自転車屋の前だ。 もうかれこれ何分、ここでこうしているのだろう。 「ねーシンジぃ、買って買って買ってぇ〜」 「駄目だよ。ミサトさんの給料日、まだまだ先なんだから」 「買ってったらぁ、んもー」 アスカは周囲に人影が少ない為か、まるで小さな子供のように駄々をこねる。 僕のシャツを引っ張って、頬を脹らませて……媚びるような上目遣いで。 「駄目だってば。恥ずかしいなぁ、もう」 珍しく食材の買い出しに付き合うと言い出したかと思えば、まばらな通行人 の視線も気にせず僕に甘えてくるアスカ。 僕がきょろきょろと周りを気にする様子を楽しんでいるようにも思える。 「アタシは恥ずかしくないもーん。買ってくれるんなら止めるけど」 まさか、こんな形で僕の羞恥心を突いてくるとは思わなかった。 例えこの場に誰もいなくても、僕は今のように全身の血を沸騰させていたに 違いない。 「だっ、だから……アスカぁ、勘弁してよ……」 「……本当に、駄目?」 きょるんっ。 「うっ」 「ねぇ、どーしても駄目?」 アスカは僕の腕を巻き込むように抱きしめると、自慢の胸を押し付けながら 瞳を潤ませる。 これはわざとだと……今だけの幻惑だとわかっていても、僕の心は最早止め ようがなかった。 「わ……わかったよ、何とかするよ……」 僕が陥落したと見るや、アスカの表情は一転して晴れやかなものに変わる。 つい今までの可憐で弱々しい仕草は消え、嬉しそうに僕の身体を抱いて。 「えへー……ありがと、シンジ♪」 この偽りの幸せはいつまで続くのか、そんな考えはすぐに霧散した。 嘘でもいい、何かもうアスカが抱きしめてくれただけで満足だよ母さん。 「うわー、ぴっかぴか! やったー!」 何故今になって自転車なのかと非常に悩んでいる僕を余所に、アスカは早速 キーを差し込んでロックを外す。 わくわくと喜ぶその表情は、家計に明いた大穴を一時的にでも埋めるに足る ものだった。 「だ、大事にしてね?」 「うん、勿論よ……シンジだと思って、大切に乗るわね」 それは嬉しいような悲しいような、何だか複雑な感謝の言葉。 アスカが本気で言ってくれているのなら、と僕は少しの期待を抱きつつ彼女 がハンドルを握る姿を眺めていた。 「さて、と……じゃぁシンジ、乗ってみせて?」 「へ?」 にっこり微笑むアスカは、疑いようがないくらいに本気の目をしていた。 僕が何の冗談なのかと口を開きかけると、アスカは段々と困ったように肩を すくめていく。 「アタシ、乗れないの……だからシンジ、アタシを乗せて走ってくれる?」 普段より下方から、アスカはすがるような視線で僕を見上げる。 恥ずかしそうに、真っ赤に頬を染めて。 「のっ、乗れないのにどうして買ったのさ?」 「乗れるようになるもん! だっ、だから……まずは感覚を掴もうと……」 「……はぁ」 僕は溜め息をつきながら、アスカからハンドルを受け取った。 そしてサドルに腰かけ、後ろに乗るようにアスカに促す。 「ほら、気を付けてね」 「うんっ♪」 アスカはキャリアにしっかりと座り、そして僕にしっかりとしがみ付く。 どんな状況になっているのかを確認する勇気もないまま、僕はペダルを踏み 込んで走り出した。 「んーっ! シンジぃ、もっと速くぅ!」 「無茶言わないでよ、2人乗りなんだから……」 アスカは急かしているつもりか、ぐいぐいと押すように身体を僕に預ける。 それが余計に僕の集中力を失わせ、自転車は徐々に失速していく。 「もっ、もう戻るよ? 後は自分で頑張ってよ、アスカ」 「えー? 乗れるようにしてよ、シンジぃ」 「アスカだったら、すぐに出来るでしょ? 最初は教えるけど」 「じゃぁ……乗れるようにしてくれるまで、シンジの後ろに乗せてもらうー♪」 僕の抗議を封じるかのように、アスカは中途半端に可愛らしい声を上げる。 さすがにそれはいくら何でも、と僕は自転車を止めかけたけど。 「駄目だよ。自分で練習しないと、ね?」 「えー? 駄目なの?」 「駄目」 僕はちょっと踊る気分を隠すように、再びペダルを強く踏み込んだ。 その背中に、アスカがぎゅっと抱き付きながら声をかける。 「ねぇ、どーしても駄目?」 「うん、駄目」 「どーしても本当に駄目?」 後ろに乗ったアスカに、今の僕の顔が見えてはいないだろうか。 もし見えていたなら、それでもこうやってお願いしてくれるだろうか。 「駄目ったら駄目だよ」 「……本気で駄目なの?」 アスカは言葉を重ねる毎に、僕を抱く腕の力を強めていく。 どこか楽しげな声音に聞こえるのは、風のせいかもしれないけど。 「心底駄目」 「えー、シンジの意地悪ぅ」 「こればっかりは駄目だよ、アスカ」 このやり取りは、何度でも……いつまでも繰り返すことが出来そうだった。 「そこを何とか、ね……シンジっ」 いくら拒否されても嬉しそうな、アスカのおねだりはいつまでも続く。<続きません……単発だし>