第三新東京市の身体障害者療養施設『セフィロト』のとある病室では、一組の親子の話し声が聞こえていた。
ベッドの上で、カーデガンを羽織り座っているのは、40代中頃の女性だった。
長く闘病生活を送っているのだろう・・・痩せ細った体には生気が感じられなかった。
しかしながら、その顔だちは美しく、純白の肌を包む紅茶色の髪は、眩いばかりに光沢を放っている。
それが彼女の女性としての矜持を示すかのように光り輝き、それ故に今にも消え入りそうな儚さを漂わせている。
「じゃあ、行って来るね。」
彼女の傍らに寄り添っていた彼女の娘は、輝くような笑顔を見せて立ち上がった。
母親譲りの紅茶色の髪は、今では母親よりも長く伸びていて、躍動感に溢れる彼女の肩でキラキラと揺れた。
「いってらっしゃい・・・気をつけてね・・・」
「うん。 今日は出来るだけ早く戻るわ。 ママもちゃんとリハビリの運動してるのよ。 アタシが目を離すとすぐさぼるんだから。」
母親に出来る事をするようにと、娘は常に口煩いまでに励ましていた。
母親はちょっとだけ困ったような顔をするが、娘に心配をかけまいと思い直して、努めて笑ってみせた。
「そうね・・・今日は温かいから、動かしやすいかもしれないわね・・・頑張るわ。」
「そうそう! その意気よ! 病は気からって昔から言うでしょ? 先生も経過は順調だって太鼓判押してたじゃない。 後はママのやる気一つなんだからね。」
娘は瑠璃色の瞳を、自分と同じ瞳の色を持つ、母親に近づけて微笑んだ。
「あなたには・・・苦労ばかりかけて・・・・・・ごめんなさい・・・こんなママを許して・・・・」
「ママ・・・」
彼女は思わず俯いた。 紅茶色の髪が大きく揺らめき、彼女の顔の前に赤銅色のベールとなって流れ落ちた。
「アスカ・・・ありがとう・・・」
「な、何言ってんのよ! 当たり前でしょう!? こんな事! アタシに悪いと思ったら、とっととリハビリをするの! いいわね!?」
娘は、片手で顔を軽く拭うと、眉を吊り上げて母親に言い放った。
惣流アスカ・・・彼女の多忙を極める一日が今日も始まる。
空から零れたストーリー
The Girl who comes from sky
D-part 表裏一体の思い
wrote by Tomyu
「よし、これでどうだっ!!」
僕は、作り上げた仕出し用の老人向け弁当を見下ろして、ガッツポーズを取った。
メニューはカニ詰めのアーモンド揚げ・カンパチとカジキマグロの刺し身・高野豆腐・サケのカニ身包み焼きなど8品。
この料理のポイントは、『栄養バランスが取れ、高齢者にも食べやすく、それでいて豪華に』というのをコンセプトにしている。
特に高齢の人になればなるほど、肉類は敬遠される。しかし、たんぱく質もきちんと摂取しなければならない。
さらに歯が弱っているお年寄りも多いので、できるだけ柔らかく食べやすくしている。
アーモンドも出来るだけ小さくスライスして、一口サイズに留めているのが僕の自慢だった。
「へぇーーーっ、美味しいじゃない。 ご飯は私的にはもう少し固い方がいいけどね。」
「お年寄り向けですからね・・・食べられなきゃ意味ないですよ。」
試食して感想を漏らすミサトさんに、僕は頭を掻いた。 ミサトさんに美味しいと言われてもあまり嬉しくないのはどうしてだろう?
「良い出来だわ。 これならお年寄りも喜んで食べるわね。」
リツコさんが、穏やかに微笑み、僕は初めて安堵の息を漏らした。
「リツコさんにそう言っていただけると、自信が持てます。」
「何よそれ、どう言う意味かしら?」
こめかみに青筋を浮き立たせたミサトさんが、不満そうに声をあげた。
「つまりそういう意味よ。」
リツコさんが間髪いれずにせせら笑い、店内は一瞬緊張に包まれた。
「言ってくれるじゃないの・・・私だってちゃんと味覚はあるわよ。」
憮然とした表情で、ミサトさんは大きなダンボール箱をドンと机の上に置いた。
「これ、シンジ君がオーダーした野菜よ。 流石に、有名な有機農法で作られた野菜は価格が高くて、コスト高になるけど、これでも立派な無農薬野菜・・・弁当には申し分ないわ。」
僕は、ミサトさんが調達してきた野菜を取り出し、生のまま一切れかじってみた。
日の光を十分に浴びて育った野菜の甘味が口の中に広がっていく。
トマト・きゅうり・いんげんと言った夏野菜は、この時期では流石にハウス栽培でしか採れないものの、それでもスーパーや業者が運んでくる物とは違った大地の恵みを感じる事が出来た。
「凄く美味しいです・・・こんな美味しい野菜をどこから?」
僕はその野菜の出所が気になった。 ここまで野菜を育て上げるなんて、生半可な事じゃ出来ない。
それこそ丹念に、絶えず野菜の成熟を見守っていかなければならない。
「私の大学の時の同級生でね・・・道楽野郎がいたのよ・・・ろくに勉強もしないし、学校にも来ない、ずーっと畑を耕して、スイカとか作ってる奴だったわ。 それで、そいつとうとう自分で農園を作っちゃったのよ。」
眉をひそめて呟くミサトさんに、僕は首を傾げていた。 経緯はどうであれ、ミサトさんは僕の注文に適う食材を調達してくれた。
それは、誇るべきであって卑下するようなことではないと思うのに・・・
「良い人脈をお持ちですね。 ミサトさん・・・」
が、帰って来た言葉は、それとは正反対な意味を持つものだった。
「良い人脈・・・じょ、冗談じゃないわっ! 誰があんな奴と!」
ミサトさんは、今にも湯気を噴出しそうなくらい紅潮して、僕を睨みつけた。
「そう言えば、葛城さん・・・・留守中にお電話がありました・・・加持農園の加持と仰る方からでした。」
マヤさんが、思い出したように電話メモを取り上げて、読み上げた。
「マイ・ハニーへ・・・家の野菜は君への心・・・大事に使っておくれ・・・いつか君と新しい種を・・・」
「ちょ、ちょっとマヤちゃん!? 何てこと言うのよっ!?」
マヤさんの言葉を遮るようにして、彼女からメモを引っ手繰ったミサトさんは、全文を読んで顔を真っ赤にしながら、細かく破ってごみ箱に放り込んだ。
「えっ、でも・・・必ず本人に、口頭で伝達してくれって・・・言わなければ野菜を全部返していただくと言われたもので・・・」
ミサトさんの行動に、恐れ戦いたマヤさんは、大きな目を潤ませて怯えていた。
「そんなの冗談に決まってるじゃない! もう、真に受けないでよっ!!」
可愛そうなマヤさん・・・・その時、電話口からひび割れんばかりに脅されていた声を聞いていた僕は、余りにも理不尽なミサトさんの抗議を受ける彼女を心底同情していた。
いったい、ミサトさんと加持さんと言う人に何があったのか・・・僕には知る由も無い。
「・・・無様ね・・・」
リツコさんの凍て付くような冷たい響きが、店内を駆け抜けていった。
ともあれ、何だか曰く有り気な野菜たちであったけど、美味しいことには変わりはない。
おまけに、安定的に供給してくれるという・・・その見返りは、ミサトさんが週末には居なくなるという事になってしまうのだけど、その時の僕には判らなかった。
お陰で、僕は再びあのBランチを製作する事が出来た。
前回のBランチと同じメニューで様子を見ることとし、価格を今迄より100円も引き下げた450円で設定した。
それでも、今までのBランチより利益率が高いのだから、良い事ずくめだった。
これならいける・・・僕はそう確信した。
だから、今日の販売にも俄然力が入ってしまう。
図書館裏のいつもの場所で、僕は買いに来た学生や教職員にBランチを勧めてみた。
「如何ですか? 新製品なんです。 食べ応えがあって腹持ちも良いですよ。」
しかし、売り方が悪いのか・・・買いに来た人達は怪訝そうに僕の顔を眺めた。
「とか言って、高い方売りつけるの?」
「いいよ。安い方で・・・」
「そんなに食べないもの・・・」
やはりAランチばかりが売れていく・・・ 流石の僕も焦燥感に包まれていた。
「そんな事は無いですよ。 カロリーも低めに作ってますから。」
しかし、誰もがセールストークだと思って、まともに取り合ってもくれない。
やっぱり・・・駄目なのかな・・・・
期待してただけに、僕の心は落胆の坂道を急速に転がり始めた。
再び悔しさだけが沸き起こってくる。 これだけ頑張ってるのに、どうしてなんだろう・・・?
僕が唇を噛み締めて俯いた時、聞きなれた威勢の良い声が飛び込んできた。
「Bランチ頂戴!」
僕は耳を疑っていた。 誰も目を向けない自分の弁当を指定してる事に気付くのに、数秒の時間が必要だった。
「えっ・・・?」
視界の先には、紅茶色の髪を持った彼女が息を弾ませて佇んでいた。
僕を真正面から見つめる瑠璃色の瞳があった・・・
「聞こえないのっ? Bランチよ、B! ABのBっ!」
畳み掛けるように言い放つ彼女は、台の上に置かれたBランチを指差して声を上げていた。
「はっ、はい! ありがとうございます!」
初めて自分の作った弁当が売れた!
僕は心底嬉しかった。
「早くしてよ! ホント、トロくさいんだから・・・」
弁当を袋に詰める僕を見つめ、名前も知らない彼女は、呆れたように呟いた。
僕はようやく袋に弁当を詰め、味噌汁をパックに移した。 初めてのお客さんに最高の笑顔を見せたいと思った。
「お代は、結構です。」
彼女には先日1000円を貰ってる。 そのままにしておくわけにはいかない。
「えっ?」
彼女は僕の行動に、驚いたように目を丸くした。
「先日Aランチお買い上げいただいて・・・おつり返してないので・・・」
僕は、小銭箱から100円玉と50円玉を一枚取って、彼女に渡した。
「Aランチ400円に、Bランチ450円・・・これはおつりです。」
彼女の手に、つり銭を握らせて僕はBランチを彼女に手渡した。
「・・・お人好しね・・・あんた・・・」
憎まれ口を叩く彼女だったけど、顔には今まで見たことがない笑顔が浮かんでいた。
その笑顔はとても綺麗で、僕は息を飲んだ。
彼女は、僕と視線が合うと慌てて顔を背けた。
やがてガサガサと財布を持ち出し、500円玉と50円玉を一枚ずつ取り出して、僕の手に握らせた。
「これは・・・?」
問い掛ける僕の目の前に、ソッポを向いた彼女がいた。 色白の頬を少しだけ赤らませて・・・
「最初に買ったBランチの代金よ! 美味しかったから払うのよ! 何か文句ある?」
吐き捨てるように言い放つ彼女の言葉が、僕の心を擽っていく・・・こんなに気持ち良い思いをしたのは初めてかもしれない。
「怪我のことはもういいわ・・・それよりも、絶対Bランチを品切れにさせないでよ!」
そう言い残して彼女は踵を返し、風のように立ち去っていった。 いつものように紅茶色の髪をたなびかせて・・・
「そんなに美味しいのかな?」
「試しに買ってみようか・・・」
「そうね・・・」
辺りにそんな声が聞こえてきた。
一目散に駆けて来て、脇目も振らずにBランチを買っていったという事に、周りにいたお客さんたちは興味をそそられたらしい。
一つ・・・また一つとBランチが売れていく。
気が付けば、二つのランチは全て売切れになっていた。
僕は、彼女が去った方角に向けて深々と頭を下げた。
「ありがとうございました!」
心の底からそう思っていた・・・
僕の頬を訳もなく涙が流れた。
「「「「弁当完売にかんぱーーーーい!」」」」
店に戻った僕達は、今日の成果を確認すると、缶ビールで祝杯をあげた。
初めて全ての商品が売り切れるという大戦果に、僕達は素直に喜んだ。
ミサトさんが一気に一缶を飲み干し、二つ目の缶を開けようとしている。
今日ばかりは、リツコさんもマヤさんも、お互いの健闘を称え合うようにビールを喉の奥に流し込んでいる。
「どったの? シンちゃーーーん! 大人しいじゃない・・・飲みが足りないんじゃないの?」
僕の首に腕を絡めて、ミサトさんが声をかけてきた・・・というよりは、絡んできた。
「そうですか? 僕なりに喜んでるんですけど・・・」
「だめだめ! おっとこの子なんだから、もっと陽気に喜びなさいよ。ほらっ、こうやってバンザーイッ!」
ミサトさんが強引に僕の手を握り、上へと振り上げた。
「ちょ、ちょっとミサトさんっ! やめてくださいよっ!」
「良いじゃないのよ〜! 社長が率先して喜ばなくてどうすんのよ!?」
ミサトさんの酒癖の悪さは聞いてはいたけれど、これ程とは思わなかった。
僕は完全にミサトさんのマスコットと化していた・・・いや・・・おもちゃかな・・・?
「それよりもシンちゃ〜ん、聞いたわよ。 ヒカリちゃんって女の子といい感じなんだって?」
ミサトさんが目を細めてニヤリと笑った。 まるで小動物をハンティングする猫のように黒い瞳は妖しく光った。
「はぁっ!? 何ですとぉっ!!」
余りにも突拍子の無い事を言われて、僕の声は素っ頓狂な声と共に裏返った。
「またまた、とぼけちゃってぇ! ちゃーーんと、証人が居るじゃないの?」
ミサトさんは、リツコさんと談笑しているマヤさんの細い手首を掴んで強引に引っ張った。
「きゃあ! ごめんなさい、ごめんなさいっ!!」
マヤさんは、条件反射的に声を上げていた。 何か、ミサトさんに折檻でもされてるのだろうか?
「マヤが全部白状してるんだからね。 観念なさいな!」
僕は苦笑してしまった。 というより、笑わずにはいられなかった。
女の子と一緒に喫茶店に行っただけで、恋人扱いされるのなら、世に『恋人』と呼ばれる男女は一体何倍になるんだろうか?
「嫌だなぁ・・・ヒカリちゃんには、ちゃんと恋人がいるんですよ。 この前は、相談事に付き合っただけです。」
僕は呆れたように言葉を漏らした。
「ほんとにぃ〜?」
ミサトさんは、にやりと笑って僕の顔を下からのぞき込んだ。
まったく小学生じゃないんだから・・・と思ったけどこれがミサトさんなんだと思い直して頷いた。
「はい。 僕だって彼女の恋人のトウジに殺されたくありませんしね。」
ヒカリちゃんの彼氏は僕の友人だ。名前を鈴原トウジと言い、ある意味腐れ縁でもある。
経済学部に進みバスケットボール部に入った彼はずっと硬派を気取っていたが、たまたま僕に会いにやって来た時に、その時一緒にいたヒカリちゃんに一目惚れをした。
それからのトウジ行動は凄かった。それまでのポリシーなど、まるで無かったかのように猛烈なアプローチが始まった。
そのため、怖れおののいた彼女が僕に相談しに来たこともあったけど、最終的にはトウジの余りにも強烈な熱意にほだされたのか、二人は交際を始めている。
でも・・・結局この二人の間を取り持ったのは僕だった・・・と思う。
「なーんだ、つまんないの。 シンジ君もちったぁ、浮いた話題ないの? 22歳にもなって彼女の一人も居ないなんて寂しくなぁい?」
それでもミサトさんは引き下がることなく、矛先を僕自身に変えて突っ込んできた。
「ほっ! ほっといてくださいっ!!」
自分の中で一番気にしていることをストレートに突かれ、僕は思わず声を荒げた。
「あらぁ・・・気にしてるの?」
ミサトさんとリツコさんがクスクス笑いながら僕の表情を見て楽しんでいた。
「気になんかしてませんっ!」
僕は、彼女たちの表情に抗うようにして、話題を強引に振り替えた。
これ以上、この話題で盛り上がって貰っては困る。
「それよりも、弁当が品質的にも認められたのだから、次のプレゼンには好材料になりますよね!?」
僕の言葉に、3人とも大きく頷いてくれた。
「じゃあ、明日は試作品を持って、僕とミサトさんで行きましょう。 きっと満足してくれますよ。」
「そうね! それじゃ、前祝いと行きますか!?」
ご機嫌モードに突入したミサトさんに勝てる者は居ない。 しかし、これ以上深酒されると明日の営業に響くので、社長権限で深夜に渡る宴会は中断できた。
3人とも近所に住んでいるので、ともかくこの場は解散となり、明日のために鋭気を養って貰うことにした。
「ふぅ・・・・」
僕は部屋に戻ると、突かれた身体をベッドの上に投げ出した。
「・・・・彼女・・・・か・・・・」
先ほどのミサトさんの言葉が、一人になると余計に強く僕の心を鋭利な刃物で抉るように貫いていく。
僕だって男だ。 ドラマや小説やコミックのように女の子と付き合って、デートとかしてみたいって思ってる。
でも、人の恋愛相談には乗ることはあっても、自分が主体になることはなかった。
『碇君って・・・他の男の人より全然話しやすいんだよね・・・凄くいい人だし♪』
『そうそう・・・男の人と話すのって、私結構身構えちゃうんだけど、碇君って、本当に友達と話すみたいにすんなり色々話できちゃうのよ。』
ゼミの仲間達にはこう言われている。結局、ヒカリちゃん達に言わせれば、僕に異性を感じないらしい。
それは言い換えれば彼女たちにとって、僕は男としてみなされていないということだ。
鏡に映る自分の顔・・・色白で髭は薄く殆どないし、おまけに童顔・・・睫毛も長い・・・体も細いので、まるで女の子のようにも見える・・・
誰かを好きになっても、結局は相談相手になるだけの僕。 わずかに好意を抱いていた女の子に抱きつかれたことはある。
でもそれは、僕に悩みをうち明けたから・・・苦しい胸の内を吐露し、感極まって僕の胸でシクシク泣くのだ・・・僕じゃない他の誰かのために・・・
せいぜい僕に出来ること・・・それは、肩を貸しその子の悩みを聞いてあげること・・・それ以上でもそれ以下でもなかった。
しかし、ふと思い返すと自分自身に問い掛けることがある。 『いい人』を演じてるだけが、僕の存在価値なのだろうか・・・?
途轍もなく嫌がられ、存在自体が許せない憎い奴の方が、相手には何時までも覚えていて貰えるのではないだろうか?
実際、僕に抱きついて泣きじゃくった彼女も、今では何処でどうしているのかさっぱり判らない。
最後に会ったのは2年前に街で仲良くデートしている最中のことだった。 彼女は僕に気付いたものの、すぐさま彼を違う方向へ連れて行って何処かへ行ってしまった。
まるで、見たくもないものを見てしまったかのような表情は、今でも忘れることは出来ない。
後日僕の携帯電話へ送りつけられたメールには、何行にも渡る弁解の言葉と、僕へのお礼の言葉が綴られていた。
『碇君のお陰で、忘れてた恋愛の気持ちを思いだした』と・・・『初めて自分で車を運転した時のような、緊張と興奮を思い出した』と・・・
結局彼女にとって僕は、それだけの存在なのかも知れない・・・そう・・・まるで教習車のような自分が居た。
彼女達の言う『いい人』とは、『都合のいい人』であり、『どうでもいい人』なのだ。
誰かを好きになっても、その相手が自分を好きになってくれる事なんて滅多にない。 彼女たちにだって、好きな人が居るんだし好みだってある。
ましてや、僕は女の子が狂喜乱舞し失神するようなスーパーアイドルでもない。 ユニークでウィットに富んだ話術で楽しませる事も出来ない。
スポーツをやっている訳でもなければ、歌や楽器が得意な訳でもない。 ただ、恋愛や生き方に臆病になっている人達へ自信を付けさせるだけの存在・・・
『大丈夫よ。シンジ君には、いつかきっと素敵な人が現れるから!』
僕のリアクションに、ミサトさんも悪いと思ったのか、僕を励ましてくれた。
いつか素敵な彼女が出来る・・・ 多くの友人にそう言われてきた。 だけど、本当にそうなのだろうか?
こと恋愛に関しては『教習車』でしかない僕に何ができるのだろう?
一度免許を取ってしまえば、誰もが格好の良いスポーツカーとか・・・使い勝手の良い軽自動車とか・・・多くの人が乗れてワイワイ騒げるミニバンやクロカンを愛車にして乗るんだ。
卒業したら、より良い刺激や感覚を求め飛び出していき、元へは戻れなくなる。 でも僕には今以上の事は出来ない。
合コンとか誘われても、大して女性と話す機会もなく、料理を取り分けたり最後に後片づけと会費の精算をしているのはいつも僕。
男女の機微に賢くて、女性の心を掴み取る男から見れば、なんて不器用な奴と笑われるような僕だ・・・
そんな僕に素敵な人なんて現れるのだろうか?
その時、僕の脳裏に一人の女性の顔が浮かんできた。
名前も知らない彼女・・・いきなり僕にぶつかってきた彼女・・・吹き抜ける風のようにやって来ては去っていく彼女・・・
その紅茶色の髪は陽射しの中でキラキラと煌めき、その瑠璃色の瞳は澄んだ空のように透き通っている。
僕の弁当を初めて買ってくれた人・・・彼女だったら或いは・・・?
そう思い至った瞬間・・・僕は我に返って何度も頭を振った。
「馬鹿な・・・僕なんかに見向きするわけないじゃないか・・・彼女が欲しいのは弁当であって、僕じゃない・・・自意識過剰なんだよ・・・お前・・・」
僕は枕を頭から被って布団に潜り込んだ。 考えるとキリがない・・・
今は仕事のことだけを考えよう。
寂しくない・・・なんて言ったら嘘になる。
だけど、基本的にマイナス思考の僕にとって、恋愛に関する事はまさに下り坂を駆け下りる要因以外の何者でもなかった。
僕は、沈み込む意識の中で目を閉じた。
明日のプレゼンには何としても、理事長に満足して頂きたいと思う。
それだけの努力はしてきたつもりだ・・・
しかし、沸き起こる不安だけはどうにも拭えなかった・・・自分の作ったものが果たして本当に売れるのかどうか・・・
その晩の僕はどうしてむすぐには寝付けなかった。
Produced on Nov.19th '01