第三新東京大学の図書館裏の芝生は、天気が良い日には、弁当を広げるには絶好の場所だった。

ここ数日冬晴れの日が続きこの場所を利用する人間も多かったが、冬型の気圧配置に戻るとやはり外での食事は敬遠され、屋内で昼食を摂る事が多くなる。

従って、ランチタイムも終わる頃には、僅かに残っていた人たちも思い思いの場所に去っていき、辺りには褐色に変色した芝生と主の居ないベンチだけが残っていた。

そんな人気の無くなった芝生の広場に、一組の男女がやって来た。

女性の紅い毛糸の帽子からは、紅茶色の髪が伸び、殺風景な場所に一つの彩をさしていた。

後に続く男性は、手に二つの弁当箱を下げており、女性を気遣うかのようにベンチの上にハンカチを広げた。

「なに、格好つけてんのよ。 全然似合わないわよ・・・馬鹿シンジ・・・」

憎まれ口を叩く彼女だったが、その顔は笑顔で満ちあふれていた。

「自分でもそう思ったよ・・・全然らしくないね。 こんなの・・・」

毎日のように学校に来るようになった彼女は、シンジの休憩時間に合わせて一緒に食事をしていた。

その場で意見を言ってあげるというのが彼女の弁。

しかし、食事が終わると、彼女は風のようにキャンパスを飛び出していくのだった。

わざわざシンジと一緒に食事をするために学校に来ているようなものと、客観的な視点で見れば誰もがそう思う。

しかし彼女は、その事を耳にしたら即座に否定するだろう・・・

 

「アタシはこの食事で一日の栄養バランスを摂ってるの! それで、このトーヘンボクに注文を付けてるだけ! 隣にいるのは直ぐに文句付けられるからよっ!!」

 

彼女はそうやって、自分自身に言い聞かせていた。

理由付けさえできれば、彼女は非常に積極的に行動できる。

ゼミに出るのは今年こそ卒業するため・・・仕事をするのは生活のため・・・施設に行くのは母親を元気づけるため・・・

そのスケジュールの合間を縫って、彼女はこの場所にやって来ているのだ。

 

惣流アスカ・・・女心は複雑だった。

 

しかし・・・それは自分自身を極限に追い込んでまでの活動だった。

一度、体のリズムが崩れてしまえば、全てが崩壊しそうな危うさすら持っていた。

 

 


空から零れたストーリー


The Girl who comes from sky 
F-part
 太陽が沈んだ日
wrote by Tomyu


 

「ちょっと味付けが濃いいわね・・・このレンコンの煮物。」

「そっか・・・冷めると味覚が鈍るからって思って、味付けを濃くしたんだけど・・・」

アスカは箸で器用にレンコンの煮物を持ち上げ僕に意見を言ってくれた。

「中にまでしっかり味が染み込んでいるから、大丈夫よ。 この間と同じで。」

「うん・・・目玉焼きはどうかな?」

「火を通しすぎ・・・熱い食事なら良いかもしれないけど、こんな所で食べたら、なんだかパサパサしちゃうね。 レンコンも味が濃いし、お茶を沢山飲みたくなるわ。これじゃあ、水分摂りすぎて浮腫んじゃうわよ・・・」

「そうだね・・・もう少し改良するよ・・・」

弁当の一品一品にコメントをくれるアスカは、大切な僕のお客さんだった。 いや・・・と言うよりはもうアドバイザーだった。

彼女の手助け無くしては、弁当の売り上げは望めないと言っても良いような気がする。

「ところで、アスカ?」

「ん?」

弁当を口一杯に頬張っていたアスカは、膨らんだ可愛らしいほっぺをモグモグと動かしながら、僕の方に視線を動かした。

「どう、論文の方は・・・上手く進んでる?」

その直後、アスカはご飯を喉に詰まらせたのか、苦しそうに胸をドンドンと叩いて もがいていた。

僕が慌てて缶に入った烏龍茶を渡すと、彼女はそれを一気にあおった。

「はぁーーーー!死ぬかと思ったわ・・・ちょっとシンジ! アタシを殺す気なの!?」

アスカは眼をつり上げて僕を睨みつけた。 どうやら、まだ纏まっていないようだ。

本当に大丈夫だろうか・・・? 僕は心配になって彼女の顔を覗き込んだ。

「な・・・何よ?」

アスカの眼が泳いでいる。 僕はそれを見逃さなかった。

「書いてないでしょ?」

「か・・・書いてるわよ! 本格的に真剣に考えるから進みが遅くなるんじゃない! 論旨がおかしくならないか・・・辻褄がちゃんと合ってるかどうか・・・」

確かに彼女の言うことも一理ある。 でも、書かなきゃ何も進まない。 論文なのだから、書いてる途中で考えも変わってくる事もあるだろう・・・

頭の中に記憶するって、彼女はよく言うけど、そんなモノがどれだけ当てになるものか・・・それにもう期日は迫ってるんだ。 悠長にしている暇は無い筈だ。

「じゃあ、見せてよ・・・書いた所までで良いからさ・・・」

僕は手を出してアスカに見せるように要求した。

「い、今は・・・持ってないわよ! 家で書いてるんだから・・・」

もっとマシな言い訳すればいいのにと思った・・・だって此処は学校だ。 論文を書きに来てるのだから、持ってない筈はない。

「そ・・・」

僕は一旦引き下がった・・・が、その瞬間、隙を突いて彼女のバックからノートを取りだした。

「なななっ! 何すんのよ!返してよ!」

「先行公開、先行公開!」

慌てて身を乗り出してアスカは、ノートを取り返そうと僕の上に覆い被さってきたが、僕は構わずにノートを開いた。

 

「・・・・・・・・!!・・・・・・・・・・・」

 

白地のノートには、所々に殴り書きがあり、テーマを決めあぐねてるアスカの苦悩の跡が残っていた。

僕の中で、はしゃぐ気持ちが瞬時に失せていくのを感じていた。

「・・・だから・・・見せたくなかったのよ・・・」

アスカは、静かにノートを取り上げ、逃げるように僕から離れた。 

「・・・一生懸命考えるのよ・・・自分に合った考えを纏める手だてはないかって・・・でも・・・時間ばかりが過ぎ去っていって、何一つできないの・・・」

アスカは小さく呟いた。 留年しているっていう負い目があるのだろうか・・・やはり、ヒカリちゃん達ゼミの子には、彼女なりに気兼ねしているんだ。

そして、プライドが高いが故に、頭を下げるのもできないのかもしれない。

仕事をしながら、学業を続ける彼女の大変さはよく解るつもりだ・・・自由な空気が広がっているけど、世の中には男女差別だってある。

『女だてらに』と眉を顰めるおやぢも居る。 逆に何を勘違いしてか、関係を迫ってくる男もいれば、卑猥な言葉を掛けてくる男もいる。

そんな連中を相手に仕事をしなければならない時だってある。 そのストレスだってかなりのものだと思っている。

仕事に関しては僕は何の力にもなってあげられない。 だけど、何かの力になりたいと思った。

僕に彼女が弁当の味のアドバイスをしてくれるように、僕が彼女に何か手伝えたらって思っていた。

「・・・こんなのどうかな・・・?」

僕は、今のアスカの仕事にも多少は影響がある事を一つ思いついていた。

「加賀先生って、3回生になるとき必ず、ギッシングの本をテキストに講義をするでしょう?」

「そうだっけ・・・もう忘れたわ・・・」

「僕の時は、『The odd Women』って本でやったんだ・・・19世紀末のイギリスを舞台にした、職を持って結婚しなかった女性達の話なんだけど・・・」

アスカは僕の言葉にピクンと反応した。

「仕事を持つ女性としてのアスカの視点から、この本をベースにして論旨を展開していったらどうかな? もし図書館に本がなかったら、僕も持ってるから貸してあげるよ。」

「確かに魅力的だわ・・・ちょっとアタシ、図書館に行ってみるね!」

アスカの表情に本来の明るさが戻ってきた。 眼を輝かせ、答えを導き出したようなそんな清々しさがあった。

「うん、頑張って。」

僕は力強く肯いた。 論文に関しては口頭試問があるから、代筆はできない。

自分の意見を持っていなければ、直ぐに看破されてしまうだろう。

だけど、相談に乗る事は出来るし、多少の事は手伝うことも出来る。

 

何か彼女の力になれれば・・・

 

僕のような成績の悪い人間が、どの程度役に立つのかは判らない。 でも、僕の弁当作りに貴重な時間を割いて協力してくれる彼女に何かお返しをしたかった。

これは僕の正直な気持ちだった。

手を振って元気良く立ち去っていくアスカの後ろ姿を、僕は精一杯の気持ちを込めて見送った。

それからというもの、キャンパスでは、毎日アスカの姿を見かけることができた。

いつものように、芝生の広場で一緒に昼食を食べながら、僕の弁当の評価をしてもらい、僕は僕で彼女の論文の話し相手になっていた。

「1880年代・・・当時のイギリスは男女構成比のバランスが崩れていたんだ。 男性よりも女性が多いという現象がね。」

僕は、何故、その時代に女性が仕事を持つに至ったのかをアスカと話していた。

「つまり、必然だったってこと?」

「そう・・・でも、当時の女性は結婚して家庭に入ることが中流階級では当然だと思われていた。 家庭に入らず職業を持つと言うことは、下流階層の人間だと見なされる風潮だったんだ。」

「だから、仕事をする女は低く評価されていたって言う訳ね。」

「中世の専制主義から、立憲君主制にいち早く移行したイギリスでさえ、そのありさまだったのだから、他の国は推して知るべしって感じだね。」

弁当を食べながら、僕とアスカは二人でそんな話をしていた。

「はぁーあ・・・女って損ね・・・」

アスカは僕の差し出したお茶を飲んで一心地つくと、大空を見上げて呟いた。

「どうして・・・? 今はそんな事ないと思うけど?」

「甘いわよ、シンジ・・・男で30とか40とかだと、脂が乗りきってバリバリ仕事してるじゃない。 それに比べて女はどう? 蝶よ花よともてはやされるのは、20代までよ。そこから先の人生なんて無いも同然じゃない・・・30過ぎて独身だったら、『嫁かず後家』とか言われるしさぁ・・・酷い話だとは思わない?」

「う、うん・・・」

僕は否定できなかった。 確かに、その通りだと思ったから・・・その事を公然と口にする女性は、男達から煙たがられ、陰口を叩かれる。

酷いときには、『そんな事言ってるから、売れ残るんだ』とまで言われる。 30過ぎて独身の男性のことを『独身貴族』と言うけれど、女性の場合はどうだろうか?

アスカの言っていることは正鵠を射ていた。

「そうなってくるとアスカの論文は、ジェンダーの問題にまで言及しないといけないね。」

「やっぱりそうかな・・・」

ヒトには生物学的な性である『セックス』と、社会的な性である『ジェンダー』に分類されるって言われている。

一般に言う『男らしさ』や『女らしさ』っていうのは、まさにジェンダーであり、個体が所属する群によって規定されている。つまり、モラルや風習のことだ。

狩猟や農耕だけで生きていた頃には、大変重要だったジェンダーも、時代の変遷と共に変化している。

男でなければならない仕事・・・女でなければできない仕事っていうのは、その線引きができない状態になってきているのだ。

しかし、完全に払拭されたわけじゃない。 女は結婚したら子供を育て家庭を守らなければならないという図式は基本的には崩れていない。

ところが、良くしたもので、受け入れる女性側も電化製品の普及で家事負担を軽減し、夫を職場に放り出し、『亭主元気で留守が良い』と安住している人もいる。

それらの『有閑マダム』には、女性としての願望も芽生えてくる。 それは当然男性側にも・・・起こりうることだ。

アスカは、論文でそれらの問題にまで言及すべきだと思う・・・自分なりの言葉で言い換えて・・・僕はその事をアスカに伝えた。

「そうね・・・一人で考えると考えが纏まらないのよ・・・だから、こうやってシンジと話していると、面白いように考えが纏まっていくの。」

アスカは僕の言ったことを素早く手帳に書き留めていた。

その様子を僕は黙って見つめていたが、ふと気になることがあった。 それは、さっきからアスカがあくびを何度もしていると言うことだった。

眼の下には隈ができているし、心なしか顔が赤く眼も血走っている。 明らかに睡眠不足だ。

「無理しないで・・・少しは睡眠時間を増やした方がいいよ・・・」

さすがに心配になってきた。 いくら彼女が元気で若いと言っても、睡眠不足は万病の元だ。

ある日突然反動が来るかもしれない・・・頑張り屋の彼女だけに、僕は尚更心配だった。

「うん・・・でも、今は頑張らないと・・・」

アスカはそう言って笑って答えるのみだった・・・

 

 

 

土曜日の夜のお店は退屈だ。

基本的にサラリーマン世帯の多いこの地区は、休日になると普段は家事に手を出さない旦那様方も手伝うから、夕飯は自宅で作られる事が多いし、外食といっても一家でレストランへ足を運ぶから弁当屋なんかに足を向ける人はいない。

日曜日は更に開店休業状態になるから、最近は店を閉めるようにしている。

ミサトさんは、加持農園の園長の所へ行っているし、リツコさんとマヤさんは、学会に出席のため3日ほど出張している。

なんだかんだ言っても、リツコさんもマヤさんも博士号を持つ学者さんなんだ。 知識レベルで言えば、僕は会社で一番成績が悪い人間だ。

そんな優秀な人達が何故、こんなしがない弁当屋をやってくれるのだろう・・・?

『ユイ先生には、本当にお世話になったの・・・だからかな・・・』

リツコさんはそう言って笑顔を見せてくれた。

母さんとリツコさんやマヤさんの間にどんな経緯があるのかは僕には判らない。

だけど、彼女達にミサトさんを加えた3人で、ガキンチョの僕を引っ張っていってくれている・・・僕はどれだけ彼女達に感謝すればいいのか判らない。

だからと言うわけではないが、業務と研究が重複するようなら研究の方に集中して欲しいと、僕は彼女たちには言っている。

そんな訳で、二人は松代まで出張しているのだった。

もっとも、閑古鳥が鳴く週末だから、休んでもらっても一向に構わないんだけど・・・

そして今、僕の家には小さな同居人がいる。

それは、リツコさんが飼ってる2匹の仔猫。 衛生管理の問題から、厨房に入れる訳にはいかないので、店の前でじゃれさせて遊ばせている。

1匹はメスの猫で、白い毛並みと青い瞳を持っている。

もう1匹はオスの猫で、白い毛並みと琥珀色の瞳を持っていた。

どちらの猫にも共通しているのは、耳と尻尾の毛が、茶色くなっていること。 まるで、シャム猫の色違いのような感じがする珍しい猫だ。

僕もする事が無くて、店の外で2匹の仔猫と遊んでいた。

僕の振り回す猫じゃらしに、盛んにじゃれつく仔猫たち・・・それを見ながら僕はずっと考えていた。

勿論アスカのことだ・・・

結局聞きそびれてしまったが、彼女はどうしてあの施設に居たんだろう・・・?

色々考えを巡らせてみた。 

アスカは喫茶店で、あの施設の事をママの所と言っていた・・・アスカのお母さんはあの施設で働いているのだろうか・・・?

それとも・・・・・・?

僕は考えあぐねていた。 アスカのことを考えるにしても、今の僕には余りにも材料が足りない。

よくよく考えてみれば、僕はアスカのことを何も知らないんだ。 学業と仕事を両立させようとするアスカの一面しか・・・

そう思った瞬間、僕はハッとなった。

ちょっと数週間一緒にお昼を食べただけで、僕はアスカの事を何でも知っているような気になっていた。

なんておめでたい奴なんだろうと思った。 アスカにはちゃんと付き合っている恋人だって居るかもしれないのに・・・

あれだけの器量を持っていれば、言い寄ってくる男の数なんて、両手両足の指を使い切ってなお余りある筈だ。

現に僕自身が、こうして彼女に接近しようとしている。

スポーツカーや高級セダン・街乗り4駆・ワゴン車・トラック・・・それらが、向こうから寄ってくることは想像に難くない。

それに引き替え、僕はただの『教習者』だ・・・人は教習車を卒業したら、より良い刺激や感覚を求め飛び出していき、元へは戻れなくなる。 

でも僕には今以上の事は出来ない。

僕は結局夢を見てたんだ・・・恋人を持ったことがないから、僕はアスカに恋人像を投影していたのかもしれない。

実際に居るはずもない恋人を、自分に話しかけてくれる女性に映していた・・・その対象となったのが、アスカなんだということに・・・

 

「そうだよな・・・そんな上手くいく筈ないよな・・・」

 

僕は猫じゃらしを動かす手を止めていた。

2匹の仔猫は動かなくなった猫じゃらしを動かそうと、前足でちょっかいを出している。

その時、メスの方の仔猫が突然延びてきた白い腕に抱きかかえられた。

 

「何が、上手くいく筈ないの?」

 

僕の目の前には、細長く延びた白い脚があった。

驚いた僕が顔を上げると、紺色のデニムのミニスカートを履いて、上にチャコールグレーのタートルネックセーターを着ているアスカが、仔猫を抱いて微笑んでいた。

「ア、アスカ!?」

アスカに抱きかかえられて、仔猫はニャーニャーと盛んに鳴き声を上げていた。

驚く僕の前に、アスカは腰を下ろして抱きかかえた仔猫を下におろした。

メスの仔猫は素早くオスの仔猫に駆け寄って体をくっつけていた。 やはり、同じ猫同士の方が居心地が良いのだろう。

「可愛いね! シンジが飼ってるの?」

「ううん、会社の人が飼ってる猫なんだけど、僕が3日位預かる事になったんだ・・・」

「へぇー、でもこんな毛並みの猫初めて見たわ。 まだ小さいし、縫いぐるみみたい。」

アスカは両手を伸ばして、2匹の仔猫を抱きかかえた。

僕はそんなアスカの仕草がとても可愛く思えた。 店内の照明が、アスカの顔と髪を照らしている。

その白い顔・・・紅茶色の髪・・・そして、白い脚・・・

その瞬間、僕は見てはいけないものを見てしまって、思わず眼を反らした。 否、反らしたつもりになっていた。

店の照明が、アスカの短い丈のスカートの中までしっかり差し込んでいた・・・脚の付け根にぼんやりと浮かび上がる白い三角形・・・

見てはいけない!

僕は自分に言い聞かせる・・・だけど、眼は僕の意志に反するかのように、固定され動くことを拒否していた。

そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、アスカは嬉しそうに仔猫を両手で抱きしめ、仔猫はアスカの胸と腕の間で気持ちよさそうに目を閉じていた。

僕も猫になりたい・・・そう思ったのは嘘じゃない。

僕は呆然と、目の前に繰り広げられるパラダイスに見惚れていた。

その時、アスカが僕の視線と間抜けな表情に気が付いたのか、慌てて脚を閉じ、ずり上がっていたスカートの裾を戻して声を上げた。

「こらっ! そこのエッチシンジッ!」

「わっ!!」

無防備な状態だった僕は、その声に電流が駆け抜けたようなショックを受けて、見事にひっくり返った。

「アタシのパンツ タダ見したわね! このエッチ!」

アスカは頬をプッと膨らませて、僕に詰め寄った。

「いや・・・あの・・・その・・・見るつもりはなかったんだけど・・・見えちゃったから・・・見えちゃったら、もうダメで・・・」

自分でも訳が判らない事を口走っていることを自覚していた。

だって、好きな女の子のパンチラを見て、何も感じるなっていう方が無理だと思う・・・でも、アスカは僕の恋人じゃない。

僕は身を起こして、彼女に頭を下げた。

「ごめん・・・」

アスカはジト目で僕を睨んでいた。 こうなった時のアスカは本当に怖い。 僕は恐怖におののいた。

「あーあ、どうしようかなぁ・・・折角おばさまから美味しいミカンを貰ったから、シンジに差し入れしてあげようと思って持ってきたのにさ・・・」

アスカは首を竦めて天を仰いだ。

「・・・これじゃミカンじゃなくてアタシが食べられちゃうわ。」

強力な爆弾が投下されたような気がした。 僕の下心を完全に見透かされていたんだ。

「本当にごめん! 僕が悪かった! 何でも言うこと聞くから勘弁してよ!」

僕はアスカの前に、全面降伏の意思表示をしてみせた。 そうでもしないと、アスカに許して貰えそうもなかった。

このままアスカに嫌われたら・・・そう思うと、とても怖かった。

「本当に? 何でも言うこと聞く?」

アスカは、僕の顔を覗き込んで不敵に微笑んだ。

その視線は鋭く、僕は背筋が凍りつくような感覚に襲われた。

「う・・・うん・・・」

「じゃあさ、これ手伝ってよ。」

アスカはショルダーバックから何冊かの本を取り出して、僕の手の上にドサリと積み上げた。

「って・・・これは?」

嫌な予感がした。

「決まってんじゃなーーーい。 卒論に使う本よ。 読んでる暇ないから、掻い摘んでアタシに説明してくれる?」

ゲッ!!

思わずそう口走りそうになった。 

「読んでると眠くなっちゃうのよ・・・1冊は読んだんだけど、もう限界・・・だから、シンジに聞いた方が早いと思ってさ・・・読んでるでしょ?」

アスカは屈託のない笑顔で僕を見つめた。

「いや・・・この本は無いよ・・・」

僕は困ったように頭を掻いた。

「何よ、頼りないわね・・・」

アスカの笑顔が一転して落胆の表情に変わり、続けざまに怒りの表情に変わっていた。

「もういいわ! 頼ったアタシが馬鹿だったわ。」

僕の返答に、アスカは眉を顰めて僕を睨み、本を取り上げると踵を返して立ち去ろうとした。

ごめん・・・と言いそうになったけど、このまま僕の評価が下がったままでは堪らない。

僕に選択の余地は無かった。

「待ってよ! これから読むよ。 読んで説明してあげれば良いよね。 アスカは読んでる暇無いだろ?」

僕の声にアスカの足が止まって振り返った。

「良いわよ! あんたよりアタシの方がまだ読解力あるもん!」

僕が役に立たないと判ると、アスカは時間を気にして引き上げようとしていた。明らかに時間の浪費をしたという感情が、彼女の全身から滲み出ていた。

それでも僕は怯まなかった。 たったそれだけのことで折角積み上げてきた信頼関係を壊したくなかった。

「やってみるさ! さぁ、本貸してよ。 明日までに説明できるようにしておくから!」

僕は大見得を切っていた。 確かに自分でもハッタリかましていることは判っていた・・・でも、人生何度かは後に引けない時だってある。

僕は今がそうだと思った・・・何故なら、僕は知り合ってからというものいつもアスカに助けられてばっかりだった。 

だから、今度は僕が彼女の役に立ちたい・・・例えそれが片思いでも、何か僕に出来ることをしたい! そう思った。

「ミカンありがと・・・これ食べながら、読んでおくからね。 それじゃ、おやすみ!」

僕はアスカから本を受け取り、店の中に戻ろうとした。

しかしその時、僕の腕をアスカがそっと掴んだ。

「待って・・・」

先程の態度とは一変して、彼女は俯いたまま佇んでいた。

「大丈夫だよ・・・ついさっき、何でもやるって言ったじゃないか・・・だから僕に任せて。」

少しは良い所を見せたかった。 頼りない僕だけど、大見得切ってでも彼女を安心させたかった。

「ありがと・・・でも、アタシも読まなきゃ・・・アパートに戻ってる時間が勿体無いから、場所借りて良い?」

アスカは消え入りそうな小さな声で・・・それでいて、はにかんだような笑顔を向けて僕の耳元で囁いた。

「大丈夫なの? 眠くなるんでしょ?」

「だって・・・やっぱ悪いじゃん・・・アタシの論文なんだから・・・」

アスカは僕に腕を絡めたまま、小さくVサインをしてみせた。

本当に大丈夫なのだろうか? しかし、彼女が大丈夫って言うのならと思って頷いた。

「うん。 じゃあ・・・」

僕は、アスカが読書に集中できる場所を考えた。

二階の自宅が良いとは思ったが、さっきのように変に警戒されるのもやっぱり拙い。

暫く考えた結果、事務室でする事にした。

僕はカウンターのドアを開いてアスカと2匹の仔猫を事務室に招き入れた。

「へぇー、割と綺麗にしてるのね。」

アスカは興味深そうに中をキョロキョロと見回していた。

「まぁね、食物を扱うから衛生管理には気を遣ってるんだ。 今日は、誰も戻ってこないから、どの机でも好きに使っても良いよ。」

アスカに席を勧め、僕は自分の事務席に座った。

2匹の仔猫には悪いけど、リツコさんが持ってきたキャリングケースでお休みしていただくことにした。

「さぁ、始めましょ。」

アスカは読みかけの本を開いて、静かに読み始めた。

僕もアスカが持ってきた本を開いて、読書に勤しんだ。

クラシック音楽が静かに流れていく。

静かな時間だけが流れていく。

やはりお客さんは来ない・・・

やがて閉店の時間となり、僕は読みかけの本を閉じてシャッターを閉めた。

アスカは大きなあくびを何回も繰り返しながら、本を読んでいる。

やっぱり眠そうだ。 蛍光灯の明かりの下で見ると、アスカのきめ細やかな肌に、多くの吹き出物が出ている。

ろくに寝てないのだろう。 

「もうこんな時間だし、帰ってちょっと眠った方が良いよ・・・ろくに頭に入ってないだろ?」

「うん? 大丈夫よ・・・これでも鍛えてるんだから・・・シンジに手伝って貰って、どうにかなりそうなんだし・・・」

そう言って、アスカは取り合おうとしない。 しかし、もう10回以上はあくびをしている。

「駄目だよ。 後は僕が読んでおくから、アスカはもう帰りなよ。倒れたりしたら元も子もないよ。」

言うべき時には、きっぱり言ってあげないといけないと思った。

でないと、アスカのような人はすぐ無理をする。

「車あるから送ってあげる・・・だから、今日は帰りなよ。」

僕は真剣な気持ちでアスカを諭した。 本当に倒れてしまいそうな、そんな気がしてならなかったから・・・

「うん・・・じゃあ、甘えても良いかな・・・」

「うん、任せて。」

僕はアスカから本を受け取ると、彼女を駐車場に止めてある軽ワゴン車まで案内しようと立ち上がった。

ミサトさんが『初号機』と名付けている、弁当販売用の軽ワゴン車だ。

「こっちの出口から出るよ。」

僕が通用口のドアを開いた瞬間・・・

 

 

事件が起こった。

 

 

 

「マネー! マネー! マネー!!」

 

 

 

覆面を被った二人組みの男が突如乱入してきた。

手には刃物を持ち、声高に、金!金!それだけをと叫びながら・・・

 

 

「きゃあ!!」

「アスカッ!」

 

 

一人は、出ようとしたアスカを捕まえ、背後から口に手を当てて首筋に刃渡り20cmはあろうかというナイフを突きつけていた。

そして、もう一人は僕に同じ種類のナイフを向け、金を出せと喚いている。

アスカを人質に取られて、僕にはなす術が無かった。

「くそうっ!」

僕が、レジの扉を開けて、売上金を出そうとした瞬間。

アスカが突如動いた・・・

 

 

先の細いヒールで強盗の足を力一杯踏んづけ、怯んだ強盗の顔面に頭突きを打ち付けたアスカは、すぐに手を振り払って、急所を思いっきり蹴り上げた。

「ぐわっ!!」

今だっ!

僕も、気を取られ、アスカに襲い掛かる強盗の肩を掴み、調味料入れから胡椒の粉末を思いっきりマスクから出ている眼球目掛けて擦りつけた。

「ぎゃああああっ!!」

狂ったような叫び声が上がった。これで撃退できる・・・僕はそう思った。

カウンター下に設置した警報装置を作動させたし、すぐに警備員や警察がやって来る・・・そう思った。

しかし、狂乱した強盗は目が見えないまま、ナイフを滅多やたらに振り回して、僕に近付いてきた。

「しまった!」

迂闊だった・・・レジから金を出すため、カウンターの隅にいた僕は逃げ場が無くなっていた。

男の振り回すナイフを避けるのが精一杯だった。

「シンジッ!」

アスカの叫び声が響く。

僕はどうにか反撃のチャンスを狙って賊の振り回すナイフをかわし続けた。

しかし、弁当屋の床は水で濡れている事が多い。 僕は、迂闊にもそのことを失念していた・・・

素早く逃げ回っている内に、足を取られてしまった。

「うわっ!!」

滑って倒れたところに振り下ろされてくる白刃・・・

僕は咄嗟に手を挙げて、ナイフから頭を庇った。

その時、僕の右手に激痛が走った・・・闇雲に振り回されたナイフの刃先が、僕の右腕を斬りつけていた。

「グワッ!」

血が噴き出し、床を赤く汚していく。

「きゃあああああっ!! シンジィーーーッ!!」

「来るなっ! アスカッ! 早く逃げろっ!!」

斬りつけられた右腕を庇い、攻撃をかわしながら、僕は必死に傷口の上を縛り上げた。

いきり立った賊は、目が見えないまま暴れ、カウンターの上に置いてある鍋やフライパンをはじき飛ばしながら、激しくナイフを振り回していた。

今度こそ逃げられない・・・もうだめだ!

賊がナイフを振り上げたのを見て、僕は目を閉じた。

しかし、ナイフは振り下ろされなかった・・・

 

眼を見開いた僕の瞳に映ったもの・・・それは、アスカが賊の背後から羽交い絞めにしてる光景だった。

 

 

「・・・・・・!!」

 

 

男が身体を激しく揺すり、アスカを振り落とそうとする。

それでもアスカは必死に賊に絡みついて離そうとしなかった。

「アスカッ! 離れろっ!!」

「嫌だっ! 離さないっ!!」

 

 

その時、賊は勢いをつけて後ろに下がり、壁にアスカを思いっきりぶつけた!

「あうっ!・・・」

「アスカァッ!!!」

 

 

それまで力が籠もっていたアスカの腕が力無く離れていく・・・

僕は、その光景が信じられなかった・・・アスカがまるで主を失ったマリオネットのように崩れ落ちていく。

 

アスカの手が離れ、ずるずると床に崩れ落ちた瞬間・・・・僕の中で何かが弾けた。

ただ、激情だけが僕の中を駆け抜けていった。 そしてそれは、僕の心の叫びだった・・・・

 

 

「この野郎っ!! よくもアスカをっ!!」

 

 

 

何をしたのか正直言って覚えていない。

全速力で体当たりして刃物を弾き飛ばし、賊の上に馬乗りになったのだけは覚えている。

其処にあったのは怒りと憎しみだけだった。

男の悲鳴と激しく抵抗する腕が、僕の闘争心をさらに掻き立てていた・・・

 

「碇さん! 止めてくださいっ!!」

 

突然数人の男達に僕は羽交い締めにされ、強引に男から引き剥がされた。

「離せっ!」

僕は叫んでいた。 奴に報復をしているのに何故邪魔をするのかっ!?・・・と・・・

「警備会社の者です! 後は我々にお任せください!」

その声に、僕は我に返った・・・我に返ると、賊はぐったりとなって、制服を着たガードマンに取り押さえられていた。

マスクは剥ぎ取られ、顔面を血塗れにして・・・

アスカにやられたのか、もう一人の強盗も、のた打ち回るように床を這いつくばっている所を、別のガードマンに捕まっていた。

 

「怪我はありませんか?」

「アスカ・・・」

「はっ?」

「僕はいいっ! 救急車を呼んでくれっ! アスカを・・・アスカを・・・」

 

ガードマンを突き飛ばし、僕は痛む足を引きずって、カウンターの向こうに動いた。

カウンターの向こうに見える、床に広がっている紅茶色の髪・・・

僕にはもうアスカしか見えなかった。

 

「アスカ・・・アスカ・・・アスカッ!!」

 

僕はぐったりとしているアスカを抱きかかえて何度も声を上げた。

「おい!救急車だ!」

「了解!」

ガードマン達の声が飛び交っている中で、僕はぐったりとしているアスカの顔を撫で手を握った。

「アスカ・・・しっかりしろ! お願いだ! 眼を開けてくれ! アスカ・・・!!」 

遠くから緊急を知らせるサイレンが徐々に近付いてきても、僕はアスカを抱きしめていた。

 

 

 

 

 

TO BE CONTINUED...

Produced on Nov.26th '01