第三新東京市の身体障害者療養施設『セフィロト』の待合室は、外来で来る患者や付き添いの人間で今日も混雑していた。

ある者は外来治療を行うため、またある者は薬を処方して貰うため、或いは、施設で寿命を全うされた人を迎えに行くため・・・

目的は多種多様だった。

その待合室で彼女は、静かに本を広げ食い入るように眺めていた。

老人の多いこの施設には職員を除くと珍しく若い女性で、何よりも紅茶色に輝く髪が、銀髪の多い中で異彩を放っていた。

老人達も興味深そうに彼女を遠巻きに眺めるが、彼女は一向に動じることなく黙々と本を読み耽っていた。

彼女には寸刻の時間も惜しかったのだ。

学業と仕事・・・それに母親のリハビリ。

余裕がないのは判っている。 しかし、彼女の能力を以てしてもこれ以上の事は出来なかった。

「惣流さん・・・惣流さん・・・会計窓口にお越しください。」

待合室に呼び出しのアナウンスが流れ、彼女は読んでいた本を勢い良く閉じて立ち上がった。

スラリとした体躯と揺れる髪・・・まるでファッションモデルのような姿に、行き交う人は彼女に視線を投げかける。

彼女はそれらを興味もなさそうに受け流して、窓口へと向かった。

「今月は10万5千円になります。 これが介護保険の請求書ですね。 診断書の書面料はこの中に含んでます。」

「はい。」

彼女は鞄から治療費の入った封筒を取り出して、事務員に代金を支払った。

毎月10万円の治療費・・・それが、彼女の母の療養に費やされている。 彼女が仕事で得てくる報酬は月収20万・・・ 

自治体の介護保険は満65歳以上の人間には給付対象となるが、彼女の母のように若くして介護が必要になってしまった者への給付は非常に渋い。

結局保険会社の介護保険だけが、彼女の家計を支えていることになる。 それでも生活は厳しかった。

そして、先日指導教授から突きつけられた最後通牒・・・彼女は今限界まで戦っていた。 生きるために・・・

「ごちゃごちゃ考えても仕方がないわ・・・やるしかないのよ・・・アタシ・・・」

彼女が屹然として視線を前に向けたとき・・・彼女の視界の中を一人の若者が横切っていった。

 

「あれは・・・?」

 

惣流アスカ・・・多忙を極める彼女の前に、意外な人物が現れた。

彼女はどうしてこの場所に彼がいるのか理解できなかった。

 

 

 


空から零れたストーリー


The Girl who comes from sky 
E-part
冬の晴れた日に
wrote by Tomyu


 

理事長は、黙々と僕の作った弁当を一品ずつ確認するかのように食べていた。

眉間に皺を寄せ、吟味するかのように・・・理事長室は重苦しい沈黙に包まれていた。

長身の体躯と銀色の髪を持つ壮年の男性。 それが、『セフィロト』の理事長である冬月さんだ。

「この料理のポイントは、『栄養バランスが取れ、高齢者にも食べやすく、それでいて豪華に』ということです。」

僕の説明を聞いているのかいないのか、冬月さんは黙々と橋を動かし続ける。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

僕もミサトさんも何を話して良いのか判らなくなり黙り込んでしまった。

その事が一層緊張に拍車を掛け、理事長室の中は息詰まるような緊迫感に包まれていた。

 

コトリ・・・

 

併せて用意してきたお茶を飲み干し、冬月さんは僕らを眺めた。

「・・・如何・・・・でしょうか? 理事長先生・・・」

剛毅で知られるミサトさんも、今日はまるで借りてきた猫のように大人しい。 おそるおそる冬月さんに声を掛けた。

「料理という点では、まだまだ改良の余地があるようだね。」

冬月さんは、表情を崩すことなく冷ややかに言ってのけた。

「お年寄りは、温かい食べ物が好きだ。 しかし熱すぎてしまうと箸を付けない・・・ウチの調理部もその辺りは凄く気を遣っている。」

弁当として一番のウィークポイントを冬月さんは指摘した。

それは製作段階から分かり切ってることだけに、僕は何の抗弁も出来なかった。

確かに工夫して、温かい弁当にする方法は幾らでもあるかもしれない。

しかし、低コストで栄養バランスが取れ、高齢者にも食べやすく、それでいて豪華に・・・という要求水準を満たすには何かを犠牲にしなければならないのも事実だった。

僕は考えられる方法を駆使して要求水準を満たしたと思う。

でも、この水準を上回る要求をされるのであれば、この商談は手を引かなければならないとも考えていた。

相手に言われるがまま、無理に価格を引き下げれば会社は赤字になるし、当然品質も保証できなくなる。

弁当を売れば売るほど赤字になる事だけはどうしても避けたかった。

「ご意見は御尤もだと思います。」

僕は静かに切り出した。

「しかし、健康面での栄養バランスは十分考慮に入れておりますし、冷たい食事でも召し上がれる食材を使っております。」

僕はミサトさんを促して、先日リツコさんが作り上げた栄養バランスチャートを冬月さんに手渡した。

「また、品質管理には専任の有資格者を当てておりますので、安心して召し上がれる弁当を供給致します。」

『専任の有資格者』とは無論リツコさんの事だ。

僕の説明に冬月さんは、チャート表を見つめて黙り込んでいた。

やはり、二つ返事という訳には行かないようだ。 まだまだ、改善をする必要があるってことだろうか・・・

そう思った瞬間・・・ 

 

「よし、良いでしょう。」

 

淡々とした声が理事長室に響いた。

「失礼ながら、貴社を試させていただいた。ウチとしても大事な患者さんの身体を預かってる身だ。健康管理に気を遣わない業者とは、おいそれと契約する訳にはいかないのでね。失礼した。」

冬月さんは、穏やかな笑顔を向けていた。

「では・・・?」

「ええ、喜んでお願いしますよ。 お弁当でこれ程美味しいと思ったのは久しぶりだ。」

「あっ、ありがとうございます!」

僕は深々と頭を下げた。 やはり契約が決まると嬉しいものだ。

「では、事務手続きはこちらに居る総務の青葉君に任せるとして、詳細は彼と打ち合わせをして欲しい。」

冬月さんは、傍らで待機している長髪の男性を紹介した。

「総務部長の青葉です。 よろしく。」

名刺を交換して、僕も具体的な話はミサトさんに一任した。

こと契約に関しては、僕よりもミサトさんの方が詳しい。

「では、私はこれから医師会の会合があるので失礼するよ。 では青葉君、後は任せる。」

「はい。」

立ち去る冬月さんに、僕とミサトさんは再び頭を下げた。

「どうもありがとうございました。」

心からその言葉が口から零れた。 この仕事を始めて、溢れるように言葉が出たのはこれで2回目だ。

本当は弁当を買いに来る全てのお客さんに、言わなければならない言葉なのに・・・・

それまでの僕は、やはりアルバイトの延長的な考えで居たのかもしれない。

今迄、売れたといっても、自分の作った弁当が売れたわけじゃない。

リツコさんの作った弁当を売っていた訳で、実感が湧かなかったのだ。 だからどうしても人ごとのように客観的になっていた。

それではアマチュアと何一つ変わらない。 

プロ意識とは、自分の会社で売る商品に愛着を持ち、良さをPRしなければ何にもならない。

恥ずかしながら僕は今、ようやくそのことに気がついた。

「担当取締役の葛城です。 では、今回の契約条項についてご確認させていただきます。」

ミサトさんが昨日作成した契約書を取り出し、青葉さんに契約条項の説明を始めていた。

その声が、僕に改めて社長としての決意を促すかのように聞こえていた。

 

 

「やったわね。シンジ君!」

理事長室を出て、玄関へ向かう長い廊下で、ミサトさんは右手の親指を立てて微笑んでいた。

「ええ・・・これもミサトさんのお陰です。 何とお礼申し上げていいか・・・」

「何言ってるのよ! 当たり前じゃない。 こんな事。」

彼女に下げた僕の頭を、ミサトさんはコツンと叩いた。

「仕事でやってるのだから当たり前なの。 シンジ君は良い物を作るのが仕事。 私はシンジ君やリツコが作ったのを売るのが仕事。だから、シンジ君は私にこう言えば良いのよ。 『ご苦労さま』ってね!」

ミサトさんは屈託のない笑顔で笑って答えた。

「で、でも・・・ミサトさんは僕より年上ですし、僕もまだまだ半人前だから・・・『ご苦労さま』だなんて・・・」

『ご苦労さま』と声を掛けるのは、目上の者が目下の者に言う労いの言葉だ。 恐れ多くてとても言えない。

ミサトさんも僕の言いたい事を理解したのか、にこやかに微笑みながら僕に答えた。

「良いのよ。シンジ君は社長さんなんだから。」

「か、勘弁してくださいよ! ミサトさんたちが居なかったら、こんな会社とっくに潰れてますよ。」

僕は慌てて手を振った。

「あはははっ、シンジ君らしいわね。 じゃあ、『お疲れさま』でどう? それなら良いでしょ?」

確かにそれなら気軽に口に出せる。 『お疲れさま』なら、同格の人や目上の人にも使える。

「そうですね・・・お疲れさまでした。 ミサトさん・・・」

「はい、社長! お疲れさまでした。」

ミサトさんがペコリと頭を下げて、にっこり微笑んだ。 僕もその笑顔につられて笑っていた。

「さぁ、これからが大変よ。 何せ我社始まって以来の大口のお客様だからね。 仕入れとか手配しないと。」

「ええ・・・忙しくなりますね。」

これから当日の納品に向けて、手配しなければならないことが山ほどある。

でも、今この瞬間だけ、達成感に浸っていたいと思った。

「でも、その前に祝賀会ね!」

ミサトさんは軽くウィンクして笑っていた。

「今日は飲むわよ! 覚悟は良いわね!」

「は、はぁ・・・」

僕は突如として疲労感に襲われた。 

飲んべは何かと理由をつけては飲みたがると言うけれど、どうやらそれは本当らしい。

帰る足取りが急速に重くなるのを感じていた。

玄関までの廊下がもっと長くなれば良いのにと思って、顔を上げた瞬間・・・僕は息を飲んだ。

 

あの人だ・・・

 

「ん? どうしたの?」

怪訝そうに僕に問い掛けるミサトさんの向こうに、紅茶色の髪をした彼女が歩いていた。 

彼女も僕の姿に気付いて、立ち止まっていた。

どうしてここに居るんだろう?

「ミサトさん、先に戻ってください。」

僕は、ミサトさんに伝えると、引き寄せられるように彼女の方へと向かっていた。

「ちょ、ちょっとシンジ君!」

ミサトさんの声が届くが、僕の足は止まらなかった。

彼女と話がしたい。 それだけが僕の心を占めていたから・・・

彼女は瑠璃色の瞳を見開いて、僕の事を見つめていた。

「どうも、こんにちは!」

僕は彼女の前に行くと、頭を下げて声を掛けた。

「あら・・・弁当屋じゃない・・・」

彼女が静かに口を開いた。 驚いたように見開いていた瞳は、もう元に戻っていて、いつもの冷ややかな視線に戻っていた。

「ええ、ちょっと仕事で来てたんです。 そこでお客さんを見かけたのでご挨拶にと思って・・・」

今日は珍しく逆だった。 息を弾ませていたのは僕の方・・・

彼女はいつもとは違って、落ち着いていた。

「そう・・・良い心掛けね。」

冷ややかな視線はそのままに、彼女は僕に答えてくれた。

「今日はどうして此処に?」

僕はどうして彼女がこの施設に居るのか判らなかった。 名前も知らないのだから無理もないけど・・・

「アタシがこんな所に居るのが変って言いたいの?」

気に障ることを言ってしまったのだろうか・・・今日も彼女は僕に突っかかってきた。

「いえ・・・気に障ってしまったのならお詫びします。 ちょっと気になったものだから・・・お客さんのような元気な方がどうして此処にいるのかが・・・」

僕は自分の気持ちを素直に口に出していた。 いつから僕はこんなに饒舌になってしまったのだろう・・・

自分でも不思議だった。

「そう・・・」

彼女は静かに答えた。 その顔には何か言いたげな素振りが浮かんでいた。

僕は暫く躊躇っていた。 もっと彼女に立ち入って良いものかどうか・・・

暫しの沈黙が流れ、僕は息苦しさを覚えた。 この空気を流すために何かしたい・・・でも、もっとこの人の事を知りたい。

「あの・・・」

僕はようやく口を開く事に成功した。

「何よ?」

「立ち話も何ですから、お茶でも如何ですか?」

気が付けば僕はとんでもない事を口走っていた。 そこら辺のナンパ男と変わらない事を僕は言っていた。

「はぁ!? あんたこのアタシをナンパしようってぇの!?」

素っ頓狂な声を上げて彼女が僕を見据える。 僕は彼女の顔を正視できず俯いていた。

「ち、違うんです! あの・・・も、もっとお客さんの事を・・・し、知りたくて・・・ご・・・ご迷惑なら・・・良いんです・・・ごめんなさい。」

完全に彼女に呑まれていた。 何て事を言ってしまったんだろう・・・僕の中に後悔の二文字が渦巻いていた。

そんな僕の煮え切らない態度に腹を立てたらしい。 彼女は腕組みをして僕を睨みつけた。

「ったくもう! どっちなのよ!? 誘うの? 誘わないの?」

彼女が苛立ちを隠せないように、右足をパタパタと鳴らしている。 その音は僕に決断を促していた。

「・・・お、お願いします・・・」

僕は、意を決して彼女を誘ってみた。

「だったら最初からそう言えば良いのよ! ウジウジしちゃってさぁ!ホント、トロくさいんだからっ!」

彼女はそう言い放つと出口に向かってスタスタと歩き出した。

僕は慌てて彼女の後に付いて行った。

紅茶色の髪が風になびいてキラキラと輝く。 いつも見送る後ろ姿だったけど、今日は激しく上下に揺れることなくそよ風に優しく揺れ動いて綺麗だった。

彼女は、幾つかの角を曲がり、小さな喫茶店で立ち止まった。

「ここに入るわよ。」

彼女は振り返って僕に声を掛けるとさっさと店の中へと入っていく。 

店のドアベルが軽やかな音を立てて鳴り響き、アンティーク調の調度品が僕を待ちかまえていた。

「あら、アスカちゃん。 いらっしゃい!」

店のオーナーらしき女性が、にこやかに彼女を出迎えていた。 軽くウェービングされてはいるが、彼女と同じ紅茶色の髪が印象的だった。

「こんにちは! おばさま! いつものね!」

オーナーは後から入ってきた僕の顔を見ると怪訝そうな顔をしていたが、彼女は全く動じる事なくさっさと席に座ってオーナーに注文をしていた。

「え、ええ・・・アスカちゃん。 あの子誰?」

声を落としているつもりなのだろう・・・しかし、その声ははっきりと聞こえてて、僕はなんとも居心地が悪くなった。

「ん・・・大学でいつも買ってる弁当屋よ。 偶然ママの所で会っちゃってさ・・・ナンパされちゃった。」

荷物を傍らに置いてオーナーと談笑し始めめる彼女に、僕は戸惑うばかりでどうして良いのか判らなかった。

やっぱり来るべきではなかったのだろうか・・・そんな思いに僕は囚われていた。

「ちょっと! 何ボーッと突っ立ってんのよ! 邪魔でしょ、座んなさいよ!」

その時、突然響く彼女の声に、僕の体は電流が流れたようにビクッと反応していた。

「は、はい!」

弾かれたように僕は、彼女の反対側の籍に腰を下ろした。

そんな僕が滑稽だったらしく、オーナーはクスクスと笑って、僕にお冷やを出してくれた。

「あらあら、これじゃどっちがナンパされたのか判らないわね。 えっと彼氏、名前は?」

「えっ・・・知らない。 いつも『トーヘンボク』とか『弁当屋』ってしか呼んでないもん。」

問い掛けるオーナーに、彼女は首を竦めて軽く舌を出して笑って答えた。

「碇です・・・碇シンジ・・・第三新東京大学第一文化学部の4回生です。」

僕は彼女とオーナーに自己紹介をした。 知り合ってから名前を言うなんて変な気分だったけど、今まで機会がなかったのだから仕方がない。

「えっ・・・あんた弁当屋じゃないの?」

彼女が驚いたように目を丸くして僕に尋ねた。

そりゃあ、そうだろう・・・僕は自分の大学に弁当を売りに来ているのだから、知らない人から見れば業者と言われるのは当然だった。

「ええ・・・成績は下から数えた方が早いですけど・・・一応・・・」

僕の返答に、彼女は呆然としていた。 いったいどうしちゃったんだろう? 僕には訳が判らなかった。

「あら・・・じゃあアスカちゃんと同級生ね・・・」

オーナーが笑顔で彼女を指差した。

そうか・・・名前は『アスカ』って言うんだ・・・良い名前だな・・・その時僕は素直にそう思った。

「ところで、ご注文は何にします?」

オーナーの声に僕は慌てて彼女に尋ねた。

「アッサムのセカンド・フラッシュって置いてありますか? あればそれをミルクティーで頂きたいんですが・・・」

「あら、メニューも見ないのに詳しいのね。 ええ、あるわよ。 ちょっと待っててね!」 

僕の注文に、オーナーは嬉しそうに答えて、カウンターの奥へと引っ込んでいった。

辺りには再び静寂が訪れ、僕は緊張した。 何か話題を・・・そう考えれば考えるほど、僕の頭の中では緊張が高まっていた。

「・・・碇って言ったっけ・・・」

先に沈黙を破ったのはアスカさんだった。

緊張に耐えられなかったのは、彼女も一緒だったのだろうか・・・お冷やを軽く口にすると再び僕を見つめて問い掛けてきた。

「ゼミは・・・何処なの?」

「ええ・・・加賀教授のゼミです。 加賀先生は女子学生には丁寧ですけど、男にはあまり熱心に教えてくれないんです。 卒論のテーマも色々相談したんですが、まともに取り合ってくれなくて・・・拍子抜けしちゃいました・・・」

僕は苦笑せざるを得なかった。 あの先生ほど男女差別する人は居ないと思う。

女性には懇切丁寧に・・・男には味も素っ気もなく・・・教えるので有名な先生だ。 

それでも僕がそのゼミを選んだのは、比較文化学や欧州思想史以外の他に専攻したい科目が特になかったからだ。

「そう・・・」

彼女は窓の外を眺めて小さく呟いた。

が、突然目を輝かせて僕の方へ振り向くと身を乗り出してきて僕に尋ねた。

「加賀ゼミだったらさ!『惣流』って馬鹿女いるよね? 飛び級で入ってきた癖に2年も留年してる超有名人が居るでしょ?・・・アイツの噂何か聞いてる?」

「はっ?」

僕は一瞬耳を疑った。 まさか彼女からそんな話が出るなんて夢にも思わなかった。

「だってさ・・・今まで全然ゼミに出てこなかったんでしょ? それで、卒業近くなって慌てて出てくるなんてさ・・・他の生徒馬鹿にしてんじゃないのかな? アイツ・・・」

その言葉は、彼女の口から聞きたくなかった。 少なくとも僕が作ってくれた弁当をまともに評価してくれたのは彼女が初めてだったから・・・

他愛のない噂話かも知れない。 でも、僕は何故だか腹が立った。

確かに、僕達のゼミには男は僕一人しかいなかった。 女の園のような感じがするが、何とも居心地が悪かったのは事実。

女性の集団に見られる現象・・・上手く言葉が見つからないけど、陰湿な感じ・・・が、見え隠れする。

表立って批判しない代わりに影で噂話を掻き立てるような、そんな感じがする。

僕が居る時はある意味中和剤になっていたのかもしれないけど、僕が顔を出さなくなった途端になにやら問題が発生したようだ。

人の口に戸は建てられないから、色々と話が広まっているのだろう

同じゼミであるヒカリちゃんからも先日相談されたこともあるし、陰口を叩く気持ちも分からなくもない。

でも、全然関係ない彼女に、興味本位とは言えそこまで悪し様に言われる筋合いはない筈だ。

「そんな事言うもんじゃないよ! だいいち失礼じゃないかっ! 知りもしない人を悪しざまに言うなんて良くないよ!」

僕は怒っていた・・・怒っているということが自覚できないほどに怒っていた。

それは僕自身にも同じような出来事があって、学校中の同級生全員に中傷された傷が痛むから・・・だと思う。

中学の時・・・僕には好きな女の子がいた。 

でも、その子は学校中のアイドルだった。 美人で成績が良くスポーツ万能・・・おまけにピアノが得意・・・どんな学校にも一人はいる女の子だ。

僕はそんな女の子に恋をした。 結局自分の気持ちを言い出すことも出来ず、彼女への想いを一つの詩に書いて認めてみた。

何の取り柄もない僕なんかにその子が振り向いてくれる筈もない。だから陰でずっと想っていたかった・・・それだけだった。

しかしそれがどういう訳か、学校の黒板に張られていた。 

僕がその子が好きだというのが、いっぺんに広まり冷やかしと彼女に想いを抱く他の同級生達の嫌がらせを受けた。

憎まれ蔑まれ露骨に嫌悪の表情を向けるその女の子・・・

ありもしない事実をまことしやかにでっち上げ言いふらす級友達・・・

そしてその詩を僕の部屋から持ち出して、学校に張り出したのは、僕が親友だと思っていたクラスメイトだった。

その親友はその女の子の彼氏と噂になっていた男だった・・・その子と同じように成績も性格もよく爽やかなイメージで、人気投票ナンバー1だった。

僕が見てもお似合いだと思っていた。 だから僕は、自分の気持ちを自分の中に押し込んだつもりだった。 それなのに・・・

 

『お前は俺の後をついてくりゃ良かったんだよ! 俺の前を歩くんじゃねぇ!』

 

それは、僕が親友だと思っていた彼の姿は何処にもなかった。 彼女を想うことすら、彼には不愉快だったのだ。

 

『たかが、碇のくせに・・・生意気なんだよ!』

 

彼にとって僕は単なる引き立て役だったのだと言うことを、今更ながらに思い知らされた。

その時彼から聞かされた言葉は、8年経った今でも拭い去ることは出来ない。

それまで仲良くしていた友達も僕を見捨てた。 相談した教師にも騒動の原因となった僕が悪いと言われた。 

誰もが僕に関わり合いになるのを避けるようになり、僕は本当に独りになっていた。

もう学校なんか行きたくない・・・そして僕は登校することを拒み、いわゆる『落ちこぼれ』になっていた。 

そんな僕を連れ、父さんと母さんはオーストラリアへと引っ越した。 

父さんは単なる気まぐれだと今でも言い放ってはいるが、僕の状況を鑑みた結果決断したのだろうと今でも思う。

何処まで行っても平原・・・高い空・・・日本のゴチャゴチャした風景とは違う、ダイナミックな広大さが其処にはあった。

「シンジ・・・時計の針は戻すことは出来ん・・・しかし、進ませ方は幾らでもある。 お前が歩む人生と同じようにな・・・」

父さんはそう言って、僕を地元の学校へと放り込んだ。 そこでは誰もが僕を受け入れてくれた・・・自分から話しかけてくる限りにおいて・・・

自発的に何かを出来ない人間は軽蔑される・・・しかし、何かをやろうとして頑張っている人には応援してくれるだけの度量がこの国にはあった。

2年間の生活を経て、僕達一家は帰国した。 新たに建設された第三新東京市に・・・

そこで僕はトウジと知り合い、いっぺんに意気投合してしまった。

きっとトウジの竹を割ったような性格に、裏表のなさを感じていたせいかもしれない。

だけど、そんな僕の心の奥底には、人を信じたいという気持ちが流れていたせいだと思う。

今僕の目の前にいる彼女に、『お人好し』と言われたのは、そんな僕の行動を読みとってのことだと思った。

彼女なら、きっと公平なものの見方をしてくれるのではないかと、僕は勝手にそう思っていた。

だからこそ、僕は彼女の言葉が信じられなかった。

その噂話をしている人が、彼女だったから・・・

僕には彼女が急激に遠くの存在になっていくように思えてならなかった。

「僕、帰るよ・・・さよなら・・・」

僕は荷物を持って席を立とうとした。その時、彼女の声が短く響いた。

「待って!」

振り向いた僕の目に浮かぶ彼女は、今まで見たことがない彼女だった。

瑠璃色の瞳は驚いたように見開かれ、彼女は何度も首を左右に振っていた。

「・・・ごめん・・・なさい・・・軽率だったわ・・・」

彼女は僕に再び座るように促して、僕に謝った。

僕に謝ったところで仕方がないと思うのだけど、彼女は真剣な眼差しで僕を見つめていた。

「ほんと、軽率だよ・・・僕は人の噂話って大嫌いなんだ・・・だって僕は惣流さんって人のこと、知らないし・・・口も利いたことない・・・そんな人の事をとやかく言う資格なんて僕にはない・・・ただ・・・」

「ただ? 続けて・・・」

彼女が穏やかな眼差しを僕に向けていた。

僕は氷水を飲み干して、喉を潤してから話を続けた。

「・・・確かに彼女の話は耳にする・・・でも、僕は思うんだ。 華々しく入学したはいいけど、遊び惚けてる人が本当に大学に在籍するのかなって・・・留年を2回もやってまで。きっと何か事情があるんだろうって・・・所詮人ごとだと言ったらそれまでだけど・・・僕もこうやって卒論と仕事に追われてたし・・・きっとこんな事情があの人にもあるんじゃないかって・・・そう思う。」

解ってくれるとは思っていない。 綺麗事で飾り立ててると言われても仕方がない。

でも、僕はそうやって今まで生きてきた。 このことについては、今更生き方を変えようなんて思わない。

「ほんと・・・お人好しね・・・あんた。」

彼女は、はにかみながらにっこり微笑んだ。

 

「アタシがその惣流アスカよ・・・」

 

僕は一瞬、彼女が何を言っているのか理解できなかった。

やがて、ようやく事態を飲み込んでいくと思わず声が上がっていた。

「えっ!? えええええええぇっっ!?」

何も言えなかった・・・彼女はそんな僕が面白いらしくケラケラと笑っていた。

「大学に居る殆どの男は、アタシの気をひこうとケチョンケチョンにけなすけど、このアタシに説教垂れたのあんたが初めてよ。」

その時、雲の切れ間から陽が差し込んできて、紅茶色の長い髪が一気に当たり、まるでティーカップの縁のように金色に輝いた。

その陽射しの中で微笑む彼女は本当に綺麗だった。

「す・・・すみません!・・・利いた風な事を言ってしまって・・・」

僕はどうして良いのか判らなくなり、ひたすら彼女に頭を下げた。

「気にしないで・・・ちゃんと言わなかったアタシも悪かったんだから・・・」

アスカさんは大きく伸びをしてにこやかに微笑んだ。

僕は改めて彼女を見つめた。 まさかこの人が惣流さんだったなんて思いもしなかった。

確かに綺麗だし、ミスコンにノミネートされてもおかしくない・・・僕の作った弁当を正当に評価してくれる公平性もある。

僕の聞いた惣流さんのイメージとは大きなギャップがあることに気が付いた。 やはり、噂なんて信用できないシロモノだという事を改めて認識させられた。

彼女には、色々聞いてみたいことがあった・・・でも、どうしても聞くことができなかった。

飛び級して入学した彼女が2年も留年している・・・その理由を・・・

その時オーナーが、ミルクティーを二つ持って戻ってきた。

「はい、おまちどおさま! 碇君って、案外アスカちゃんと気が合うかも知れないわね。 アッサムのセカンドフラッシュを頼むなんてね。」

ミルクティーを二つテーブルの上に置いて、オーナーはにっこり微笑んだ。

「お、おばさま! 変なこと言わないでよ。 このトーヘンボクが誤解したらどうするのよ!」

惣流さんは顔を真っ赤にして抗議していた。 そうかもしれない・・・知らず知らずの内に変に期待しちゃってるのかもしれない・・・

僕は何も言わないで、静かにお茶を飲んだ。

クセが少ないのに、紅茶独特の強い味わいを持つこの茶葉は、ミルクを流しても風味が損なわれることはない。

寒いこの季節には、とりわけ温かいミルクティーが飲みたくなる・・・そんな季節にぴったりのお茶だと思う。

「ねぇ・・・」

惣流さんが、ティーカップに両手を添えて静かに僕を眺めていた。

「はい・・・」

「・・・どうして何も聞かないの?」

「えっ?」

僕は思わぬ発言に驚いて、カップを落としそうになった。

寄れば引く、引けば追う・・・そんな彼女の心が読めなくて、僕は戸惑っていた。

「だって、アタシをナンパした時、アタシの事を知りたいって言ってたじゃない。」

「そ・・・そうですが・・・実際に面と向かうと何を聞いて良いのか・・・判らなくなってしまって・・・」

いったいどれ位の距離を置いて接すればいいのか、僕は感覚を掴みきれないでいた。

「留年の事・・・?」

惣流さんは静かに口を開いて尋ねてきた。

その口調に、僕は心の中を見透かされたような気がして身震いをしていた。

「そうよね・・・口さがない連中は、惣流は遊びを覚えて身を持ち崩したなんて言ってるんでしょ?」

両手を後ろ手に組んで彼女は天井を見上げて呟いた。

「い、いえ・・・そんな事は・・・」

僕が慌てて否定しても、彼女に軽く笑われてしまった。それは彼女自身が判っていたのだろう・・・

「いいのよ。判ってる・・・弁解はしないわ。 結局は結果が全てだもの・・・結果が出せなかったから、酷評されてる・・・それだけの事よ。」

「惣流さん・・・」

僕はそれ以上言葉が出なかった。 寂しげな眼差しを向ける彼女の瑠璃色の瞳が朧気に揺れていたから・・・

胸が締め付けられるような苦しさを感じていた。

「でも・・・あの時あんたが、本気でアタシを叱ってくれたとき・・・凄く嬉しかった・・・お弁当もそう・・・アタシのこと覚えててくれて、お釣り返してくれるなんて・・・って思った。」

彼女はちょっとだけ頬を染めて僕を見つめた。

はにかむような笑みを浮かべ、見つめる彼女の視線が恥ずかしい・・・僕は頬が上気しているのを自覚せずには居られなかった。

「ねっ、あんたの事シンジって呼んで良い? アタシの事アスカって呼んでも良いから。」

彼女はにっこり微笑んで僕の前に身を乗り出してきた。 その表情には先ほどのはにかんだ様子はない。

目まぐるしく変わるものだと僕は改めて実感していた。

「そ、それは・・・構いませんけど・・・」

「敬語なんて使わないでよ。 アタシ、留年したって言っても飛び級してるんだから、シンジと同い年なのよ。 もっとも・・・シンジが浪人してんのなら話は別だけど?」

惣流さんは、ニヤッと笑って僕を見た。

「ご、ごめん・・・気をつけるよ・・・ほら、こういう場合やっぱり『先輩』ってイメージがあるから・・・慣れなくて・・・」

「アタシが良い!って言ってるんだから、それ以上ゴチャゴチャ考えないの。」

何とか答えようとする僕の言葉を打ち切って、彼女は言い切った。これ以上論議してても、僕に抗弁する理由はない。

僕は恥ずかしいけれど、彼女の名前を呼んでみた。

「わ・・・わかったよ・・・ア、アスカ・・・」

その内慣れるとは思うけど、呼び捨てで女の子の名前なんか呼んだこと無いから、違和感を強く感じてしまう。

彼女はそんな僕を可笑しそうに眺めていたが、ふと思い出したように僕に声を掛けてきた。

「ねぇ、シンジ。 一つ聞いても良い?」

「ん?」

「どうして、弁当屋やってるの?」

単純だけど、僕自身に直接投げかけられた言葉は、とても重要な気がしてならなかった。

「うん・・・ある意味一種の自己満足だね・・・」

「自己満足?」

「うん。 弁当を作るときいつも考えるんだ・・・これを食べる人はどんな風に味わって食べるのか? どんな思いで食べてくれるんだろう?って・・・そう考えると張り切ってしまうんだ・・・ お客さんの為に最高の弁当を作ってみようって・・・でも、こんなの自己満足だよね・・・今日のコンペでそう思った・・・」

「コンペ?」

僕の独白に、アスカは確認するかのように尋ねてきた。

決して茶化したりしない、アスカの瞳が直ぐ其処にあった。

「今日僕が、彼処にいたのは、月に一度開かれる園遊会で出される仕出し弁当の売り込みのためだったんだ・・・」

僕はその場で感じたことを口にしていた。

プロ意識とは、自分の会社で売る商品に愛着を持ち、良さをPRしなければ何にもならないことを・・・

恥ずかしながら僕は今、ようやくそのことに気がついたことを・・・

「だから今は凄く充実してる・・・その・・・自己満足じゃなく、本当に食べる人が喜んでくれる弁当を作りたいって・・・そう思ってる。」

「ふうん・・・確かにシンジの作ったお弁当って・・・他のより断然美味しかった・・・やっぱり作る人の熱意って大事なんだね。」

「ありがとう・・・そう言ってくれたの、アスカが初めてだ。」

確かにそうだ。 最初に僕の作った弁当を食べてくれて、リピーターになってくれたのもアスカだった。

「そりゃ、そうよ。 他の連中は純粋に学生だもの・・・プロ意識って凄く重要だと思うわ・・・」

アスカは笑って答えると、思い出したように時計を見た。

「あっと、いけない! そろそろ時間だわ。 この後取材する予定だったんだ・・・」

「取材?」

「うん・・・アタシこんな事やってるの・・・今は無名のインディーズだけど、将来は業界随一のクリエイターにのし上がってみせるわ。それがアタシの夢。」

差し出された名刺。それには、『スカーレット・オフィス アスカ・ラングレー』と書かれていた。

「へぇー・・・格好良いな・・・でも、この『ラングレー』って?」

僕は、訳が判らす首を傾げた。 彼女は笑っているだけで答えてくれようとはしない・・・

聞かないほうが良いのかな・・・僕はこれ以上の詮索を止めることにした。

「よかったら、チラシとか弁当箱のパッケージングデザインをやっても良いわよ。 今なら格安で引き受けるけど。」

アスカはVサインをして軽く、ウィンクして立ち上がった。

道理で忙しい訳だ・・・僕は彼女に今迄以上に親近感を覚えていた。

「ははは・・・社内で相談してみるよ。 僕の一存じゃ決められない事だから・・・」

「うふふっ! 冗談よ。 それじゃあね!」

アスカは屈託の無い笑顔で僕を見ると、伝票を取り上げようとした。

「い、良いよ。 今日は僕が誘ったんだから、僕が払う。」

僕は慌てて手を伸ばした。 少しぐらいは良い所見せておきたいと思ったのかもしれない。

「「あっ・・・・」」

伝票を掴んだ瞬間・・・彼女の細くてしなやかな手が、僕の手を触れていた。

優しい感触だった・・・温かかった・・・

彼女は弾かれたように手を引っ込めて、もう一つの手で庇うように立ち竦んでいた。

「ご・・・ごめん・・・」

やましい気持ちは無かった・・・でも、変に意識させてしまった事が申し訳ないと思い、僕は思わず声を出した。

アスカは一瞬瑠璃色の瞳を見開いて僕を見つめたが、気を取り直すかのように僕に声を掛けた。

「い・・・良いの? ご馳走になっちゃって・・・」

「うん・・・」

「あ・・・ありがと・・・」

小さな声だった。 照れ臭そうなそんな素振りを見せながら、彼女は小さく微笑んだ。

「じゃあ・・・アタシ・・・行くね・・・」

「それじゃ・・・また・・・」

僕は軽く手を振って、立ち去る彼女の姿を見送った。

が、不意に彼女が振り返り、僕に小さく声を掛けた。

「シンジの手・・・冷たいね・・・少しマッサージした方が良いわよ・・・水仕事が多いんだから・・・」

「うん・・・そうするよ・・・」

 

僕は少し・・・いや・・・とても、こそばゆい気持ちになっていた。

惣流アスカ・・・僕は彼女の事が好きになり始めていた。

 

 

 

TO BE CONTINUED...

Produced on Nov.22th '01