする意識の中、シンジは戦慄した。
ふたりの呪文は、共にシンジが知識としては知っているものだった。どちらも彼では扱うことはおろか呪文の意味すら理解できないほど高レベルの魔法である。
しかし、彼にもひとつわかることがあった。
それは、間違いなくキールの呪文の方が早いということだった。呪文の長さ自体に大した差はないが、やはりまだ若いアスカと老練のキールとでは、処理能力が違うのだろう。

(アスカ……間に合わない!?)

そして、キールの呪文が完成する。
彼の全身を取り巻くように、圧倒的な魔力が具現するのをシンジは感じた。しかし、アスカは以前目を閉じたまま呪文の詠唱に集中している。

(アスカ――!)

シンジの叫びは声にならない。
キールは、その口元に歪んだ笑みを浮かべると、魔法を解き放った。
膨大な量の光が広間に満ちる。確実に彼に死を与えるはずの巨大な魔法の光の中、シンジは確かにアスカの姿を見た。飛翔する前の鳥のように両腕を広げ、最後の呪文を高らかに叫ぶ彼女の姿を。
――そして、全ては光に包まれた。

 

 


 

 

創世神の長男が住むと伝説に詠われた炎の星は、すでにその身を天頂にまで押し上げている。途絶えることのない光を阻む雲は今はなく、ただ青空だけが思慮もなく広がっている。
西の空から、鳥の群が飛んでいくのが見えた。あの鳥たちは、きっと自分がどこに向かえばいいのかを誰にも教えられることなく知っているのだろう。見たことのない冬を厭い、東南の方角へと隊列を乱さずに飛んでいく鳥たちは、すぐに青の上の黒い点となった。
町外れの墓地は、奇妙な静けさに包まれている。外界の魔物から町を守るために築かれた防壁が、この墓地に眠る骸を全て閉じこめているようにも見えた。

(いや……閉じこめられているのは、僕たちか……)

自嘲気味に笑みを形作り、シンジは足下の墓を見つめた。
そこに刻まれている名前を見る度に、どこかつかみ所のない複雑な感傷に襲われる。その墓の主を、自分は憎んでいるのかどうかすらよくわからない。
しかし、これだけはいえる。墓の主は、悲しい人だったと。彼が今まで見たこともないほどに、悲しい人だった。
深く長く息を吐いて、シンジは墓の前で手を合わせている連れに声をかけた。

「……そろそろ行こうか、アスカ」
「……うん」

少女は、長い時間閉じられていた瞼を開き、立ち上がった。
墓に刻まれている彼女の叔父の名を、やはり複雑な面もちで見つめている。叔父を憎んでいたのか、慕っていたのか、そして今はどうなのか。それすらも自分では分からないのだろう。
シンジは手に持っていた花束をそっと墓の前に置いた。
隣で立ち尽くしている少女の肩に手をかけ、共に墓地を後にする。入り口のところで愛想のいい墓守が、彼らにそっと別れの挨拶を送った。

「……あたしのパパは、ラングレー家の長男だったの」

人通りのない細道を歩きながら、不意にアスカは話し出した。シンジは黙って、彼女の肩を抱く手に力を込めた。

「その頃のラングレー家では、叔父さんとパパのふたりのどちらを正統な後継者にするかということで一族が真っ二つに分かれてもめていたらしいわ。パパはそんな一族間の醜い争いを憂えて、20の夏に家を出た……結局、後継者になったのは叔父さんだった。全てはうまくいっていた……12年前、あたしとママが現れるまでは」

シンジは、アスカの体が震えていることに気がついた。少し逡巡したが、その体を抱きしめてやる。

「……アスカが話したくなければ……いいよ」
「ううん……話しておきたいの。あんたには、色々迷惑かけちゃったしね」

シンジの力に逆らわず、アスカは疲れ果てたかのように体を預けてきた。今まで張り詰めていたものが不意に消失してしまい、何を拠り所にしていいか分からなくなっているのだろう。

「ママは……あたしのことをパパと自分の娘だと言った。パパが死んで、まだ幼いあたしを連れてさまよって……最後に頼ったのが、パパの実家だった。ママは、きっと本当はラングレー家には行きたくなかったんだと思う。それでも、もう他に方法がなかった……もちろん、一族の人間がママの話を鵜呑みにしたわけじゃないわ。けど、直系のラングレー家の人間は、目に魔力の光があるの。叔父さんはそれがあまりに強すぎるんで封印してたんだけど……とにかく、それがあたしにもあったのよ。それで、あたしは一応パパの娘として認められた。叔父さんに子供がいなくて、直系の跡継ぎがいないということがラングレー家の悩みだったから、あたしは結構貴重に扱われたわ。けど……ママは違った。一族の人間にとって、ママはどこの馬の骨とも知れない女でしかなかったのよ。毎日コケにされて、まるで人間じゃないように扱われて……よく、家の隅で泣いているママを見たわ。そして……」

アスカは、シンジの胸に顔を埋めた。シャツの袖を、悪夢に怯える子供のように強い力で握りしめながら、

「ママは……ママは、死んだわ。あたしが8歳のときに……天井からぶら下がって、揺れてた……あれは、まるで人の体じゃないみたいで……何か、もっと別のおぞましいもののようで……あたしは、それをじっと見つめてたわ。瞬きもできなかった。ママの死に様を目に焼き付けなくちゃいけないと思った……あたしはああならないように。あたしは負けないように……だから、あたしはラングレー家の跡継ぎになった。あたしは天才じゃなくちゃいけなかった。努力家の叔父さんのようじゃなく、天才だったパパのようにならなくちゃいけなかった。だから、誰にも知られないように努力もしたわ。魔法学院にだってトップの成績で入学して、それからもずっとトップの成績を取り続けたし……あたしは魔法が出来れば、あたしの存在がみんなに認められると思ってた……なのに、叔父さんは……どうして……」

胸の中で途切れ途切れに話す彼女の背中を、シンジはただ黙ってさすっていた。今の彼女には、鎧のようにこり固められたプライドも、自分の存在理由を確立させるための情熱もない。あるのは、たった一つの壊れかけた心だけだ。シンジにすがることで、それを何とか守ろうとしている彼女を、シンジは心の底から愛しいと思った。自分には何もできないが、せめて彼女を支えてやりたい。そして、もし出来るのならば、彼女を守りたい。この世界の、彼女を傷つける全てからアスカを守りたかった。

「どうして……あたしは、一生懸命やってたのに……あたしは、認められたくて……ここにいてもいいって……それだけだったのに……」

シンジは、アスカの体にまわしていた腕に力を込めた。彼女の耳元に口を近づけ、そっと囁く。

「誰も、アスカを憎んでなんかいないんだよ……アスカの叔父さんだって、きっとアスカを憎んでいたわけじゃない。ただ……少し、嫉妬してしまったんだ。苦しかったんだよ……あの人も」
「でも……叔父さんを苦しめたのはあたし。そして……叔父さんを……殺したのも……」
「アスカ!」

突然大きな声をあげたシンジに、アスカの体がびくんと震えた。

「仕方が……なかったんだ。こうなることは、誰にも止められなかった……アスカのせいじゃないよ」
「でも……でも……あたしは……」
「何も、アスカが気に病む事なんてないんだ。たとえ魔法がなくたって、ラングレーの血を引いてなくたって、きっと君を必要としている人間はいくらでもいるはずなんだ。だから……もうそんなに、自分を責めないで欲しい……」
「シンジ……」

アスカの声は弱々しい。シンジは、彼女を救ってやれない自分自身にもどかしさを感じていた。闇の中で、キールと母親の血にまみれた両手を見つめて震えている彼女。周りの人間から作られた壁を、いつしか自分自身で作ってしまうようになってしまった彼女。そして、今、その壁の中で直に自分の魂を支えてもらうことでしか、自分自身を守りきることの出来ない彼女。

「シンジは……シンジは、あたしが……必要……?」

それは、まるで薄羽が地に落ちるような、静かな問いだった。シンジは、彼女をより力を込めて抱きしめた。願わくば、自分の答えが少しでもアスカを救えるようにと祈りながら。

「僕は……アスカのいない世界になんて、住みたいとは思わない……ずっと、アスカに居て欲しい……」

アスカは答えなかった。シンジの胸に顔を埋めたまま、赤子のような頼りなさで彼の体にしがみついている。シンジはそれ以上何も言えず、ただ、黙って彼女の涙を受け止めていた。

どれほど時間がたっただろうか。
アスカは顔を上げ、涙を拭い、シンジから体を離した。

「……ありがと。全部話したら、すっきりしちゃった……」
「アスカ。僕でよかったら……何か話したいことがあったら、何でも聞いてあげるよ。いつだって、どんなことだって……アスカが話すことなら」

僕にはそれしかできないから、と胸中でそっと付け加える。

「うん……」

アスカはもう一度涙を軽く拭うと、次の瞬間には笑顔を作っていた。まだ、少し無理しているような笑みだったが、それでも充分すぎるほどシンジにはまぶしかった。

「あたしには、まだ何も分からない……ママの思いも、叔父さんの本当の気持ちも。でも……」

静かに話しながら、壁に手を当てて歩き始める。シンジよりも数歩前に出ると、振り返って胸を張った。ガラスのように揺れる瞳に、誇り高い光が灯っていた。

「あんたが寂しがるから、とりあえずもう少し生きてみてやるわ」

空を、一羽の鳥がゆったりと横切っていった。
群からはぐれても、自らの進む道を見失わない、気高い姿だった。

 

 



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