第三新東京市立病院は、救急患者を受け入れて職員が激しく行き交っていた。

急に容態が悪化した者や、事故で怪我をした者が、ひっきりなしに運び込まれてくる。

その病院に救急搬送されてきた若い女性が居た。彼女はそのまま救急処置室に運び込まれ、直ちに検査が始まった。

知らせを受けた身内と思われる女性が、心配そうに処置室の前を言ったり来たりしていた。

 

閑静な住宅街で起こった深夜の強盗傷害事件は、付近の住民を恐怖のどん底に叩き込んだ。

味に定評がある仕出し弁当屋 『EVANGELIST』の前では、数台のパトカーがサイレンも高らかに到着すると周辺を立ち入り禁止にして直ちに現場検証を始めていた。

店が強盗に襲われ店主とアルバイト店員が負傷するが、勇敢に立ち向かい取り押さえたというニュースは、あっという間にマスコミにも広がり、TVや新聞社の車も大挙して押し掛け周囲は騒然となった。

こう言った凶悪事件では、犯人が直ぐに逮捕される事はあまりない。 

地道な捜査の末、被疑者を検挙するケースの方が多いのだが、今回は店主と従業員が応戦して現行犯逮捕となったのだから、マスコミの報道振りも尋常ではない。

レポーターが、漏れ聞いた情報を元に勝手に事件を作り上げたり、店主の評判や事件の様子を近所に取材して回るなど、まさに痛快な英雄伝に仕立て上げようとしていた。

 

当の本人達は、必死に反撃し、現在は病院で精密検査を受けている。

事件直後は興奮していた店主・・・碇シンジ・・・も、鎮静剤を投与され今は病院のベッドで眠っていた。

左足大腿部と右腕にナイフで切られた裂傷があり、右足首の靱帯を伸ばしてしまっており、全治1ヶ月と診断された。

逮捕された被疑者も病院に運び込まれ、警察官の監視の下で治療を受けていた。治癒すれば、そのまま送検されることになるだろう。

そしてアルバイト店員の若い女性は、検査の結果、かすり傷以外に目立った外傷もなく、背中や膝と肘に打撲傷があるだけだった。

しかし、意識は無い・・・

医師はレントゲン撮影やCTスキャン、脳波測定でも異常が見られなかったため、暫く入院すれば回復するだろうと診断した。

駆けつけていた女性は命に別状はないと聞いて、ホッと胸をなで下ろした。

「ご家族の方ですか?」

担当医は、処置室の前のベンチに座っている女性に声を掛けた。

「ええ、あの娘の叔母です。 今、あの娘の母は入院しているもので、知らせを聞いて駆けつけました。」

彼女と同じ、紅茶色の髪をした女性は心配そうに答えた。

「かなり、無理をしてたんですね・・・体力がかなり低下しています。 こんな身体で、強盗と格闘するとは・・・自殺行為です・・・」

淡々とした口調の中に、ある種の厳しさを秘めて、医師は彼女に言い放った。

「とにかく、しっかり養生させましょう。 仕事も休んで貰わないと、こっちも責任持てません。」

「すみません・・・ありがとうございました。」

彼女は医師に深々と頭を下げ、処置室のベッドに横たわる姪の姿を見つめた。

「アスカ・・・」

すっかり生気の失せた顔を、彼女は何時までも見つめ続けた。

 

惣流アスカ・・・彼女はシンジを守ろうとして、体力を使い果たしていた。

 

 

 


空から零れたストーリー


The Girl who comes from sky 
G-part
 翼を広げて
wrote by Tomyu


 

 

「知らない天井だ・・・」

僕は、見慣れない天井を呆然と見上げていた。 此処は何処なのか・・・僕はどうして此処にいるのか、理解できなかった。

確か、アスカと一緒に店で本を読んでたのに・・・?

僕の中でだんだん記憶が甦ってきた。 

強盗・・・乱闘・・・倒れたアスカ・・・そうだ! アスカは!? アスカは無事なのか!?

僕は布団をはね除け、立ち上がろうとした。 悪い夢であって欲しい・・・僕は心底そう思った。

「痛たっ!!」

体の各所に痛みが走った。見ると、体のあちらこちらに包帯が巻き付けられ、右足にはギブスが当てられていた。

「何だよこれ・・・?」

訳が判らなかった・・・どうしてこんなに大事になっているのかが。

その時、ドアがノックする音が響いて、白衣を着た医者が入ってきた。

「おや、意識が戻ったようですね? 吐き気とかはありませんか?」

医者は小さなランプを取り出して、僕の目に光を当てたり、聴診器で僕の体を検査し始めた。

「僕は・・・いったい・・・?」

「ご覧の通りのお怪我です。 全治1ヶ月です。 少なくとも2週間は入院していただきますから、そのつもりでね。」

淡々と医者は僕に答えた。 2週間も入院するの? 僕は驚きを隠せなかった。

そんな僕の様子を観て取ったのか、医者は言葉を続けた。

「刃物で切りつけられてますからね・・・おまけに靭帯も損傷してるようだし、仕事復帰は、リハビリを含めて1ヶ月はかかります。」

「そ・・・そんなに・・・」

それが僕の払った代償なのか・・・僕は頭の中が凍りつきそうな感覚に囚われた。

じゃあ・・・アスカ・・・アスカはどうなる?

僕は動揺を隠せないまま、医者に尋ねた。

「彼女の怪我は大したことありません。しかし・・・」

「しかし・・・? 何ですか? 先生!」

「言い難いことですが、あなた彼女をかなり酷使していたのではありませんか?」

僕は、医者が何を言っているのか理解できなかった。 酷使したとはどう言う事なのだろう?

「今の彼女にはダメージをすぐに回復できるだけの体力がない・・・そういう事です。お判りになりますね?」

医者は冷静に・・・そして淡々と・・・事実を僕に伝えた。

「とにかく今は絶対安静です。 少なくとも意識が戻るまではね・・・ あなたも怪我人なんですから、無理はなさらずに・・・」

そう言い放つと、医者は病室を後にした。

僕は、医者の言った事が嘘であって欲しいと思わずには居られなかった。

アスカが絶対安静だなんて・・・どうして信じられよう・・・

そう思った刹那、僕は頭を左右に振っていた。 違う! そうじゃない! 僕には判っていた。

彼女は無理に無理を重ねていた事くらい・・・ だけど、僕はそんな彼女の行動を止める事は出来なかった。

結局、彼女がそうなってしまうまで、僕は何もしなかったんだ・・・ 止める手立ては幾らでもあったのに・・・

僕は僕自身を心の中でなじっていた。

悪い夢だ・・・早く醒めて欲しい! アスカの元気な笑顔を見たい!

僕の願望は、直後に入ってきた背広を着た屈強そうな男の人の存在でかき消された。

「失礼・・・碇シンジさんですね?」

「はい・・・碇ですが・・・あなたは?」

あまり人相は良くない・・・正直言って強面の人だ。

「中央署の関です。」

その男の人は、自分の身分証明書を見せて、警察官であることを告げた。

「昨日の強盗傷害事件で捜査をしてますので、お話を伺いたいのです。ご協力頂けますか?」

やっぱり、あの出来事は夢なんかじゃなかった。

僕は黙って頷いて、関という刑事さんの質問にありのままを答えた。

関刑事の話から、逮捕された賊は、東南アジア系の不法入国者で金に困って強盗に及んだのだと聞いた。

厳しい事情は解かるものの、だからと言って犯罪を容認する事は出来ない。

ましてや、その為にアスカは危害を加えられ、未だこの病院にいると聞いた・・・僕は犯人を許すことは出来なかった。

しかし、僕が報復した事はどうなるのだろう・・・?

正直言って何発殴ったのか判らない・・・僕はあの時、怒りの余り我を忘れていた。

「刑事さん・・・僕のした事は、過剰防衛になるんでしょうか?」

事情聴取を続けるその刑事に、僕は尋ねてみた。

関さんは困ったように頭を掻いて答えた。

「うーーん・・・この後の捜査次第ですね。まぁ、今回の場合、相手が刃物を持って明らかに殺害の意志も持っていたことだから、状況を考えれば正当防衛の範疇に収まるとは思うんですけどね。 もっとも、これは検察の範囲だから、こちらでは何とも言えないですわ。」

「そうですか・・・」

僕は静かに頷いた。

後日、退院した僕は、検察庁の出頭要請に応じて担当検事とも話をした結果、この事件に関しての正当防衛が認められた。

 

結局、僕は2週間の入院を余儀なくされていた。

まだ入院して2日目・・・僕は店が気掛かりだった。

警察の捜査等で、店の中も荒らされたままになっているから、早く清掃して営業を再開しなければならない。

しかし、僕自身怪我をしており、自由に動き回ることが出来ないし、利き腕の右手を三角巾で吊るされているから料理も出来ない。

折角受注した園遊会の日まで、もう3週間を切っているというのに・・・

でも、それ以上に僕は、アスカの事が気になっていた。

彼女の怪我の程度は大したことはなかった・・・でも、身体にかなりの負担を掛けて頑張っていたツケがいっぺんに回ってきたのだという。

実は彼女の体重は減少の一途を辿っていたんだ。 

「あんな身体で、強盗と格闘するとは・・・自殺行為もいい所だね。」

巡回に来た医者に彼女の容態を尋ねたとき、医者は眉を顰めて僕に漏らした。

「事情はニュースで知りましたよ。 今はとにかく睡眠を取らせて、ダメージを受けている身体の内部を修復させることです。 しばらく仕事も駄目ですからね。 たっぷり休暇を取らせてください。 お店を守った大事な社員さんなんだから。」

医者は諭すように僕に言いつけた。慢性的な睡眠不足が、彼女の体力を少しずつ・・・でも確実に奪い取っていたのだと聞いた。 

そして、医者がアスカを店の従業員だと思い込んでいることにもようやく僕は気がついた。 医者が過剰労働をさせたと判断しても無理はない。

だけど、僕は医者の思いこみを否定する気にはならなかった。 アスカの身近に居た僕が彼女の体の変化に気付くべきだったんだ。

にもかかわらず、毎日のように一緒にいながら、やつれていく彼女のことに気付かなかったなんて・・・

そんなアスカに、無理をさせてしまったなんて・・・

 

僕は自分が不甲斐なかった。 

 

僕がもっとしっかりしていれば、店もあんな事にはならなかっただろうし、アスカも怪我をしなくて済んだ筈だ。

《お店のことは私たちに任せて・・・何とかするから・・・》

知らせを聞いて駆けつけたミサトさんたちは、3人とも穏やかな笑顔を浮かべて、僕を励ましてくれた。

だからこそ僕は胸が痛んだ。 

僕さえ、もっとしっかりしていれば・・・

シーツを握り締める左手に涙が落ちた。

悔しかった・・・満足に動く事が出来なかった自分が・・・

自分の不注意でアスカやミサトさん、リツコさん、マヤさんに迷惑を掛けてしまった自分が情けなかった。

アスカの事を想っていたつもりで、実は彼女に恩着せがましく振舞っていた自分が、どうしようもない愚か者に思えた。

 

面会の許可が下りた日、僕は病室を出て、松葉杖をついてアスカの病室を見舞った。

アスカは眼を閉じ、昏々と眠り続けていた。

閉じられた瞳は真っ直ぐ天井を見上げ、紅茶色の髪は冬の陽射しの中で、黄金色の光の河を作っていた。

どうしてそんなになるまで無茶をしてたんだ・・・? 僕はアスカの顔を見つめた。

「馬鹿だよ・・・君は・・・」

そう言わずには居られなかった・・・

いや・・・違うっ!そうじゃない!!・・・馬鹿なのは僕の方だ。

アスカのことを解かったつもりで、実は何一つ解かっていない僕の方だ。

僕の頬から涙が流れていた・・・狂おしい程の気持ちが湧き立ち・・・僕は自分の気持ちを押さえ込むことが出来なくなっていた。

それまでは、憧れや願望で彼女に好意を抱いていた。

でも、今はそんな気持ちを遥かに越えた気持ちが僕の全身を支配していた。

 

 

・・・・アスカが愛しい・・・・

 

 

今、僕ははっきりとアスカを愛していることに気が付いた。

そんなアスカに今僕が出来ること・・・それは、アスカの傍についていてあげることだった。

アスカが読もうとしていた本を読み、ずっとアスカの傍で看病することだった。

一日も早く元気になって欲しかった。 

アスカが退院したときに、すぐに論文を書けるように・・・

アスカに応えて貰えなくてもいい・・・こんな事で彼女に人生を棒に振って欲しくない。

それが愚かな僕に出来るせめてもの償いだと思ったから。

その時、病室のドアが静かに開いて、ミサトさんとリツコさんが現れた。

「・・・どう? 彼女の容態は・・・」

お見舞いのフルーツバスケットをテーブルの上に置いて、ミサトさんが尋ねた。

「ええ、体力を回復するために、栄養剤の点滴をやってます。過労だったんでしょうね・・・」

「そう・・・じゃあ一安心ね。」

リツコさんが、穏やかに微笑んだ。

「この娘が、シンジ君の彼女だったのね・・・可愛いじゃない。 シンジ君もしっかり男の子してたのね。」

ミサトさんは、彼女の寝顔を覗き込んで僕の肩を叩いた。

「いえ・・・彼女じゃないです。」

僕は穏やかに微笑んで二人に答えた。

「僕が一方的に好きになっているだけです。 彼女にしてみれば、迷惑でしょうけど・・・」

ミサトさんが苦笑しながら、首を左右に振った。

「違うわよ・・・彼女もシンジ君が好きなのよ・・・でなきゃ、あの時すぐに逃げ出してるわ・・・強盗と格闘なんかしないわよ。」

リツコさんもクスクスと笑いながら、首を振った。

「無理をしてでもあなたに会いに来てた、女の子の気持ち・・・少しは解かってあげなさい・・・」

二人は顔を見合わせると僕に声を掛けた。

「じゃあ、お店のことは私たちに任せて! 今は、この娘の傍についててあげなさい。 そしてちゃんと気持ちを伝えるのよ。」

「そ! 正直な気持ちでね!」

ミサトさんたちは、にっこり微笑んで、病室を後にした。

僕は、閉じられたドアを呆然と見送った。 今、何て言ったんだろう・・・?

 

「アスカが・・・僕を・・・?」

 

確かに二人はそう言った・・・何で?

信じられなかった・・・どうして僕なんかを・・・?

僕は視線をアスカに戻した。

アスカは静かに眠り続け、僕の問い掛けには答えてくれそうもなかった。

が、ふと僕には引っ掛かるものを感じた。

そして、どうしてリツコさん達は、アスカの経緯を知っているのか・・・?

僕は訳が判らなかった。

ちょうどその時・・・紅茶色の髪を持つ女性が入ってきた。

「オーナーさん・・・」

彼女は僕の姿を見かけるとにっこりと微笑んだ。

 

 

第三新東京市立病院の屋上からは、市街地の様子が一望できる。

僕は、アスカが『おばさま』と呼んでいる喫茶店のオーナーと一緒に、その風景を見下ろしていた。

病院の前の通りには、TV局の中継車が待機し、中の様子を窺っている・・・

「今回は、アスカちゃんが迷惑掛けたわね・・・碇君。」

その様子を遠くに眺めて、オーナーは穏やかに微笑んだ。

「いいえ。そんな事ありません。 僕こそ彼女にとんでもない事を・・・何とお詫び申し上げて良いか・・・」

僕はオーナーの眼を正視できなかった。 

一緒に居ながら、彼女を守りきれなかった・・・却って助けられた事が僕の心を抉った。

「そんな事はないわ・・・」

彼女は、僕に今日発売された週刊誌を渡して微笑んだ。

実名こそ出ていなかったものの、紙面には事件の事がかなり大袈裟に書き立てられていた。

そして、見出しには《愛の奇跡》と書かれていて、キャンパスで一緒に弁当を食べる僕とアスカの遠景の写真が掲載されていた。

「なっ・・・!!」

遠くからの写真なので、顔は はっきりとは見えないが、どう見ても僕とアスカだった。

「すっかり美談になっちゃってるわ・・・世知がない話ばかりだものね・・・この頃は・・・」

オーナーは申し訳なさそうに僕に頭を下げた。

「ごめんなさいね。 アスカちゃんがあなたに熱を上げたばっかりに、こんな事になってしまって・・・」

「えっ・・・?」

僕はオーナーの言っている意味が解からなかった。

「私の名前は惣流ミカ・・・アスカちゃんの母親、キョウコの妹なの・・・」

オーナーは僕に名前を明かしてくれた。

「ちょっと長くなるけど、聞いてもらえるかしら?」

ミカさんは、穏やかな口調の中に真剣な眼差しを浮かべて、僕に尋ねた。

僕はもっとアスカの事が知りたかった。 ミカさんの話でアスカのことをもっと知ることが出来たなら・・・

僕の答えは決まっていた。

「はい・・・伺います・・・」

「そう・・・ありがとう・・・碇君。」

ミカさんはにっこり微笑んで、静かに口を開いた。

「あの娘の母、キョウコは生まれつき体が弱かったの・・・それでもキョウコは頑張ってデザイナーになろうとしたのよ・・・デザイナーの卵としてデビュー寸前に、彼女の前に一人の男性が現れた。 彼女とその男性はすぐに恋に陥ち、やがて二人は結婚して一人の女の子を産んだの・・・それがアスカちゃんよ・・・」

ミカさんは、淡々とそれまでの姉親娘のことを僕に教えてくれた。

キョウコさんは、結婚しても姓を変えることはなかった。 ただ、娘のアスカには、両親の姓を名乗らせていた。

一つが『惣流アスカ』であり、もう一つが『アスカ・ラングレー』だ。

僕が見たアスカの名刺には、デジタルクリエイターとしての名前、『アスカ・ラングレー』は父親の姓だと言うことに、僕はようやく思い至った。

アスカが生まれ、キョウコさん一家は幸せな人生を送っていたが、その幸せは瞬時にして奪われた。

それはアスカが5歳の誕生日のこと・・・

誕生会に出ようと自宅に向かっていたアスカのお父さんが乗っていた旅客機が墜落して、お父さんは還らぬ人となってしまったのだ。

事故とも爆弾テロとも言われるが真相は定かではない。 

ただ、大事な家族を失ったキョウコさんの悲しみは如何ばかりだったのだろう・・・

僕は胸が張り裂けそうな思いに駆られた。

それでもキョウコさんは、失意のどん底に落ち込みながらも、アスカを育てるため無理をして働いた。

アスカは、病弱な母親に負担を掛けまいと中学卒業と同時に就職を希望するけど、キョウコさんはそれを叱り飛ばした。

《今あなたのやるべき事は、働く事じゃない。 大学を卒業して自分の足で歩いていく事よ。》

その母の言葉に、彼女は一生懸命勉強した。

早く大人になり、母を助けることが何よりも育ててくれた母への感謝の気持ちになると信じていたから。

だからこそ、その死に物狂いの努力で飛び級で大学へ入ることができた。

しかし、彼女が大学4年になった直後、母親はついに倒れた。 病弱な体に無理をしてきたツケが回ってきたせいだった。

その日、階段を下りる途中で貧血で倒れた母親は、階段から転げ落ち下半身が麻痺状態になってしまった。

気丈な母親もとうとう自暴自棄になってしまった。 それでも、まだ望みは絶たれた訳じゃない。

介護施設でリハビリを繰り返し、訓練さえすれば、再び動けるようになる・・・その為にはお金がいる・・・アスカは学業の傍らで、仕事を始めた。

それが今のデジタルクリエイターの仕事だった。 

母親譲りの美的感覚で脚光を浴びたアスカの元には、仕事が次から次へと舞い込んでいた。

やがて彼女はどんどん頭角を顕わしてきて、今では業界でも知られるようになっていた。

言い換えるなら、アスカは母親の看病と仕事と学業を全てこなそうと必死になって生きてきたのだった。

プロのデジタルクリエイターとして、業界随一になる・・・それは高額の報酬が約束されてることであり、彼女の夢だった。

高額の報酬を得て、母親の生きる意思を取り戻すこと・・・それがアスカの生き方だった。

「・・・でも、あの娘は自分自身を持っていないわ・・・母親の夢を自分の夢と取り違えている・・・まるで今にも壊れそうなガラス細工のような心を持っていながら、憑り依かれたように必死にもがいてる。 そこに現れたのが、碇君・・・あなたなの・・・」

「・・・僕・・・ですか?」

「そう・・・地表に居ながら、まるで自分が大空に羽ばたいているかのように、彼女は錯覚してるわ・・・そうね・・・雛鳥が親鳥の真似をして羽ばたきの練習をしているだけなのよ・・・」

ミカさんは、そう言うと静かに瞳を閉じた。

「彼女が見上げてる空から、あなたはゆっくりと舞い降りてきた。 空を飛ぶだけでなく、時には地表に舞い降りて餌をついばんだり、止まり木で休む事を、あなたはあの娘に教えていたのよ・・・」

僕はミカさんの言っている意味が解からなかった。

彼女に教えられていたのは僕の方だと思っていたから・・・

「碇君・・・あなたには、葛城さんや赤木さん、伊吹さんっていう仲間が居るでしょ? でも、あの娘は孤独なの・・・全てを自分に背負わせて、何から何までやろうとするわ。 任せるときは相手を信頼して任せるっていうことが出来ない娘なの・・・」

この時、初めて判った・・・どうしてミサトさん達がアスカのことを知っていたのかを。

ミカさんは、僕に会う前に彼女たちに会っていたんだ。

「アスカちゃんはね・・・帰ってくる度に私にあなたの話をするの・・・今日はこんなことがあったとか、弁当はこうだったとかね・・・今までそんなことしない娘だったのに・・・よっぽど嬉しかったのよ・・・自分の事を気に掛けて、色々言ってくれるあなたがね・・・私思ったわ・・・ああ、やっとアスカちゃんにも、羽を休める場所ができたんだって・・・」

僕は仰天した。

アスカがそんな事を言って居ただなんて・・・

僕は何も言葉を発することが出来なかった。

「碇君・・・お願い! あの娘を・・・アスカを助けて・・・あの娘を救ってあげられるのは、あなたしかいないわっ!」

「ミカさん・・・」

必死に懇願する彼女に僕はどう答えたら良いのか言葉が浮かばなかった。

ミカさんの言う通り、僕がアスカを受け止め助けることで、アスカが幸せになれるのならそうしたい。

僕は心からそう思った。

しかし今の話はミカさんから見た解釈であって、アスカが本当にそう思っているのか判らない。

アスカは本当はどう思っているのか・・・僕に何を望んでいるのか・・・?

僕はそんなことを少しも考えた事はない。考えても解かる筈ないと思っていた。

何故なら僕はアスカじゃないから・・・だけど、僕には肝心な事が抜けていた。

それは、アスカが倒れて初めて気がついたこと・・・ベッドに横たわる彼女の姿を見て、初めて思い知ったこと・・・

そう・・・アスカが何を思っているのかを察してあげることだった。

僕は愚かだ。 

失いそうになって初めて気が付くなんて・・・それが人を愛するってことなのに・・・

その時僕は初めてアスカを愛していることに気が付いた・・・

 

 

 

 

だから・・・

 

 

 

 

 

「それは・・・出来ません・・・」

 

 

 

 

僕は絞り出すようにして言葉を紡いだ。

「どうして!?」

ミカさんの声が非難の色に変わった。 それでも僕は怯まずに口を開いた。

ここで僕がミカさんの言う事に従ったら、アスカはミカさんに負い目を持ち続けることになる。

ミカさんの事だから、きっとアスカには黙っているとは思う・・・でも、それで僕がアスカを救ったとしたら、アスカは僕を蔑むだろう。

自分の身の上に同情して傍に居るのかと・・・僕がアスカの立場なら、きっとそう思う。

だから出来なかった。

「僕は・・・多分・・・いえ、間違いなく彼女を愛してます・・・だから出来ないんです。 アスカを救うとか、助けるとか・・・そんな偉そうなことは出来ません。 ごめんなさい・・・」

僕は今、自分の正直な気持ちを打ち明けていた。

「碇君・・・」

「僕はアスカの力になりたいんです・・・救うとか助けるとか・・・そんなことじゃなく、ありのままのアスカを見ていたいんです。今この時を全力で生きるアスカを受け止めたいんです。」

奇麗事と笑われるかもしれない。それでも僕は構わないと思った。

アスカが幸せになるのなら、それが一番だと思うから・・・その気持ちに嘘はなかった。

僕に振り向いて貰わなくてもいい、アスカの生きざまをどこかで見守り続けることが出来るのなら・・・それで良い。

僕にはそんな生き方しか出来ない。

 

「そうね・・・そうよね・・・」

 

ミカさんは穏やかに微笑んだ。

「ごめんなさい、碇君・・・私、どうかしてたわ。」

ミカさんは、軽く僕の肩に手を触れた。

「これからも・・・アスカちゃんの事・・・よろしくね・・・」

ミカさんは、静かに口を開き立ち去ろうとした。

「・・・一つ・・・お伺いしても良いですか?」

僕はミカさんに振り返って声を掛けた。

「何かしら?」

「どうして・・・そこまでアスカのことを・・・?」

僕の質問に、ミカさんは暫く黙り込み・・・やがて、躊躇いを振り払うように口を開いた。

「姉妹で・・・同じ一人の男性を愛してしまった・・・それだけよ・・・私の血を引いていなくても、あの娘にはあの人の血が受け継がれている・・・憎んだり呪ったこともあるけど、あの娘だけがあの人の子供・・・だからかな。」

ミカさんは、はにかむように微笑むと、ヒールの音を規則正しく立てて、歩いていった。

僕は、ミカさんの後姿を見送ると大空を見上げた。

彼方の空には、一羽の鳥が羽をはばたかせ飛び去っていく。

それは、夢を追い求めて飛び立とうとする、まさに『飛鳥』だった。

 

 

 

アスカが夢を追い求めて羽ばたいているように、僕も休めた翼を再び羽ばたかせよう。

僕の心の中で今、大きな翼が広がろうとしていた。

 

 

 

TO BE CONTINUED...

Produced on Nov.29th '01