2021年3月、初七日の気持ちでおりましたがようやく落ち着いてきました。
「時に、西暦2015年」
で始まるエヴァが放映を開始した1995年10月4日時点において、自分は何歳だったっけと思ったら18歳の年だった。
長野に住んでいてテレビで見る事は出来なかったが、自宅がケーブルテレビに加入している友人(今も親交がある)がえらい勢いで勧めてきてたっけ。時期的にヤシマ作戦くらいの頃だったか、その時は「ふーん、そうなの?」だったし、そういえばずっと前に買ったベルダンディーが表紙のアニメージュに制作中の旨が小さく書いてあったっけ、なんてことを思い出したりもした。
まだその頃はインターネットが全然普及していないどころか一部企業と学術機関くらいしか使っていなくて、WebブラウザなんてNCSA MosaicかNetscape1.0くらいなものだった。主にNetnewsとメーリングリスト、そしてIRCがコミュニケーションの手段だった。(IRCは今でも使っているけども)
そんなわけで情報の地域間格差を埋めるにはインターネットしかなかったわけだけど、エヴァの視聴に関してだけはその地域格差を埋めることは叶わず、ケーブルTV神が「(録画の)マスターだから絶対に消すなよ!」と念を押しながらもたらしてくれるSVHS録画のテープをまずVHSテープに標準画質でダビングさせて頂いた上で視聴用テープに3倍画質で更にダビングするというややこしい手順を踏んだりしていた。3倍だと26話のアニメが2本で収まるんだよね。
そして25/26話は結局のところリアルタイムで追えないままに、先にネットで文字起こしされたものを見て「ふーん??よくわからん」となってしまうのだけれども、後で見ても「ううん…」となっていたのであった。紛糾するラストではあったが、その熱からは遠く離れた所に居たのだなあ。ただしコンテンツとしてはそれはもうハマるものだったので、別に嫌いになるわけでもなく、むしろ好きなのは継続していた。
97年春のデスリバはなぜか7回見た。暇だったとしか言いようがない。7回もあれを見るのは今でもちょっとどうかしていたと思うのだが、映像快楽として考えるとやっぱり好きだったんだろうなあ。テンポがよかった。
そして97年夏のEoE。ここがどうやらターニングポイントになると思うのだが、初見で行ったのは今は亡き渋谷の東急文化会館。あの五島プラネタリウムがあった建物だ。現在は渋谷ヒカリエがズドンと建っているあの場所で映画を見たのはそれが最後だったかもしれない。プラネタリウムにはZABADAK関連のイベントで2〜3度足を運んではいるのだが……さておき、渋谷東急がそうなのか、その時代の映画館が大体そうだったのか、割と防音がザルだったりして、すぐ表で入れ替え待ちをしていると低音と高い声は割と聞こえてくるのであった。補完計画が始まったあたりでシンジが絶叫するのだが、その声だけうっすら聞こえてきて「一体何が起きているんだ…????」となったりもした。
あの直後の自分のEoE評はどうだったろう。TV版25/26話とデスリバを踏まえてだから「ちゃんとアクションしてエヴァっぽく終わったかな」くらいだったのかな。悪い印象は全然なかった。「気持ち悪い」で終わるのもエヴァっぽかったし、好きなコンテンツの「終わり」という気持ちが先に立ってしばらく呆けていたのだろうか。思ったよりも全然ちゃんと終わったなあと。ここまでがエヴァと自分の係わり第一章。
こうして見るとどことなく淡白に見えるが、テレビ版は3倍画質で何百回も見たしそれなりに濃かったとは思う。
97年夏となれば、その頃にはインターネットではWeb文化がすっかり開花しており、自分のホームページをジオシティーズなどで作ったり掲示板にカキコしたらキリ番ゲットしたり相互リンクしたりYahooで検索したりする文化が根付き始めていた。そしてエヴァンゲリオンという妙にネットと親和性が高いコンテンツは二次的な消費を物凄い勢いで加速していくことになる。
巻き起こる考察、感想、論争、罵倒、エヴァサイト群の乱立、二次創作におけるLASとLRSの二極化、云々。その頃は庵野監督叩きが目立ってもいた。「庵野」って呼び捨てにするのを皮切りにあれこれと論評っぽいことをすれば、いい感じのイキリオタク完成である。(今もそういう人、居るよね…)その頃を思い出すと、庵野監督っぽい「ヒゲメガネ」というキャラを作りボコボコにさせていた本田透などは今思い出しても全然面白くなかったなあと思う。実在の人物をモチーフにやったらいかんよな…でもやはり一部にはそれを許容する変な空気があった。あれはコンテンツを最終的に破壊した戦犯なのだからとことん叩いてよし、みたいなの。ネットはとにかく混沌としていた。
一方、書店などでは謎本の類もたくさん出ていた。エヴァが意味があるんだかないんだかわからないテクストとオマージュの塊で咀嚼が難しいために雨後のタケノコのように出てきたのだが、後で考えるに、以下の物を購入すればそれで十分だったなあと思う。
・公式のフィルムブック(角川)
・スキゾ/パラノ・エヴァンゲリオン(太田出版)
・残酷な天使のように―新世紀エヴァンゲリオンJUNE読本 (JUNE編集部)
特にJUNE別冊は新谷かおると樋口真嗣の対談でカヲル&シンジ対談という「あほちゃう?」(誉め言葉)ページがあったりしてとても読み応えがあった。
そんな感じで映像作品としての完結を経てから先は二次的な消費活動を繰り返すことになる。DVDの普及が始まったのもこの頃か。まだブロックノイズが見えるけどVHSで見るよりはマシ、LDこそ間違いない、みたいな印象だった気がする。
この辺からエヴァとの係わりは第二章の始まりというわけだ。
同人誌を買わずとも他人の書いた二次創作が読めるのは画期的なことで(NIFTYや草の根にはあったのだろうけど触れる機会は少なかった)インターネットで自由に読めるSS群は宝の山だったし、片っ端から読み始めた。EoEを経て以降、シンジとアスカの関係性に妙に「しっくり来る」ものを感じたのか、それはもう一気に、落石のようにLASサイドに傾倒していくこととなる。
実際の所、この辺の嗜好は2021年現在もあまり変わらないし、そのクラスタで活動するにあたって得られたものは非常に多かった。
98年になって関東に住むようになるとオフ会もそうだしコミケにも自由に行けるようになる。エヴァ本を出すさまざまなサークルの人とも友達になったし、後に結婚する相手と知り合うのもこの頃で、同じSS書きだったりもする。なんと数奇な話か。
バイトをして自由にできるお金も増えたのでエヴァに関してはLDを秋葉原のヤマギワとかリバティーとかで買い揃え始めた。その頃パイオニアがLD-S9というLDプレーヤーを出しており、これが公式ページで「第10話『マグマダイバー』の話に出てくる,赤いマグマの透明感をぜひ味わって欲しい」とかちょっと頭おかしい紹介文で煽ってくるものだから中古で買ったりしたり。EoEのボックスも買ったっけ。あの黒くてでかい、デカ綾波のパッケージのやつ。量産機プラモデルが入っていて全然嬉しくなかったやつ!!
……話を戻そう。EoE以降の二次的な消費活動をきっかけに自分でも駄文を書き散らしたりサイトを立ち上げたりした。99年8月にはこのevangelion.netというドメインを譲り受け、そこから21年半以上維持し続けているわけである。その頃生まれた子供はもう立派に成人式だ。
(余談:ドメインを取得してから数年後に元G社の中の人と話した時に「うちのドメイン、G社の中ではどんな扱いなんすかね…?」って聞いたら「あー、みんな知ってるよ?」ということらしく「公式黙認なのだな」と思ったりもした)
今もこのドメインのトップに残骸として残っているサイト(特に消す予定も何もない)については当時、意外と色々な人が見ていたらしく、十何年経ってからagraphこと牛尾憲輔氏が「高校の時にスゲー見てました」って言ってくれたりして、大変だー!ってなったりとか、誰かの人生に爪痕を残せているというのは、やっといて良かったなあと思うのである。何もしないよりはずっとよかった。
そこから更に時間は経過していく。
ノストラダムスの大予言も来ず、セカンドインパクトの日(2000/09/13)をあっさりと乗り越えて就職し、社会人になり、やがてエヴァのコンテンツとしての展開も下火になってきた。コミケでもかつての大手ジャンルぶりは年々となりを潜め、サークル数が減って、両手両足で数え切れるくらいにまで減少して行った。これは新劇場版を経てもそう変わらなかった。
自分の行動範囲も変わっていく。
社会人になってクラブ活動を始めて、友達100人どころではないくらいに知人友人が増えて交友範囲が広がって、オタクじゃない人もそうじゃない人とも知り合って、色々な所に行ったり遊んだり、その中で初めて箱根に行ったりもした。芦ノ湖を見ながら「そういや聖地巡礼というものをまともにやってなかったなあ」と思ったりもした。
そのくらいエヴァというコンテンツはEoEで十分に完結したものとして、時間とともに薄れていたのであった。
序。2007年09月15日、新宿ミラノ座に行くまでは。
実は「新劇場版」という響きがあまりピンと来なくて、あまり観に行く気は無かったのだ。映像が綺麗になったリメイクなんでしょ?という程度の印象だったんで「別に映画館で見なくてもよくない?」と思ってたんだけど、嫁さんに行こうと言われて行ってみたら、映像が一気にリニューアルしたヤシマ作戦と、そして次回予告。あの予告を見て本当に参っちゃったというか「あーっ!?その手で来たのか!それやっちゃうのか!?」と周りが明るくなってから顔を手で覆ってしまった。隣の嫁は「???」って顔をしていたのだろうけど。
あの「月から来る六号機〜拾三号機」のくだり。TV版エヴァを始める際にガイナックスがTV東京へ出した企画書に書いてある、最終的には実現しなかったあらすじの24話がそれである。その幻の24話以降を新たに劇場版で実現すると明言するあの予告、流石にあれは意表を突かれてしまったと同時に、かなり興奮もしていた。ああわかったよ!最後まで付き合ってやるよ!としか言い様が無かった。ああ参ったな。一生付き合っていく病気だったかこれは。なら仕方ねぇな、と。
そしてその幻のプロット26話にはこう書いてある。
「大団円」と。
終わるんか!?本当に終わるんか!?あのEoEの赤い海でキモチワルイではなく、誰もが大団円と思えるラストを作れるんか!?……その答えが判明するには更に13年半の時間を要することになるのだが、当然の事ながらその時は知る由もない。今にして思えば、なんだよ13年半って。序の公開の頃に生まれた子供がチルドレンの年になるくらいの年月じゃないか…って、あ、そういうことなの???と思ったけど延期が続いたので、これは単なる偶然ですね。
そして、破。2009年6月28日、シネマサンシャイン池袋にて。
終わった直後に拍手が巻き起こるアニメ映画って何なんだよ本当に。
そして、エヴァの映画が!生きているうちに新作が!また観れるなんて!こんな嬉しいことがあるか!!観始める前と後でテンションが全然違った。序の頃は「あー面白かった」だけど破は「これが!!こういうのが、見たかったんだよ!!」だったし、そういう人も多かったと思う。TV版18話前後の展開を踏襲しつつもその時とは違う展開となることで「リビルドながらも違うエヴァになってきた」感はいよいよ高くなり(アスカの扱いはさておき…)相当に「違う結末」が見られるんじゃないか??という期待は全国的に高まったのではないだろうか。
「やっぱエヴァすげーなーおもしれーなーエヴァな上にエンタメ出来てるもんなーテレビ版の「おめでとう」もいよいよ過去の物か」ってなってたと思う。賛否のうち、ここまで「賛」が圧倒的だったのはやはり最後のイケイケ感の中での展開が「顧客が真に見たかったもの」だったからなのだろう。ポジティブで能動的なシンジというものはそれだけで新鮮だった。
やがて、Q。2012年11月18日、新宿バルト9にて。
次回予告が流れ、映画が終わった。照明が点いた。
公開二日目で初見の人ばかり。しかし前のような拍手は起こらなかった。破の時は初見は池袋で、バルト9ではなかったけども、それは盛大な拍手が起きたのだ。ところがどうだろう、皆が皆、無言でゆっくりと立ち上がり、無言で劇場を出ていく。最初は自分たちもそんな感じだった。この重苦しい雰囲気…劇場全体に漂うこの何とも言えない空気…これ知ってるぞ…そう、EOEを見た時のような雰囲気じゃないか。
あの破を引き継いだ上でQは更に爽快な作品になっているのだろうと油断していた…これはなんというか「エヴァンゲリオン」だった!誤解が無いように言っておくとこの「Q」鑑賞は間違いなく自分の心に爪痕を残す映像体験だったのは間違いない。アクションも破よりとても多く、どのカットを取ってもアニメ作品としては恐ろしいクオリティ。これは新劇場版として期待された事をそれなりにやった上で「エヴァンゲリオン」だったのだ。
TV版やEoEに準拠したシナリオで、いちいち説明的なものが「Q」だったとして、それの何が面白いのか!だってそうだろう、我々はTV版で毎週毎週の放映を心待ちにして、その中から溢れる膨大なテクストをああでもないこうでもないと一生懸命に咀嚼していたじゃないか。それをもう一度やろうってことか。過去に無い凄まじい量のテクストで。
わかんない。わかんないけど何か凄い、わかんないから良い。
かつて庵野監督が「サービス過多」だと自ら揶揄した手法を更に過剰にして行うという「エヴァを超えるにはエヴァらしい手法で」と言わんばかりのやり口。お陰で我々はまた過度に饒舌になってしまった。面倒くせえなオタクってのは。そうだ、俺はとても厄介で面倒で卑屈なオタクだった。大人になってからそれを何となく忘れていたよ。
そして8年と数か月が経った。僕らは更に年を重ねた。
物事には始まりがあり、そして終わりもある。その終わりがどうやら来るらしい。
2012年にQを見た頃には想像もつかなかったことに、世界的な疫病が流行って人々の生活に暗い影を落としていた。かつてのノストラダムス大予言以上に「世紀末」でリアルに暗い影を落とす出来事だった。その影響を受けて終わりは何度か先延ばしとなった。その度に言っていたことがある。
「別に終わらなくていいのに」
作る側はすっかり準備を整えて「落とし前」をつけに来たのだけれども、そもそもが新劇場版はEoE以降に新しい映像を見られるという点で最初からずっとボーナスステージでありエクストラステージである。シューティングゲームでエンディングの後に自動的に2周目が始まって更に遊べるような、そんなお得な存在だったはずだったのだが、序・破までは良かったけど、Qがそうはさせてくれなかった。既に新劇場版エヴァはボーナスステージではなかった。
とうとう自分たちに「落とし前」を付ける順番が回ってきてしまった。
シン。2021年3月13日、新宿バルト9。
ロビーやシアターの外で待つ人たちはどこかソワソワしていて、多くを語らず、どこか確固たる覚悟のようなものを抱えていた。僕らは介錯をする側なのか、される側なのか。コンテンツの最期を見届ける155分間。
最初に思ったのは「今の技術でEoEそのものをやり直すとは、思わなかったなあ…」だった。主に後半のゲンドウとシンジのくだりの所だけども。破とQの間に世界がどうなったのか、ニアサードインパクトの影響は、そもそも人類はどうなってしまったのか、前半ではその辺りの説明を、ちゃんと時間を割いてやっていた。
とにかく丁寧な印象だった。Qであれだけわからんわからんとされていた14年間の世界の変容が結構きちんと描かれていた。登場人物が旧劇よりもずっとポジティブだし、破までの生活を振り返ってシンジがアスカに「好きだったよ」と面と向かって言ってしまうくらいのポジティブさ。これには正直驚いた。
なんてこった、本当に終わらせに来た。これをやられたら、本当にやられてしまったら…
エヴァが終わってしまうじゃないか。
はっきり「それ」と分かる形で、エヴァは目の前で終わった。EoEの終わり方、渚にて「気持ち悪い」で終わり、不完全ゆえに多くの人をあの時代に置き去りにした結末とは対照的に、とてもはっきりした形でエヴァンゲリオンは終わった。中でも象徴的だったのは、本当に最初の最初、TV版の第壱話から何度も何度も出てきた、駅のホームで捨てられて泣いている子供のシンジを、ゲンドウが25年越しで抱きしめたシーンだった。その映像を以って、エヴァはこれ以上ないほどに終わってしまった。
EoEでは浅めだったゲンドウの掘り下げをここまで深くやったことは個人的にはとても好印象で「父親ってのは肩を抱いてやるか殺すしかない」とミサトが言った後に、シンジがゲンドウを知る中で肩を抱く方を選んだ。父は息子に恐怖し、息子は父に恐怖し、そういったすれ違いを対話で克服することでエディプスコンプレックスを抱える物語としても終わりを告げた。
総じて、EoEを現在の技術でリビルドしつつ、更にわかりやすく、新たな可能性、いくつかある終局の一つを提示できたという事実にとても満足している。思ったよりも終わりをきちんと受け入れられたのは、庵野監督もそうだけど、自分も結婚して結構な時間が経っているからかもしれない。97年の時は一人だったけど、新劇場版の各初回は全て二人で観た。そこは大きな違いになっていると思う。
時に、西暦2021年。あれから25年。25年かあ…。ネオンジェネシスとなり、未だに世界は色々と大変だけど、終わりをちゃんと見届けられたのは良かったかな。ちょっと咀嚼に時間がかかる気はするけど。制作に携わった方々に、お疲れ様でした、と、まずはそういう気持ちです。
ここから先はオマケ的な雑感。
長らくLASサイドの人間として生きているからには当然のことながら「引っ掛かる」のはケンケンの件なんだよなー。同じ引っ掛かりを持った人は全国に多数いるだろうし、我が家では夫婦そろって「アスカ!嫁入り前の子が男に肌を晒すなんてみっともない!」とハラハラしておりました。作中では明確に描写されているわけではないけど、あの扱いについては喉に刺さった魚の小骨のように一生残り続けるのではないかと。流石にそこだけは未練になる。
新しいバージョンのポスターでは一番遠くに配置されているのでオフィシャル的には「そういう感じではない」と明示された気がするので、そこがなんというか救いと言えば救いなんだけども。世の中、こうと決めつけられたら戦争になることは沢山あるのだぜ。
あとエヴァの呪縛が解けた28歳アスカ(?)えろすぎです。なんだあれ。子供の教育に良くないのであのためにブルーレイ買うまである。いつ出るんだろう。半年くらい公開するだろうから来年春から夏くらいかな。
それまで、世界が平和でありますように。
God's in his heaven.all's right with the world.
「時に、西暦2015年」
で始まるエヴァが放映を開始した1995年10月4日時点において、自分は何歳だったっけと思ったら18歳の年だった。
長野に住んでいてテレビで見る事は出来なかったが、自宅がケーブルテレビに加入している友人(今も親交がある)がえらい勢いで勧めてきてたっけ。時期的にヤシマ作戦くらいの頃だったか、その時は「ふーん、そうなの?」だったし、そういえばずっと前に買ったベルダンディーが表紙のアニメージュに制作中の旨が小さく書いてあったっけ、なんてことを思い出したりもした。
まだその頃はインターネットが全然普及していないどころか一部企業と学術機関くらいしか使っていなくて、WebブラウザなんてNCSA MosaicかNetscape1.0くらいなものだった。主にNetnewsとメーリングリスト、そしてIRCがコミュニケーションの手段だった。(IRCは今でも使っているけども)
そんなわけで情報の地域間格差を埋めるにはインターネットしかなかったわけだけど、エヴァの視聴に関してだけはその地域格差を埋めることは叶わず、ケーブルTV神が「(録画の)マスターだから絶対に消すなよ!」と念を押しながらもたらしてくれるSVHS録画のテープをまずVHSテープに標準画質でダビングさせて頂いた上で視聴用テープに3倍画質で更にダビングするというややこしい手順を踏んだりしていた。3倍だと26話のアニメが2本で収まるんだよね。
そして25/26話は結局のところリアルタイムで追えないままに、先にネットで文字起こしされたものを見て「ふーん??よくわからん」となってしまうのだけれども、後で見ても「ううん…」となっていたのであった。紛糾するラストではあったが、その熱からは遠く離れた所に居たのだなあ。ただしコンテンツとしてはそれはもうハマるものだったので、別に嫌いになるわけでもなく、むしろ好きなのは継続していた。
97年春のデスリバはなぜか7回見た。暇だったとしか言いようがない。7回もあれを見るのは今でもちょっとどうかしていたと思うのだが、映像快楽として考えるとやっぱり好きだったんだろうなあ。テンポがよかった。
そして97年夏のEoE。ここがどうやらターニングポイントになると思うのだが、初見で行ったのは今は亡き渋谷の東急文化会館。あの五島プラネタリウムがあった建物だ。現在は渋谷ヒカリエがズドンと建っているあの場所で映画を見たのはそれが最後だったかもしれない。プラネタリウムにはZABADAK関連のイベントで2〜3度足を運んではいるのだが……さておき、渋谷東急がそうなのか、その時代の映画館が大体そうだったのか、割と防音がザルだったりして、すぐ表で入れ替え待ちをしていると低音と高い声は割と聞こえてくるのであった。補完計画が始まったあたりでシンジが絶叫するのだが、その声だけうっすら聞こえてきて「一体何が起きているんだ…????」となったりもした。
あの直後の自分のEoE評はどうだったろう。TV版25/26話とデスリバを踏まえてだから「ちゃんとアクションしてエヴァっぽく終わったかな」くらいだったのかな。悪い印象は全然なかった。「気持ち悪い」で終わるのもエヴァっぽかったし、好きなコンテンツの「終わり」という気持ちが先に立ってしばらく呆けていたのだろうか。思ったよりも全然ちゃんと終わったなあと。ここまでがエヴァと自分の係わり第一章。
こうして見るとどことなく淡白に見えるが、テレビ版は3倍画質で何百回も見たしそれなりに濃かったとは思う。
97年夏となれば、その頃にはインターネットではWeb文化がすっかり開花しており、自分のホームページをジオシティーズなどで作ったり掲示板にカキコしたらキリ番ゲットしたり相互リンクしたりYahooで検索したりする文化が根付き始めていた。そしてエヴァンゲリオンという妙にネットと親和性が高いコンテンツは二次的な消費を物凄い勢いで加速していくことになる。
巻き起こる考察、感想、論争、罵倒、エヴァサイト群の乱立、二次創作におけるLASとLRSの二極化、云々。その頃は庵野監督叩きが目立ってもいた。「庵野」って呼び捨てにするのを皮切りにあれこれと論評っぽいことをすれば、いい感じのイキリオタク完成である。(今もそういう人、居るよね…)その頃を思い出すと、庵野監督っぽい「ヒゲメガネ」というキャラを作りボコボコにさせていた本田透などは今思い出しても全然面白くなかったなあと思う。実在の人物をモチーフにやったらいかんよな…でもやはり一部にはそれを許容する変な空気があった。あれはコンテンツを最終的に破壊した戦犯なのだからとことん叩いてよし、みたいなの。ネットはとにかく混沌としていた。
一方、書店などでは謎本の類もたくさん出ていた。エヴァが意味があるんだかないんだかわからないテクストとオマージュの塊で咀嚼が難しいために雨後のタケノコのように出てきたのだが、後で考えるに、以下の物を購入すればそれで十分だったなあと思う。
・公式のフィルムブック(角川)
・スキゾ/パラノ・エヴァンゲリオン(太田出版)
・残酷な天使のように―新世紀エヴァンゲリオンJUNE読本 (JUNE編集部)
特にJUNE別冊は新谷かおると樋口真嗣の対談でカヲル&シンジ対談という「あほちゃう?」(誉め言葉)ページがあったりしてとても読み応えがあった。
そんな感じで映像作品としての完結を経てから先は二次的な消費活動を繰り返すことになる。DVDの普及が始まったのもこの頃か。まだブロックノイズが見えるけどVHSで見るよりはマシ、LDこそ間違いない、みたいな印象だった気がする。
この辺からエヴァとの係わりは第二章の始まりというわけだ。
同人誌を買わずとも他人の書いた二次創作が読めるのは画期的なことで(NIFTYや草の根にはあったのだろうけど触れる機会は少なかった)インターネットで自由に読めるSS群は宝の山だったし、片っ端から読み始めた。EoEを経て以降、シンジとアスカの関係性に妙に「しっくり来る」ものを感じたのか、それはもう一気に、落石のようにLASサイドに傾倒していくこととなる。
実際の所、この辺の嗜好は2021年現在もあまり変わらないし、そのクラスタで活動するにあたって得られたものは非常に多かった。
98年になって関東に住むようになるとオフ会もそうだしコミケにも自由に行けるようになる。エヴァ本を出すさまざまなサークルの人とも友達になったし、後に結婚する相手と知り合うのもこの頃で、同じSS書きだったりもする。なんと数奇な話か。
バイトをして自由にできるお金も増えたのでエヴァに関してはLDを秋葉原のヤマギワとかリバティーとかで買い揃え始めた。その頃パイオニアがLD-S9というLDプレーヤーを出しており、これが公式ページで「第10話『マグマダイバー』の話に出てくる,赤いマグマの透明感をぜひ味わって欲しい」とかちょっと頭おかしい紹介文で煽ってくるものだから中古で買ったりしたり。EoEのボックスも買ったっけ。あの黒くてでかい、デカ綾波のパッケージのやつ。量産機プラモデルが入っていて全然嬉しくなかったやつ!!
……話を戻そう。EoE以降の二次的な消費活動をきっかけに自分でも駄文を書き散らしたりサイトを立ち上げたりした。99年8月にはこのevangelion.netというドメインを譲り受け、そこから21年半以上維持し続けているわけである。その頃生まれた子供はもう立派に成人式だ。
(余談:ドメインを取得してから数年後に元G社の中の人と話した時に「うちのドメイン、G社の中ではどんな扱いなんすかね…?」って聞いたら「あー、みんな知ってるよ?」ということらしく「公式黙認なのだな」と思ったりもした)
今もこのドメインのトップに残骸として残っているサイト(特に消す予定も何もない)については当時、意外と色々な人が見ていたらしく、十何年経ってからagraphこと牛尾憲輔氏が「高校の時にスゲー見てました」って言ってくれたりして、大変だー!ってなったりとか、誰かの人生に爪痕を残せているというのは、やっといて良かったなあと思うのである。何もしないよりはずっとよかった。
そこから更に時間は経過していく。
ノストラダムスの大予言も来ず、セカンドインパクトの日(2000/09/13)をあっさりと乗り越えて就職し、社会人になり、やがてエヴァのコンテンツとしての展開も下火になってきた。コミケでもかつての大手ジャンルぶりは年々となりを潜め、サークル数が減って、両手両足で数え切れるくらいにまで減少して行った。これは新劇場版を経てもそう変わらなかった。
自分の行動範囲も変わっていく。
社会人になってクラブ活動を始めて、友達100人どころではないくらいに知人友人が増えて交友範囲が広がって、オタクじゃない人もそうじゃない人とも知り合って、色々な所に行ったり遊んだり、その中で初めて箱根に行ったりもした。芦ノ湖を見ながら「そういや聖地巡礼というものをまともにやってなかったなあ」と思ったりもした。
そのくらいエヴァというコンテンツはEoEで十分に完結したものとして、時間とともに薄れていたのであった。
序。2007年09月15日、新宿ミラノ座に行くまでは。
実は「新劇場版」という響きがあまりピンと来なくて、あまり観に行く気は無かったのだ。映像が綺麗になったリメイクなんでしょ?という程度の印象だったんで「別に映画館で見なくてもよくない?」と思ってたんだけど、嫁さんに行こうと言われて行ってみたら、映像が一気にリニューアルしたヤシマ作戦と、そして次回予告。あの予告を見て本当に参っちゃったというか「あーっ!?その手で来たのか!それやっちゃうのか!?」と周りが明るくなってから顔を手で覆ってしまった。隣の嫁は「???」って顔をしていたのだろうけど。
あの「月から来る六号機〜拾三号機」のくだり。TV版エヴァを始める際にガイナックスがTV東京へ出した企画書に書いてある、最終的には実現しなかったあらすじの24話がそれである。その幻の24話以降を新たに劇場版で実現すると明言するあの予告、流石にあれは意表を突かれてしまったと同時に、かなり興奮もしていた。ああわかったよ!最後まで付き合ってやるよ!としか言い様が無かった。ああ参ったな。一生付き合っていく病気だったかこれは。なら仕方ねぇな、と。
そしてその幻のプロット26話にはこう書いてある。
「大団円」と。
終わるんか!?本当に終わるんか!?あのEoEの赤い海でキモチワルイではなく、誰もが大団円と思えるラストを作れるんか!?……その答えが判明するには更に13年半の時間を要することになるのだが、当然の事ながらその時は知る由もない。今にして思えば、なんだよ13年半って。序の公開の頃に生まれた子供がチルドレンの年になるくらいの年月じゃないか…って、あ、そういうことなの???と思ったけど延期が続いたので、これは単なる偶然ですね。
そして、破。2009年6月28日、シネマサンシャイン池袋にて。
終わった直後に拍手が巻き起こるアニメ映画って何なんだよ本当に。
そして、エヴァの映画が!生きているうちに新作が!また観れるなんて!こんな嬉しいことがあるか!!観始める前と後でテンションが全然違った。序の頃は「あー面白かった」だけど破は「これが!!こういうのが、見たかったんだよ!!」だったし、そういう人も多かったと思う。TV版18話前後の展開を踏襲しつつもその時とは違う展開となることで「リビルドながらも違うエヴァになってきた」感はいよいよ高くなり(アスカの扱いはさておき…)相当に「違う結末」が見られるんじゃないか??という期待は全国的に高まったのではないだろうか。
「やっぱエヴァすげーなーおもしれーなーエヴァな上にエンタメ出来てるもんなーテレビ版の「おめでとう」もいよいよ過去の物か」ってなってたと思う。賛否のうち、ここまで「賛」が圧倒的だったのはやはり最後のイケイケ感の中での展開が「顧客が真に見たかったもの」だったからなのだろう。ポジティブで能動的なシンジというものはそれだけで新鮮だった。
やがて、Q。2012年11月18日、新宿バルト9にて。
次回予告が流れ、映画が終わった。照明が点いた。
公開二日目で初見の人ばかり。しかし前のような拍手は起こらなかった。破の時は初見は池袋で、バルト9ではなかったけども、それは盛大な拍手が起きたのだ。ところがどうだろう、皆が皆、無言でゆっくりと立ち上がり、無言で劇場を出ていく。最初は自分たちもそんな感じだった。この重苦しい雰囲気…劇場全体に漂うこの何とも言えない空気…これ知ってるぞ…そう、EOEを見た時のような雰囲気じゃないか。
あの破を引き継いだ上でQは更に爽快な作品になっているのだろうと油断していた…これはなんというか「エヴァンゲリオン」だった!誤解が無いように言っておくとこの「Q」鑑賞は間違いなく自分の心に爪痕を残す映像体験だったのは間違いない。アクションも破よりとても多く、どのカットを取ってもアニメ作品としては恐ろしいクオリティ。これは新劇場版として期待された事をそれなりにやった上で「エヴァンゲリオン」だったのだ。
TV版やEoEに準拠したシナリオで、いちいち説明的なものが「Q」だったとして、それの何が面白いのか!だってそうだろう、我々はTV版で毎週毎週の放映を心待ちにして、その中から溢れる膨大なテクストをああでもないこうでもないと一生懸命に咀嚼していたじゃないか。それをもう一度やろうってことか。過去に無い凄まじい量のテクストで。
わかんない。わかんないけど何か凄い、わかんないから良い。
かつて庵野監督が「サービス過多」だと自ら揶揄した手法を更に過剰にして行うという「エヴァを超えるにはエヴァらしい手法で」と言わんばかりのやり口。お陰で我々はまた過度に饒舌になってしまった。面倒くせえなオタクってのは。そうだ、俺はとても厄介で面倒で卑屈なオタクだった。大人になってからそれを何となく忘れていたよ。
そして8年と数か月が経った。僕らは更に年を重ねた。
物事には始まりがあり、そして終わりもある。その終わりがどうやら来るらしい。
2012年にQを見た頃には想像もつかなかったことに、世界的な疫病が流行って人々の生活に暗い影を落としていた。かつてのノストラダムス大予言以上に「世紀末」でリアルに暗い影を落とす出来事だった。その影響を受けて終わりは何度か先延ばしとなった。その度に言っていたことがある。
「別に終わらなくていいのに」
作る側はすっかり準備を整えて「落とし前」をつけに来たのだけれども、そもそもが新劇場版はEoE以降に新しい映像を見られるという点で最初からずっとボーナスステージでありエクストラステージである。シューティングゲームでエンディングの後に自動的に2周目が始まって更に遊べるような、そんなお得な存在だったはずだったのだが、序・破までは良かったけど、Qがそうはさせてくれなかった。既に新劇場版エヴァはボーナスステージではなかった。
とうとう自分たちに「落とし前」を付ける順番が回ってきてしまった。
シン。2021年3月13日、新宿バルト9。
ロビーやシアターの外で待つ人たちはどこかソワソワしていて、多くを語らず、どこか確固たる覚悟のようなものを抱えていた。僕らは介錯をする側なのか、される側なのか。コンテンツの最期を見届ける155分間。
最初に思ったのは「今の技術でEoEそのものをやり直すとは、思わなかったなあ…」だった。主に後半のゲンドウとシンジのくだりの所だけども。破とQの間に世界がどうなったのか、ニアサードインパクトの影響は、そもそも人類はどうなってしまったのか、前半ではその辺りの説明を、ちゃんと時間を割いてやっていた。
とにかく丁寧な印象だった。Qであれだけわからんわからんとされていた14年間の世界の変容が結構きちんと描かれていた。登場人物が旧劇よりもずっとポジティブだし、破までの生活を振り返ってシンジがアスカに「好きだったよ」と面と向かって言ってしまうくらいのポジティブさ。これには正直驚いた。
なんてこった、本当に終わらせに来た。これをやられたら、本当にやられてしまったら…
エヴァが終わってしまうじゃないか。
はっきり「それ」と分かる形で、エヴァは目の前で終わった。EoEの終わり方、渚にて「気持ち悪い」で終わり、不完全ゆえに多くの人をあの時代に置き去りにした結末とは対照的に、とてもはっきりした形でエヴァンゲリオンは終わった。中でも象徴的だったのは、本当に最初の最初、TV版の第壱話から何度も何度も出てきた、駅のホームで捨てられて泣いている子供のシンジを、ゲンドウが25年越しで抱きしめたシーンだった。その映像を以って、エヴァはこれ以上ないほどに終わってしまった。
EoEでは浅めだったゲンドウの掘り下げをここまで深くやったことは個人的にはとても好印象で「父親ってのは肩を抱いてやるか殺すしかない」とミサトが言った後に、シンジがゲンドウを知る中で肩を抱く方を選んだ。父は息子に恐怖し、息子は父に恐怖し、そういったすれ違いを対話で克服することでエディプスコンプレックスを抱える物語としても終わりを告げた。
総じて、EoEを現在の技術でリビルドしつつ、更にわかりやすく、新たな可能性、いくつかある終局の一つを提示できたという事実にとても満足している。思ったよりも終わりをきちんと受け入れられたのは、庵野監督もそうだけど、自分も結婚して結構な時間が経っているからかもしれない。97年の時は一人だったけど、新劇場版の各初回は全て二人で観た。そこは大きな違いになっていると思う。
時に、西暦2021年。あれから25年。25年かあ…。ネオンジェネシスとなり、未だに世界は色々と大変だけど、終わりをちゃんと見届けられたのは良かったかな。ちょっと咀嚼に時間がかかる気はするけど。制作に携わった方々に、お疲れ様でした、と、まずはそういう気持ちです。
ここから先はオマケ的な雑感。
長らくLASサイドの人間として生きているからには当然のことながら「引っ掛かる」のはケンケンの件なんだよなー。同じ引っ掛かりを持った人は全国に多数いるだろうし、我が家では夫婦そろって「アスカ!嫁入り前の子が男に肌を晒すなんてみっともない!」とハラハラしておりました。作中では明確に描写されているわけではないけど、あの扱いについては喉に刺さった魚の小骨のように一生残り続けるのではないかと。流石にそこだけは未練になる。
新しいバージョンのポスターでは一番遠くに配置されているのでオフィシャル的には「そういう感じではない」と明示された気がするので、そこがなんというか救いと言えば救いなんだけども。世の中、こうと決めつけられたら戦争になることは沢山あるのだぜ。
あとエヴァの呪縛が解けた28歳アスカ(?)えろすぎです。なんだあれ。子供の教育に良くないのであのためにブルーレイ買うまである。いつ出るんだろう。半年くらい公開するだろうから来年春から夏くらいかな。
それまで、世界が平和でありますように。
God's in his heaven.all's right with the world.